【短歌小説】 私は、
大きな物音がして顔を上げた。
その時初めて遠阪は私がいたことに気がついたようで動揺した表情を見せた。本で顔を隠しながら、遠阪を見つめる。彼は私が産まれた時から屋敷にいるお手伝いさんの中でも、唯一お父様の部屋に入ることを許されている人物でもある。だから彼がここにいることに何の疑問も持たなかった。私はお父様の書庫で本を読んでいるのもいつものことだ。遠阪にとっても日常的なことなので、驚くのが不思議であった。だから、私は警戒をしたのだ。
彼が手にしている大きな花瓶はお父様が大切にしていたお気に入りのもので「触って壊すんじゃないぞ」と言い聞かせられていたので見間違えるはずがない。鮮やかなターコーズブルーから滴る赤に目を奪われ、その落ちる先を辿る。真っ黒な衣服を纏う彼の足下に男の人の手が見えた。人差し指を彩る無骨な指輪に覚えがある。
「お、お嬢様。いつからそこに」
震えた声だった。「ずっと前から」本を指して、40ページは読んだかなと私は続ける。釣られて声が震えないように気をつけた。私は何も見ていない。その振りをしなければいけない。
「それは熱心ですね」
花瓶を床に置いた音がした。もう遠阪の声は震えていなかった。洋服で手を拭きながら、彼は私に近づいてくる。スクエアのレンズが反射して、瞳に孕んだ色が分からないが、とても冷静には見えなかった。
「ええ。お父様の言いつけ通り、本を読んでいたの」
遠阪が足を止める。一瞬、視線が泳いだのがわかった。私は遠阪を見つめる。
「だから何も知らないわ」
それは全て知っていることを意味する口ぶりだった。遠阪は一拍おいて「そうですか」と言った。乗ってくれるみたいだった。遠阪の足下に転がっているであろうお父様のことは何も知らない。遠阪がなぜそうしたのかも、何があったのかも、何も。何も。
「遠阪がいないと困ることばかりなの」
「お嬢様……?」
足が汚れないように、床をよく見て近づいた。私は遠阪の手を取る。袖が少し汚れていてそれが私の手首に冷たく触れた。「何もなかった、それでいいでしょ」遠阪は私の言葉に困った顔をする。目の前の罪を全てなかったことにしようと言うのに、どうして嫌悪にも似た表情で私を見るのだろう。私はお父様を殺した程度のことで、遠阪にいなくなってほしくないだけなのに。
「どうして、自分は襲われることがないと、信じられるのですか?」
「え?」
遠阪の言葉の意味が分からなかった。遠阪が私を襲う? 小さな頃から父親に変わって、私を育ててくれた遠阪が? 親で、兄で、友人である遠阪が? 私のことを?
「本当はこんな家、どうだっていいんですよ」
握っていたはずの遠阪の手がいつの間にか私の手を離れて、私の首を掴む。痛いとか苦しいとか泣きたいとかそんなことはどうでもいい。どうしてこんなことをするのか分かりたかった。私はお父様が死んでも良い。遠阪が代わりに私の本当のお父様になってくれたらいい。お父様は無理でも、お兄様に、願わくば旦那様に。そのために邪魔なお父様がいなくなってくれるのは万々歳だった。障害は少ない方がいいのだから。でも、私は。私自身は障害じゃない。私がいなくなってしまうと、もう結ばれることがないのだ。あんなにも愛情をくれていたのに。遠阪は私の特別なのに、どうして。
「見ていなきゃよかったのに」
水中にでもいるみたい。遠阪の声が遠く、ぼんやりとだけ聞こえる。私はそのまま目を閉じた。