旅の心得
袖無かさね
その小さなボートは、生まれたばかりでした。だから、まだ、海を旅したことがないんです。港のはじっこにつながれて、海に出る順番が来るのを待っていました。ワクワクしながら、待っていました。
波が、小さなボートに声をかけました。
「やぁ、チャプン、やぁ。」
ボートは喜んで答えました。
「やぁ!キィ、やぁ!」
「なにを、チャプン、してるんだい。」
「海にでる順番を、キィ、待ってるの。」
「そうか、チャプン、海はいい、旅はいい。」
「海の話を、キィ、聞かせておくれよ。」
波は、小さなボートに海の話をしてやりました。
海ってやつはな、空が好きでたまらないんだ。朝、空が太陽で真っ赤になるだろう。すると、海も一緒に真っ赤に染まる。空の月の光が透明な夜があるだろう。すると、海も透明に輝く。そんな海のことが、空も大好きなんだ。恋をしているから、海と空には光の景色が広がるんだよ。
キィ。
小さなボートはうっとりとその話に耳をかたむけました。
チャプン。
波はそこで、一息つきました。
だがな、そんな海と空も、喧嘩をしたことがあったんだ。
あの日、やたらと大きな船が海を横切ろうとした。見たことがない船だったから、違う世界から来たに違いなかった。空は嫌な予感がして、海に言った。
「あの船を通してはダメだ。」
それなのに、海は、その大きな船を通してあげた。海はそれまで誰かに「ダメ」と言ったことはなかったし、言うつもりもなかったのさ。
大きな船の進む方向には、大きくて尖った岩があった。海は船に声をかけた。
「こんにちは。どこへ行くの?」
その声は、船には聞こえなかった。いや、聞こえていたのに聞こえないふりをしていたのかもしれない。海はもう一度言った。
「こんにちは。そちらへ行くのは、危ないわ。」
しかし、船はお構いなしにどんどん進んだ。それを見て、空は怒って、不機嫌な色になった。
「だから通すなと言ったのだ。」
空は、海が心配だったんだろう。海も、怒って色を濁らせた。どんな理由であれ、自分を怒っている相手には、怒りたくなるものだからね。
海は、なんとか大きな船を止めようとした。けれど、船はどんどん進んで、そのまま尖った岩に突っ込んだ。ひどく大きな音が、海と空に、にぶく響いた。
大きな船はそのまま海に溶けた。岩の周りは、溶けた船のせいでドロドロになった。海は、息ができなくなって苦しんだ。ドロドロはすぐには消えなかった。それを見て、空もいつまでも苦しかった。
キィ。
小さなボートは悲しくなって、自分も息ができなくなるくらいでした。
チャプン。
波はそんな小さなボートを優しく揺らしました。
だからね。
君が海を旅する時がきたら、海と空の色を見るといい。
朝に太陽の真っ赤な光が広がって、夜に月の透明な光が広がれば、それは海と空が恋をしている時だ。心配はいらない。
海と空が不機嫌な色になったら、海の声をよくお聞き。海と空の喧嘩が始まる前にね。
キィ。
分かった。小さなボートは、波の話を絶対に忘れない、と決めました。
チャプン。
波はそんな小さなボートを優しく揺らしました。
小さなボートは、まだ、港で待っています。旅の順番が来るまで、あと少しです。
おしまい
photo by chin.gensai_yamamoto
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