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シリーズ雑記帳1:老人たちの話

シリーズ開始に向けまずは挨拶


仕事、いわゆる定職という社会との関係を断ってから随分月日が経つが、壮年にして引退したと滅多にない既知の方々には言い訳がてら、都合よく体裁を繕うこの頃は相変わらず。なぜ私が世捨て人のような暮らしぶりを人に語れるかについては、追々この場を借りて話すとして、この度、人並みに様態も改善しつつあるので、リハビリもかねて執筆となったわけだが、その1回目は、老人共の話だ。そういえば”共”というと、野郎どもと共には”ども”とも読めるわけで、老人共と書けば印象は悪いだろうから、老人たちとした方が体裁は良いかもな。

私は元来、よく口は滑るし使い方もなかなか乱暴なので、そこは納得上、お読み頂ければ幸いだと思う。それでは改めて老人たちについてだ。

働くなくても良いけれど



いきなりだが、現代日本の老後というのは有名な年金制度がある。これは元々貯金と同じくお金を国に預けて一応運用を委託する形で60歳を超えたら給与のように支給される老後資金。しかるに、これが様々な議論を呼んで今は賦課方式を採用しているのはご承知の通り。だが今回は、そんな社会常識や通念、問題を話題にするのではない。


私は実家に身を寄せているので、当然両親と暮らしている。メディアで言う8050問題の当事者の一人というわけだが、事情は一般認識とはかなりかけ離れていると言えよう。私生活に対して、さして他人が関心が強いとも思わないが、世の中不都合な理由で家庭に居なければならない理由というのがあるものだ。その話をすれば長くなるから辞めておく。

本題は老後の中で”不労収入”である年金受給者の責任という意味において、案外、大多数の老人はあまり理解が深まってないという気が最近しているのだ。というのも、私が年老いたこの”老人たち”には、近場の他人も数多く含まれるからだ。その責任とは『空気感』である。言い換えるなら場を読む力とでも言うのだろうか。

責任者が社会的責任には無関心



昭和に限ったことではないが、男女で言えば圧倒的に社会的に主たる収入によって、家長となるのは男性であることは疑いようがない。これは感情で納得できなくても社会が現実にそうなのだから仕方ないと思う。そのためだろうか、家庭を一度でも持つことが出来た男性諸君の何人かは、かなり人付き合いを誤解したまま老人に突入していると私は思うのだ。


私は壮年にしてまるで女性のような、ナチュラルウェーブのロングヘアである。実際、後ろから売女と誤解され『いくらだ?』と夜中、埼玉県の三郷中央駅近くの飲料自動販売機で声をかけられた事がある。当然、正面からみたら紛れもない壮年の男である私なので、焦って『すみません』と謝って立ち去ってくれるのだが、これもまたその一例である。

要するになぜかこういった年齢を重ねて”私は周囲から受け入れられている”もしくは、”嫌われてはいない”と確信している老人がやたらに多く感じるわけだ。とにかく対人における警戒感が薄い。薄すぎると言って良い。

前例では私がもし激しい感情を持った殺意さえ持っていれば、恐らくタダでは済まないだろう。人を呼んでおきながら肉体交渉という訳には、普通の感覚ならこれは街娼とそうでない人を同一に並べてないとこういったセリフは出てこない。それを男に言ったのである。確かに暗くて女性に見えたとしても、夜であるがゆえにこれは犯罪の種になる可能性がある。だから普通の感覚なら、多少観察しようと考えるのが常人ではないだろうか。

安易に近づき安易に嫌悪感を抱かれる


この慎重な観察を持って人付き合いすると、やはり距離感や空気感というのは生まれつきじゃなくとも身につくのは必然であるが、やたら不用意に他人に近づき、なおかつ笑顔で妙な親近感を醸し出す様子からして日本はまだ平和と、呑気に言えるだろうか?そんな安全・安心がそこら中にはびこるパラダイスを、いまだ私は一度も見たことはないがね。


先程の勘違い男はまだ若いが、それと同様に妙に人との距離が近い老人が居る。確かに高齢になると知人も減り、人付き合いの機会も少ないだろうが、孤独を理由にどうも親近感を抱いている風には私には見えない。つまりは自分都合で人を限定的に定めて自分をアピールしてくるという様な欲求が背後になければ、こういう形振りはまず無いだろうと思う。

それにしても何故か”私は好かれている”とか、”私は嫌われてない”という前置きをまず持って来て不用意に他人に近づき、あっという間に邪魔者、あるいは嫌悪感を抱かれることに思慮はないのだろうか。私個人はむしろ他人が嫌ってくれた方が、こういった『変な人達』に昔から裏腹に関わってしまう事が多かったので、気持ち的には楽である。嫌ってる風にはなかなか伝わってないのか、一番厄介な人に好かれる事が多いからだ。

”私は好かれている”とか、”私は嫌われてない”が歪むと、更に進んで”私は許される”とか、”相手も納得の上だ”といった、奇妙な固定観念から他人との距離を縮め、迂闊にプライベートを踏みにじったことで、時にはニュースになる事件が起こる場合もあるだろう。人はどうしても避けられない事があると、強硬な手段を使っても自己防衛に徹するものだ。

ちなみに、この雑記帳では私は問題に対して解決策や対応については、あまり言及しない。それは読者の知性に縋るつもりで、私の概念はこの際伏せさせて頂く。

”礼儀正しい人々”ではないのか?


話を戻して、こういう犯罪の温床でもある妙な前提が、様々な老人との関わりで頻繁に感じるので気になったという話だ。そもそも誰に対しても態度が同じというのなら、それは前置きで自分自身が無害であるかよりも、まず自分は無害であるから故に無関心というこの距離こそ人に対する最低限の守るべき行儀であって、身内であろうと土足で領域に踏み込むものではないだろう。そこには人としての謙虚さ、謙遜があって然るべしだ。

この日本の美徳がこの頃の老人共には気概が薄いというか、先人からの学びが薄れたのかと近頃嘆いているのである。

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