私が神学や聖書学に求めるもの 西洋文化を学ぶ時考えたいこと

西洋合理性とか論理的とかいう時私が考えること

人間という単位でみたら合理的とか論理的とかいうのはさほど変わらないように思う。しかし世間では西洋琉の自然科学的な学問の方が価値があるといわんばかりです。正直そんな流れうっとうしく、飽き飽きしています。東洋流だろうと構わないですが、本当に非西洋的な合理性は無視していいのでしょうか?

私は心の中学2年生が目覚めた時から大人になるまでに漫画やアニメよりオカルトを扱ったポピュラーサイエンスや学術書の方に興味が向いてしまったため、どっちかというと体系的な学び方をしすぎてアニメや漫画の設定はオカルトフレーバーくらいのものだとしてこの作品はこのジャンルのこの部分を元ネタにしたのか…なるほどちゃんと元ネタとも整合性があるじゃんみたい、もしくは元ネタとの整合性がない…どうなんだろう的な上から目線で設定を見ていた痛い奴でした。

今でも時折魔女の設定とか見るとなんだかな…となってしまう設定が多いですね。日本人のオタクにはなんかちゃんと医者的なことをやっている人間が魔女として迫害されたと思いがちなところがありますが、ふつーに乱交パーティやドラッグパーティを開いていた魔女なんかがいて、その仲間が増えていって見境ない犯罪グループの増加や感染症の蔓延といったことへの懸念として危険視されていた人々もいたのです。それを考えると一概に魔女狩りが悪の所業とは言えないです。さも非人道的で倫理的に劣ることのように言われることも本当は違うかも知りません。

話を戻して、上の例でもそうでしたが、見方を変えれば理屈も変わるというもので、論理的ということは西洋科学の文脈を外れれば変わるのではないかということです。大体多くの人が三段論法くらいしか知らないのに、なんで論理的であることを是とするのでしょうか?
西洋的なロジックはあくまで相手の論を批判したり、自分の論の説明をするときに用いられるものです。私たちの文化にあう論法なのでしょうか?わたしは古代ギリシャ文化と離れられない論理は日本に合わないと思ってます。昨今ビジネス書によくある論理的思考なんてものは明治以降無理に西洋風を尊んできた歴史の中のものでしかなく、本来日本人が使っていた論法ではないのでうまくビジネスで使えないのだ。

聖書の中の古代ギリシャらしさ

やっと本題に入ろう。日本人の論理的思考なんてものは西洋の論理がくっついて文化と馴染まないと前節で話しましたが、聖書です。それこそ聖書は元々ユダヤ人のための経典で、ヘブライ語で書かれていたはずです。しかし今伝わるような形に新旧の聖書をまとめたのは古代ギリシャ人です。古代ギリシャ人は聖書に矛盾のなさを導入してユダヤ人っぽさを薄めてしまったのです。キリスト教が世界宗教たりえたのは、このためではないでしょうか?
ては元々のユダヤ人的な聖書はどこにあるのかというと所謂死海文書が手掛かりになるそうです。ローマ帝国に浸透していく頃のキリスト教ではなく、それより何百年前の遺物なので、古代ギリシャ風味がないユダヤ人の神話が見れるのです。
つまり、古代ギリシャ風ってのがわかれば、新約聖書からも古代ギリシャ味を取り除かないかと思った次第で…

わたしが聖書学とかやっている人に求めるもの

前節からの流れですが、古代ギリシャ人の文化が入ってない頃のキリスト教とはどうだったんだろう。部族の掟や民族のしきたりやそれが体系化した原始宗教から一神教が生まれるとわたしは仮説を持っていて、原始キリスト教からのキリスト教の発達の歴史はわたしの仮説の根拠になりそうなので、聖書の研究とかやっている人にわたしの知りたいことの調査とかしてくれたらありがたいなと思う次第です。

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