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徹底した低さ

全国俳誌協会第三回新人賞、横井来季の「夢に死す」は低い狭い一人称視点の世界の中で、多彩な表現を駆使展開し、その詩情の横溢に翻弄される感覚が良すぎて、良すぎて!良すぎるので話すから聞いて!!!とうい気持ちで内々のZoom受賞祝賀会に参加して、話すだけ話してきたことがありました。これはその時の全句鑑賞版のトーク資料をウェブ公開用に編集抄録したものです。
是非、受賞作「夢に死す」の流れを体験してから読んで欲しいけど、これが初見でも「この作品いいな」って思ってもらえたら嬉しいから、遠慮せず話すね。

春の日の自分の舌打ちに気づく
一句目、長閑な春の日に似合わない舌打ちは不満の自覚か。その舌打ちに「気づく」とあるから、そこで初めて意識化されるのだろう。連作一句目として読者だけでなく作者も知らなかった不満を意識化した。春の日に舌打ちの音はすぐとけてなくなるが、違和感としては残り続ける。この句群の印象を決める重要な一句。

部屋干しのショーツ華やぐ蜆汁
二句目、きっちり広げて干してあるのではなくて、おそらく洗濯ばさみの一点で無造作に吊るされたショーツだろう。「ショーツ華やぐ」という表現には、ショーツ自体が派手かどうかではなく、部屋干しのショーツを華やがせている暗い部屋の存在を浮き立たせているように思う。部屋干し自体は今や主流の干し方になってきているが、それでも言葉に宿るイメージはじめじめとした暗さがある。雑然とした部屋の中だけでショーツの華やぎを示すことで全然華やいでいない生活が見える。その中で一際健康的な蜆汁が異彩を放つアンバランスな取り合わせに、作品全体を貫く方向性、アンビバレントな感性が見えてきた。

だべりも飯もベッドの上で春霖雨
四句目、二句目で予想させた傾向をこの四句めでしっかり固めてきたように思う。「だべりも飯もベッドの上で」で主体が若く、やや自堕落で一人暮らし向けの部屋の住人だということを明示してきたことで、連作として掲句以降にはそのバイアスを働かせた読みが可能になってくる。しとしとと降る春の雨により、作品世界が程よく補強されているのも没頭感が増す感じ。もちろんコロナウイルスの影響も読み取れるが、今回はそれが作品理解にそれほど寄与しないと思われるので考慮しない。

うららかがぎゆうぎゆうづめのしらこかな
五句目、しらこはタラやフグの精巣で、美味い食べ物であるが、ここでは味は重要ではなく「ぎゆうぎゆうづめのしらこ」ということで、「何億もの精子」が作られる場所というイメージが自然に湧くことに注目した。そのイメージに「うららか」とつけることでより、生命的な陰影が感じられる。つまり死のイメージも「うららか」によって明るみにでているように思う。奥坂まやの「いきいきと死んでをるなり甲虫」の「いきいき」の使い方に似ていると言えば分かりやすいだろうか。また、明るい言葉をつかって、イメージを反転させる手法は二句目の「華やぐ」にも通じていて、同じ手法を違う句で使うことで連作内にリズムが生まれてくるように思った。

ジェンガ崩れてたんぽぽ現れはせぬか
七句目。家の周りからあまり離れず、部屋干しし、ベッドの上で食べ、だべる「視線が低い」生活をしている主体ではあるが、この句には分かりやすすぎるくらい分かりやすいカタストロフィとその後の再生への希求が感じられる、あるいは感じられるように見せた句。作中の中央部分に据えることで、ややベタなロマンティシズムが堂に入ったように思われ、これまでの日常詠に少し含みを持たせることに成功している。しかしここでも実際のビル群の崩壊を夢想するのでもなく、室内のジェンガに仮託したと思われるあたり、低め低めの視線は一貫している。

春の夢のぽうとデメニギスの目玉
十句目、深海をゆったりとゆく、異形の魚。広い深海を灯火で照らしても視認できる部分は非常に狭く、それ以外はただひたすらの闇である。その闇は春の夢とも非常に親和性が高く、シームレスにつながっている。見える範囲までしか見えない中にデメニギスが現れ、そして消えていく。深海をゆく異形の魚は一人暮らしを始めた作者にも重なる。連作に通底している世界観を引き継ぎながらも詩的昇華を果たした作中の白眉。

花冷えや精子は溶けた骨のいろ
春愁のかたちにつぶす紙コップ
十三、十四句目。本来俳句は一句独立のものとして味わうべきということはよく承知しているが、連作となるとやはり連句的なつながり、前の句を受けているという意識が、作品の面白さに気付かせてくれるということがある。特にこの二句は心理的な背景でのつながりが顕著で面白い。実際に句が示す景色は違っているのだが、「春愁」も「潰す」も前の句の精子の影響を引きずっており、紙コップを潰すその行為に一種自慰的な印象を持たせているように思う。
この展開が本作に流れる作者の特性を維持したまま、句材の姿を変えながら重ね書きしていき、作者独自の世界を濃厚にしてきたように感じられるのである。

夢に死すはいつも花盗人として
最後の句は、これまで重ねてきた暮らしの景を一旦切ったことで(デメニギスの句でも同様の処理が行われた)、表面上の類似点によるつながりではなく、作中に通底する詩情を見せようという試みだと理解した。
「夢に死す」という仮構の世界での死は、死を謳いつつも、夢であるが故の目覚めを避けられないことを示唆している。「花盗人として」約束された死後の永遠ですら、朝に抗うことができない。そのままならなさ「死」の一語ですら終わりと継続を孕む二律背反な感性にこの連作を通した魅力を見たように思う。そして目覚め、春の日の自分の舌打ちに気づくのである。

「夢に死す」15句は、ままならなさを抱えつつ、垣間見える生活の機微のひとつひとつに触れることで、ウェットな詩情となり、それが溢れ出ている。そして、この詩情をもて余すかのような色数を絞った徹底して低い視点(お気づきだろうか?月や空、鳥など上空を志向する語が連作中一度も出ないのである)に、立眩みするほどの眩しさを感じるのである。


※2020年6月に行われた名古屋高校の受賞祝賀イベントでのトーク資料を元に編集。

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