
これからの俳句は弾圧とは無縁
何かの勘違いであってほしいし、誰の発言かもわからないけど、先日、俳人達の話を聞いていたら、2014年の9条俳句掲載拒否事件※について触れだして、「活動家が盛り上がってただけ」というようなことを言って次の話題へ移っていった。俺は「そっかぁ…」と深く嘆息した。
本来、怒るべきだったのは、声を発すべきだったのは誰か…それを考えれば「活動家」が盛り上がってるだけという事態は、俳句に携わる者ならむしろ深く恥じ入る他にないと思うのだが、彼にとってはそうではなく、「下手な俳句を部外者が持ち上げる様」が失笑に値する出来事だったのだろうか。
結局しばらく聞いてもその印象は覆らず、誰の発言かもわからず、他の聴取者も特に反応することもなく、跡形もなく流れて消えていった。
でも、その掲載拒否事件の裁判が区の敗訴で終わって、俳句の自由が辛うじて墜落せずに済んだのは、そいつが笑った「活動家」のおかげだったことは、どう俳句史に残るのだろうか。
「俳人は冷めた目で見てましたが活動家が俳句の表現の自由を守ってくれました」?
こんな誰が言ったか分からない不確かなことを蒸し返してもしょうがないし、確かに聞いたと言っても、さすがにこの発言は俺の勘違いであってほしい。そう思ってしばらくどんよりと絶望するだけで、ツイッターではその件について何も発信できなかった。
むしろ政治的な話題を避け、楽しさに逃げた。しかしこの暗澹たる気持ちを抱えたまま楽しく生きるのは、結構辛く、結局不確かながらもここに吐き出しているというわけだ。
主催者に聞けば詳細が分かるかもしれないけど、私よりずっと俳句の未来に影響を与える人間だろうことは恐らく確かで、今俺が何か言っても、まさしく、ごまめの歯ぎしりにしかならない。
そんな彼の考えがこれからの主流だとしたら、彼らの俳句は、弾圧とは無縁に繁茂していくことになるだろう。
それを傍流から見続けたいかと言われれば、やはり俺は嫌だな。芸術とも表現の自由とも無縁の安全圏から一歩も出ないことを何とも思わないだろう人たちの作るものに、感動したり褒めたり批評したりなどしたくない。
そうなると、戦うしかないのか。異物たらんとし続けるしかないのか。もとより慣れたりしないとは以前宣言した通りだが。
やはり主催者に機会を見て聞きます。この件をこのまま続けるにしてももう触れないにしても、誰が言ってたかは知っておきたい。年寄りにはいくら嫌われても構わんけど、若手に嫌われるのは結構堪えるねんな。でも、言うてもこれまでそんなことで判断してきてないし、好かれるためにやってるわけじゃないからいいんやけど。
※「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」。こう詠んだ俳句が秀句に選ばれたのに(世論を二分する内容は中立の立場から相応しくないとして(火尖追記))公民館だよりに載らず、精神的苦痛を受けたとして、作者の女性(78)がさいたま市に200万円の慰謝料などを求めた訴訟
https://www.asahi.com/articles/ASLDP5FJ9LDPUTIL03L.html
追記:金子兜太は面に立って頑張ってた。もういないけど。