セルフレビュー「「違う」と「同じ」のミッシングリンク」
以前に書いたエッセイ「「違う」と「同じ」のミッシングリンク」について、書いた後から振り返ってみて、おかしかったこと、気がついたことをここに書き加えていく。やる気が続く限り続く永遠の反省会。
2022/6/25 「形」とベイトソンの情報の定義
「形」について
「違い」、「形式」、「情報」、これらを結びつける一つの喩え話として、プラトンの著作『メノン』の一節とベイトソンによる情報の定義を比較検討したい。
ソクラテス-プラトンはここでまず初めに「形」について、「色に随伴しているもの」という言い方をする。そしてその後、メノンの問いからそれを言い直し、「限界」や「端」、「終わり」に言及し、それらが全て同じものを示していると述べ、「形」の定義を「立体がそこで限られるところのもの」としている。
私の考えでは、この切り取った対話の部分は「差異」と「同一性」によって区別されることが「形」を生み出すということを指摘している格好の例である。
まず初めの「色に随伴するもの」としての「形」を解釈すると、「色」に「随伴する」ものとして「形」を認識するためにはある「色」はその「終わり」を必要とする。考えてみよう。一切の光を失った状態、あるいは眩しすぎて何も見えない状態、あるいは全く同じ単色で塗られたキャンパスのその中身だけを見た時に「色」に何か「随伴する」だろうか?そこに「形」は存在するだろうか?恐らく、私たちはその状態ではなんらの「形」も認識できない。
「色」が「尽きない」ところに、「色」に他のものが「随伴しない」ところに「色」としての「形」はない。では「色」の「終わり」とは何か?それは「異なる」「色」が「始まる」ということに他ならない。上記の例はキャンパスの僅かな凹凸や色のわずかな濃淡、人間が暗闇の中でも見てしまうある種の幻想の光は無視していると指摘しても、それらの凹凸や幻想の「形」が認識されるのも「色」の「終わり」、「差異」が見てとられるからだ。すなわち、「色」の「違い」が「色」の「形」を生み出すのである。
このような言い方をすれば次はわかるだろう。ソクラテス-プラトンによれば全く同じことを示す言葉、「終り」「限界」「端」「限られている」「終わっている」、これらの間に同一性のある「関係性」こそは何かと何かの「閾」、「違い」が存在する場所に他ならないのだ。そして、何かが「限られている」ところに私たちは「形」を見るだろう。
私たちは何かが「終わる」という。しかし、今のところそう言われる時この世界が終わっているわけではない。この世界が終わらない限り、何かの「終わり」は即座に何かの「始まり」であり、そして、それは「違い」が生まれるということ、この世界の「形」が「変わっていく」ということの別表現なのだ。
そして、最後に「立体」にトピックが移る。「立体」の「限界」、あるものがあるもの自身であるところのものと、そうでない他のものとの区別がつくところ、存在者の「差異」と「同一性」が存在し、感じ取られ、認識されるところ、それが「形」であるということだ
このように、この対話のスナップショットは何かと何かの間に「違い」が存在すること、それが事物の「形」を決めるということを示している。
翻ってベイトソンによる情報の定義とは「差異を生む差異」である。語源を引いて何かを語る議論というものには少し疑問を抱いているのだが、あえて語ると、それは、情報が「in-form-ation」、「形作られたもの、形作ること」であるということをある側面から的確に表現したものだと考えられる。
あるいはこれを私の述べた「比較」の議論に照らし合わせれば、差異と同一性によって区別される選択肢は、一つ一つが認識の中で区別される存在者の「形」である。それはつまり、ある観測者にとってその認識の対象の「形」はその一者が取る比較の仕方によって定められるということである。
「終り」「限界」「端」「限られている」「終わっている」「形」これらはすべて、「閾」あるいは「差異」と「同一性」の別表現なのだ。
「関係」の定義について
もちろん、この「関係」の定義はベイトソンによる「差異を生む差異」に多くを負っているし、ほぼそのままと言っても過言ではない。情報としての「差異を生む差異」を情報の連動としての「選択が選択を生むこと」に置き換えれば、知識がこれを繋ぎ合わせ続けていくということになるのは自明なことかもしれない。
ベイトソンの「差異を生む差異」という定義には私の議論との関係性においてもう一つ着目すべき点がある。それは比較器による差異の検知が循環論法のような関係性で、検知されうることを前提として認識されるということを「差異を生む差異」という定義が先取りしている点である。きっと、私の言葉が何か新しく正しかったとしたら、それはベイトソンの言葉の可能性の中心を捉えることができたからに他ならないのだろう。
2022/10/25
「物それ自体」について
一応の捕捉であるが、これは「物それ自体」がある立場と、それが存在しないとみなす立場の両方見方があり得ることを理論的な前提として組み込んであるということである。「「地図」と「土地」の貨幣論」でちらっとした話を組み込んであるということだ。
2022/10/29
脱構築との関係性
もう一度上記について補足しなければならないことを思い出した。一回でまとめろよって感じであるが、平日疲れていて時間のないときにやったのがよくなかった。
関係に関する理論を作ろうと思いついたときの序盤は、デリダの「脱構築」を参考(というかほぼパクリ)にしながら、「絶対性批判」という運動にしようと思っていた。後ほど書こうと思うが、私は「正義」にせよ「価値」にせよ、あるものが本来は「何かと何かの関係のうちにしかないもの」であるのにも関わらず、「絶対的なもの」とみなされることで、関係の総体としての社会や自然環境に不和や不協和音、度を過ぎた過剰な蓄積、ひいては災いをもたらしてしまうのではないかと思っていた。
だから、その「絶対性」を批判し続けていくことで、あらたな関係性を生み出し続ける運動を起こそうと思っていた。しかし、そのうち考えを進めるうちに①常にそれを批判しなければならないのであれば、それはそもそも認識の理論の前提そのものに組み込んだほうが早いのではないか、また逆に、②「絶対性」は本当に永遠に批判して相対化し続けることができるものなのかという疑問を持つに至った。
もちろん、ベイトソンの言葉も手掛かりに、①②も踏まえた結果出来上がったのが「比較」という考え方である。①については、人の扱う認識が常に「比較尺度」を通されるため、「相対性」が常に前提とされる。②については、逆に言えば「比較尺度」を通した「比較行為」がなければ認識は生まれないがゆえに「認識の主体は常にこの世界の特殊な時空間のうちに定位した世界内存在者としてあること」、その存在の仕方が生身の身体としてであれ、ロボットや情報機器としてであろうが、その有限性に縛られるという「絶対性」は相対化することができないということになる。
そして、結果的におそらくは私の議論は「脱構築」の運動を、一部制限をかけながら、内側に取り込んでいる。つまり、「二項対立」を解体し、あるいは創出する運動としてのそれは(綿密な定義からずれそうだが、そういうのを許してくれる概念だったと思う)、それが社会的に作られたものであるならば、「対立」は人の視座に内在する「比較尺度」でしかないということを示し、そして、新しいユニットを集めることで人は自由に「比較尺度」を生み出すことができる。しかし、物理的な「比較尺度」については、「現実世界」から逸脱しない限りは相対化することはできない。
そういった関係が脱構築と私の議論の間には存在するだろう。
ちなみに、プラトンの「イデア論」は私の批判しようとした「絶対的なもの」の典型例であり、その現実に対する超越の徹底的な否定を行いながら、イデアの絶対性の位置を「比較尺度」というものの中に変形して保存することで私の議論は成立していると考えている。
関係論を作り始めた経緯
虚空に向かってアホみてーなことしてるなと思いつつ、なぜ関係に関する論考を書こうかと思ったか、その経緯を示しておく。
一番初めに「関係」についてのとっかかりが生まれたのは柄谷行人がどこかで言っていた言葉「国家は他の国家に対して存在する」ということだったと思う。これはおそらくは「国家は他の国家との関係において国家として存在している」ということになるとその時解釈した。そして、いろいろ考えるうちにそれはもっと普遍的な事柄なのではないかと仮説を立てた。
つまり、「万物は何かと何かの関係において、何かとして在る」のであって、その「関係」を超えてそう存在するのではない。
例えば、観念的な例としては、「犬」という文字、音、言葉は日本語話者に対しては生物としてのイヌを指しうるが、日本語を解さないものから見ればそうではない。物質的な例でいえば、「ろうそく」は常温においては「ろうそく」としての「形」を保っているが、例えば、太陽の近くなどの超高温の状態においてしまえば、一瞬で気化して別の物質に変わってしまうだろう(大概のものはそうなるだろうが)。ばかげた話かもしれないが、地球の常温は宇宙の常温ではない特殊な環境だと思う。あるいは、「ろうそく」も細かく細分していけば、原子、素粒子のレベルの「関係の総体」をそう呼んでいるにすぎないはずである。
つまり、物理的な世界においても、観念的な世界においても、一般的に「あるものは常にその周囲との関係性においてあるものなのであり、関係性が変わればそれは変化する」ということである。
そして、さらにベイトソンの言うように少なくとも認識上の世界に「ものそれ自体」というものが存在しないのであれば、私たちの知覚する世界には「関係」しか存在しないはずである。
そこまで来たときにでは「関係とは一体そもそも何なのか?」という問いが生まれ、そこから「関係一般」という謎を解き明かしていく試みが始まった。
それから、人とモノとの関係はまず「情報」として存在すると考えた。では「情報」もまた「関係」と関連するか、もしくは「関係」の下位概念ではないかと考えたり、仮に「知」が「情報」であるならば、それは遥かソクラテスの時代から現代の最先端の計算機科学の領域にも、言語の領域にも、動物やミドリムシのような微生物のレベルにも、生命と科学の歴史を通して普遍的に存在するものであるはずであるとか、そこまで一貫した「知」一般の理論を組み立てるなら学問を分割したアリストテレスとある種の緊張関係が生まれる、というか、それ以前に立ちかえっていくなと思ったり、独我論が決定不可能であるということを仮説としてたてたから、情報の形式からみれば「もの/現象」の以前にたちかえれるのではないかとか考えたりしてなんやかんやあった。正直ほとんどの期間はうだうだ進展もなかった。
取っ掛かりの柄谷行人、ベイトソン、シャノン、その3人以外で私の考えに本当に革新的な進展をもたらしたのは――それが本当に正しいものだったとすればの話だけれど――カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』と『世界は「関係」でできている』の二冊の本だ。
まず、この二冊は私に関係論を再び書き始める勇気をくれた。私は字面上似たようなことを書いた自分の論考を怪文書としてとある場所に残したことがあった(私は本当にアホなことばかりしてきている)。その後精神疾患にかかって病院行きになり、意気消沈してただ生きているだけだった私は、自分が書いた怪文書と似たことがそこに書かれているのを見て(もちろん似ているだけでそれが同じことなのかはわからない)、再度論考を書き始めてみようと思った。
また、私は「関係」を「選択が選択を生むこと」と定義したが、これはたぶん最低でも「ミッシングリンク」完成の3年くらい前にはすでに思いついていたことであった(もっと前だったか?)。ただ、ベイトソンの「差異を生む差異」の「差異」を「選択」に置き換えた「選択を生む選択」という言葉が浮かんだけで、その文字の並びが何を意味するのかについては全くわからないままだった。
その停滞に風穴を開けたのが、『世界は「関係」でできている』だった。カルロ・ロヴェッリは第四章 現実を織りなす関係の網 3 情報 で純粋に情報理論の意味での「情報」から次の「情報」をたどれるという「相関」について述べていて、それをまたもやベイトソンの「比較」というキーワードからヒントを得て考えていた「比較尺度からの選択」という概念と結び合わせることで、「知識を得るということは関係をたどること、つまり、連動している選択から次の選択をたどることである」ということを思いついた。これを思いついたことで、「情報」と「関係」と「比較」がいかなる関係を持つかが私の中で結びついたのだった。まあだから、これもいろんなところからそのままパクっている。
その「関係をたどることとは何か?」という問い自体は文化テロ作品にも記していて、かなり前からずっとあったのだが、そのときにはまだ答えがなかった。この本を読み始めたのは「ミッシングリンク」を書き始めた後だったと思うから、あの議論が完成したのは運がよかったとしか言いようがない。
本当に人に迷惑をかけてアホなことばっかりしてきているのに、偶然に助けられてばかりの人生だと思わざるを得ない。まあ、私の話が正しければ、という話にはなるが。何はともあれ、いろいろな意味で今生きているのが本当に不思議だ。
それはさておき、「ミッシングリンク」と「リヴァイアサン」で私の議論に登場するベイトソン、シャノン、ノイマンはすべてメイシー会議の出席者である。他にも名だたる学者が出席していて、私はきっとその会議のさらなる解析が何か新しい知見をもたらすのではないかと思ったりしている。もうすでに調べつくされたことなのかは知らないけれど。
2022/11/10
大いなる比較過程
生物、社会、学問の言説、人、こういったものが生まれ生き残っていく過程は、ベイトソンの大いなる確率過程という言葉をもじって、大いなる比較過程と言えるのかもしれない。歴史の中で数ある無数の可能性が生まれ、その中で生き残っていくものは、それの隣接する周囲のものとの関係によって、相互に淘汰、検証、選択されていく。
とはいえ、選択には常にある種の余裕があるだろう。選択するものもまた選択されるものであり、選択を行うものも、選択されるものもともに不完全であるがゆえに、遊びや自由が残り、そこからまた創造性の余地が生まれるのかもしれない。うーん、言い換えただけで特に目新しいこと言ってるわけでもないな、こりゃ。
しかしながら、この世には比べ得ないものがある。総体としての地球上の自然環境、総体としてのヒトの社会もまたそれで、地球外の生命体が見つからない以上、それは今のところ共時的には比べ得ないものだ。その環境が維持される限界を試す行為は、その失敗が単一の世界を破壊する行為そのものとなる。そのようなチキンゲームは避けられるべきだとつくづく思う。
2023/3/3
比較の限界
考えていたことで、まだここに書いていなかったことだったかと思うので記しておく。
このようなことについて類似したことで、ニーチェは「言葉は等しからざるものを等置する」とどこかで言っていたと思う。私の上記の「比較は比較しえないものを比較する」ということは、そのニーチェの言葉を「差異と同一性」の両方に、そして、言語から情報の階層に一般化して述べているものであると思う。
ニーチェは言語が、世界の時の流れから、異なる時空間、コンテクスト、関係性にある事象を切り出してしまうということ、それが常に何かを捨象してしまうということ、認識の対象それ自体と認識は異なるが、しかしそれでもなおすべては世界のうちにあること、そんなことをかなり深く考え抜いた人であったのではないかと思っている。たぶん。
2023/4/29
関係をめぐって
関係の問題は、自分が正しければ哲学的にかなり根深い問題だと思っている。というのも、プラトンの「イデア論」からして「それ自体としてある」ということにアポリアを抱えているように思えるからだ。存在しない「それ自体としてある」ものを前提としながら、イデアを目指して対話を始めることに。ソクラテスの知が関係論的であるならば、「イデア論」の哲学はその関係論的性質、知性の限界を隠蔽して成立していたことになる。
パルメニデスとピタゴラスの影響から「イデア論」が成立しているという話は聞いたことがあるが、徹底的に徳を目指すことで関係論的に知の限界を示すことになったソクラテスの弟子であるプラトンがイデア論を作り上げたというのは、興味深い話ではある。
それはソクラテスの方法に一因があるかもしれない。「私は徳の限界を知っている」ではなく、「私は徳を知らない」という態度によって、誰も徳を知らないということを対話によって示した方法が、徳そのものに限界があることを覆い隠してしまい、プラトンがそれを天上に求めてしまった、そんな可能性がある。
ただ、ごくごく日常的な考え方から言って、何かを判断してそこを目指すためのものである「よい」ということにそもそも限界があるという発想が出るのは難しいのかもしれない。「よい」に限界があるということは、「よい」を追求することで「悪い」が生まれるという矛盾そのものであるから。そういったことを端的に説明できるのは、私は論理階梯理論だと考えている。
「イデア論」のようなものの見方は、日常生活に深く浸透しているものだと思っている。「ある」という言葉は何か無制限に、他の項と無関係に「あるものがある」と思わせてしまうことがある。私がその言葉があまり好きでないのは、それがある一者の限界を見誤らせると思っているからだ。一般的に、何かの限界を見誤ったところに、悲劇は起こると私は思っている。
誰にでも、何にでも限界がある。自己にも家族にもコミュニティにも社会にも国家にも生態系にも環境にも敵にも味方にも平和にも……。無限なものは「神」のみである。そして、意図しようともせずともある一者がその限界、閾を超えたとき、世界は異なる状態へと遷移し、違う何かに変わってしまうだろう。
あるいは、「ある」という言葉はしばしばそれが「何によってある」のかを追い求める「探究」を停止させる。「探究の停止」それ自体は「よい」ことでも「悪い」ことでもないが、「何によって現在があるのか」を理解しないままことを進めることになりかねない。ただ、実際日常生活において、「ある」という言葉を使わないで生きていくことは不可能であるし、常に関係の限界を指し示しながら生きようとすると、自明なものが消失し、コミュニケーションの経済性が失われる。その極地にあるのはすべての自明性を失った懐疑論者ということになるだろうだろう。「慣れ」は恐ろしいものであるが、すべての「慣れ」を失うと生活が出来なくなる。どちらかによればいいというものではない。
また、関係論からの読解によって、なぜソクラテスやニーチェ、スピノザの哲学に関する新たな知見を得られるかといえば、知を愛することとしての起源をもつ哲学が、ある種の知性に関する問題、選択の能力とその可能性と限界の問題に触れるからだと思う。ある種の哲学のトピックは関係と選択の問題を巡ってその歴史を紡いで来たのだと、私はそう思っている。
知性の「形」
関係論による知性の描写の転回の骨子を簡潔に表すと下記のようなものになるだろう。
無論例外はあるだろうが、知性は対象に応じた適切な一定のスコープにおいては、認識対象を次のように認識し、予測することができると見られるだろう。
Aが生起→故にBが生起→故にCが生起…
日常的な言語によって因果関係を描写するとき、このような認識は特に顕著であると考えられ、単線的な認識と予測が可能と見られる。
しかし、関係論の考えでは、以上の描写は一般的なものではなく、認識の対象の変化の可能性が限られている特殊なケースとして、相対化される。むしろ、対象の認識と予測は下記のような取りうる可能性、状態の列挙とその選択の検知、推定という形式が最も基本的なものだとみることになる。取りうる可能性の列挙に必要な道具が「比較尺度」、その列挙する可能性の内容やあり方が「問い」の仕方ということになる。
A1 B1 C1
A2 B2 C2
A3が選ばれ生起→B3が選ばれ生起→C3が選ばれ…
A4 B4 C4
A5 B5 C5
… … …
前者の典型的な例がある種の古典物理学であり、後者に類する認識として、ソシュールの言語学における価値や意味、ダーウィンの進化論、情報理論が挙げられる。
認識の発展は基本的に、後者を前者の形へ近づけていくことでその経済性と予測の不確実性を減少させていくものであると考えられる。AIなどの人間では認識できないパターンの発見から将来を予測することはその典型だと思う。
また、私が知性といい理性や悟性という言葉を使わないのは、おそらくはそれは、情報の形式の問題を超えるからかもしれない。私は計算機にもミドリムシにも森にも通用する問題を求めているが、理性と悟性は人間に特殊なものであろうから。この前ちらりと見た動物言語学の記事を考えるとその進展で悟性と理性の固有性がどう判別されるかわからなくなるかもしれないが。
2023/4/30
ミッシングリンクの意味
はっきり言って、「リヴァイアサン」以降のこのエッセイ群はすべて「ミッシングリンク」で述べたことからの演繹を繰り返している、すべては「ミッシングリンク」の帰結であるといっても過言ではない。まだ正しいと決まったわけではないが、私が「私の人生が終わってもいい」と思えたことを理解してもらえる人が、いるかもしれないし、そうでないかもしれない。
「ミッシングリンク」以降で私にとって最大の進展があったのは「地図と土地」のセルフレビューの下記の部分だと思う。
私が「関係論」を書くことをためらっていたのは、それが量子力学の「重ねあわせの状態」というものとどう関係づけることができるのかが理解できなかったということも一因だった。私は数学ができないから一生書くことができないのではないかと思ったりしていたが、結局、カルロ・ロヴェッリの本に学び、勇気づけられてそれを理解できないまま「関係論」を書き始めた。
上記の「重ね合わせの状態」が「関係の外部」に位置づけられるのではないか、という考えは「関係論」、「知識は選択のネットワークである」という考えと矛盾を起こすことなくそれらを位置づけ、関係づけることができるのではないかと思う。私には「重ね合わせの状態」がどういうものなのかは決して理解できないが、私たちが「重ね合わせの状態」というものの解釈に戸惑いを感じるのは、それが「知」の限界を超えたものであり、「関係のネットワーク」上に決して位置づけることができないからだということかもしれないと、そんな考えが浮かんだ。
私は再びこれ以上とない幸福を感じていて、毎度のごとく勝手ながら、カルロ・ロヴェッリへの深い感謝の念を抱いている。
2023/5/3
独我論、関係の外部、サンタさん
ある種の独我論に「至った」人々は「関係の外部」に触れることになるだろう――デカルトや目に見えるものを信じないと述べたベイトソンなどもそうではないかと思う――「全情報を疑う」とはあらゆる「情報=選択」の否定であるから。
ただ、私が強調したいのは、「独我論とは全情報を疑うことだ」ということそれ自体は「一つの情報」だということだ。「指し示すもの」と「指し示されるもの」は違う。何かを「知っている」状態、「選択」が揺るがなければ、「関係のネットワーク」が組み替えられない、その外部に至らないから、その「情報」だけで「関係の外部」に触れることができるとは必ずしも限らないのだ。「関係の外部」は「関係の総体」との差異性において、個々の主体に固有なものだ。
逆に言えば、どのような「情報」でもそれが「ネットワーク」を揺るがすものであれば「関係の外部」となるということだ。たとえば、「サンタさんはお父さんだった」なんてものでも。
あるいは、これは例えば親鸞の教義を信じている人とそれを悪用する人間の差異にあるロジックでもあるのではないかと思う。それは「自分が悪人であることを自覚して救われるということ」と、「悪人が救われることを知っている」ということの差異――前者の人間はそのためにすべてを捨てて救われることができるであろうし、後者の人間はあくまで悪行を続けて煩悩にとらわれ救われないであろう、そんなこと。
子どもたちの天国、ゆく河の流れは…、老成した幼さ
子どもであることの特権の一つは「サンタさんはお父さんだった」なんてことで、日々「関係の外部」に触れること、そんな一つの無垢にあると思う。
「大人」たちはそういったものを見失いがちも知れない。しかし、時に何らかの自明性を失う経験を経たようなある種の人々で、生きている一日一日一瞬一瞬が「新しい」と感じる人たちがいる。そのような人々は「子どもたちの天国」を完全な形では無いにしろ、取り戻していると言える。そういった人々は日々「関係の外部」に触れるだろう。
これは、つまり、養老孟司のよく引き合いに出す、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の世界を生きることだろう。ここに「指し示すもの」と「指し示されるもの」の違いを見ることもできよう。この「新しい」世界を生きる人々は、二度と繰り返さない喜びと悲しみ、その出会いと別れを日々絶えず繰り返す。日々生まれ変わるその世界は「異邦/故郷」の対立を失う。
それは「幼稚さ」でもないかもしれない。例えば、むしろ「今日と同じ日が明日も続くこと」の不確実性を今日ほど実感する日々はないだろうから、それは「謙虚さ」でさえあり、むしろそれを知るほうが「成熟」しているような、「老成した幼さ」と呼べるかもしれない。
5/4 タイトル微修正 「ゆく河の流れ」→「ゆく河の流れは…」
2023/5/4
関係の真理、存在の真理、「二つの立場」のゆくすえ
一般的に言って、科学とは「関係の言語」を研ぎ済まし、「関係の外部」を包摂していこうとする試みであり、逆にある特定のタイプの宗教の言葉は「存在の言語」を語り、「関係の外部」に触れようとする、あるいは自ら至らんとする試みであるといえる。
それに対応する形で、両者にそれぞれ固有の「真理」が存在するだろう。それは「見る真理」と「生きる真理」の違いとでもいえよう。つまり、「言説、情報と物理世界の比較が一致する」という「観測」の「真理」、正確には「関係の真理」と――「見る」とか「観測」はあくまで比喩にすぎない、数学や論理学では情報と情報の関係となるため――生ける身体がこの「世界」そのものに「触れよう」とする、あるいは「一致」するという「存在の真理」。
後者と前者が決定的に違うところは、後者はある意味で「世界そのもの」に接近する試みであるから、何物も「捨象」しようとしない、故に逆説的に「認識」「情報」が存在しないところまで突き進むことがある点だろう。後者に至る人々は究極的には「見る真理」を必要としない。故に「無為自然」に至るだろう。それは誰もが、いつどんなとき、どんなところにいても至ることが出来るところ、ただ単に「見失っている」に過ぎないところ。
不思議なのは、何か本質的なところで両者は似通っているのではないかと思うことがあることだ。ある種の科学者や専門家の人々が、世俗の価値に頓着しなかったり、あるいはそれを転覆させてしまうことがあったりする。ある種世捨て人やディオゲネスじみたところがあったりするのではないか、などと思う。ただ、それは当然のことであるのかもしれない。「新しい」発見には既存の「関係の体系」との「差異」が必須である。そのとき、かならず、意図しようともせずとも、既存の「比較の方法」、「関係の体系」への「懐疑」による「自由」の獲得を伴っているから。
私がいつも思うのは、何かこのような二つの立場はどちらかを選ぶことが人間にできるのか、できないのか、出来たとしてどちらか片方を選んだほうが「よい」のか、「悪い」のか、そういったことの判断が私にはまだ出来ないということだ。「事前/事後」「存在、関係の外部、比較の外部/関係、関係の内部、比較の内部」、「理解/探究」このような対立は、人間に避けることが出来ないものであるように思える。このような対立に思いめぐらすときに、オーウェルとベイトソンの言葉を思い浮かべる。「二重思考」や「ダブル・スタンダード」の危険性と「ダブル・バインド」による学び、進化の可能性。
私はこのような対立についての私の思考の行く末を知らない。
指し示すもの、指し示されるもの、スピノザの神
「「指し示すもの」と「指し示されるもの」は異なる」という極めて簡易かつ困難な関係の事例をいくつか挙げておく。
それは例えば、数学の公理の体系とそこから演繹される個別の問題の解の差異であると思う――数学に対する理解はかなり曖昧なので、間違っていたら申し訳がないが、挑戦してみよう。数学の公理の体系はそこから生まれるすべての問題の情報を原理的には含んでいるはずであるが、私たちは公理だけを一目見て、「演算なしに」個別の問題の解を知ることはできない。それは「公理」は「指し示すもの」であるのに対し、解は「指し示されるもの」の範疇に、あるいはそれと類似した関係性にあるからではないかと思う。
つまり、「問い」に対する「答え」と「集合の定義」に対する「個別の要素」、「規則」に対する「事例」――言い換えると「アルゴリズムと演算者の振る舞い」でもある――の関係が「指し示すもの」と「指し示されるもの」とそれぞれ同様の関係性にあると私は言っているのだと思う。これは「「地図」と「土地」の貨幣論」で「普遍論争」と「集合の定義と要素」、「規則と事例」をパラレルに論じたことが成功していたとすれば不思議なことではない。公理の体系から個別の問題の解は、「指し示すもの」と「指し示されるもの」の階層を二つ含んでいるかもしれないが――公理-個別の問題-解という形で――同様のことは言えるのではないかと思う。
二つ目は「目に見える世界」と「物自体」の世界だろう。私たちの見る世界は「関係」の世界であって、「存在」の世界ではない。「指し示すもの」と「指し示されるもの」を区別するというとき、人は「見聞きするすべての世界」を疑わなければならない。
「指し示すもの」から「指し示されるもの」に至ること、あるいはその逆がいかに困難なことか――例えば「問い」が誤りでそれによって「指し示されるもの」が「存在しない」という「答え」である場合はざらにあるだろう――がわかるだろう。
その困難の理解のために、さらに例を挙げることができる。「指し示すもの」と「指し示されるもの」が一致している世界とは何か?という問いに答えることで。それは「スピノザの神」の「現実態としての知性」になるだろう。「知性」そのものが「現実」であるために、「問い」も「答え」も必要としない世界。
「指し示すもの」と「指し示されるもの」が違うというのは、単純なようでいて、とんでもない事態なのだと思う。
子どもたちの天国、ゆく河の流れは…、老成した幼さ、の補足
養老孟子の話が、説明不足だった気がするので補足。養老孟子は「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という言葉が「万物が流転すると言うが、「ゆく河の流れは…」という言葉は流転しない逆説にある」と語っている。それは、「指し示すもの」と「指し示されるもの」の違いによるのだ、というお話。と簡単に言ったが、これで現代人が苦しんでいるという話であり、結構深い話である。
指示と対象の分離関係
名前がないとややこしいので、このような関係を「指示と対象の分離関係」と勝手に名付けておこうと思う。ベースが論理階梯理論にあるこの種の問題に対し、真っ先に思いうかぶのはゲーデルの不完全性定理であるが、私は数学がわからないので、それと関係があるのかないのかはよくわからない。あと、すでにそんな関係を名付けたものがあるのかどうかも。
2023/5/7
誰も知らない
「事前/事後」「存在、関係の外部、比較の外部/関係、関係の内部、比較の内部」、「理解/探究」、さらには「理論/実践」、心身二元論、「現象/物自体」などこれらは突き詰めれば、それぞれ「指し示すもの/指し示されるもの」との対立とほぼ一致すると思った。
ある意味で、これらは「問題」にしなければ何も「問題」にはならないものだといえる。ある一者の生存する環境が安定しており、生存に必要なものがすべてそろった状態で、つつましい生と死を受け入れ、何かそれ以上のものを求めることがなければ。「指し示すもの/指し示されるもの」は常に一致しているだろう。
この問題についての、一般的な回答というものは存在しないように思える。ある時は「一致している」と考えるべきだし、あるときは「不一致だ」と考えるべきだろう。とどのつまり自分の考えが現実と一致しているのかどうかはただ一人自分の生の問題でしかない。
しかしながら、あるいはだからこそ、ある種の哲学的な問題はこのような「指し示すもの/指し示されるもの」の「一致/不一致」を巡って考えられてきたのかもしれない。そんなことは誰かが言っているのだろうか。
2023/5/13
ベイトソン、AA、他力本願
ベイトソンは禅についても考えていたが、これら以外にも彼が「関係の外部」に触れていた、ないし考察の対象としていたことのもう一つの例がアルコホリックアノニマスとの関連で指し示せるだろう。アルコホリックアノニマスではアルコール依存症患者にアルコールに対する自身の無力を悟らせ、そこから回復を図る。
アルコホリックアノニマスのこの無力の自覚は、自力による救済の諦めであり、ほとんど親鸞の「他力本願」そのものであると言っていいのではないかと思う。ベイトソンによってこれは「底を打つ」「自身より巨大なものに身を委ねる」という表現をされていたはずだ。
ベイトソンは明らかにここで「自己の限界」を悟ることで「関係の外部」に触れることに近づいていただろう。「関係の外部」は何ら特別なものではない。それはどんなに卑近な場所にも、いたるところにある――それはいつどこででも触れられる場所、忘れているに過ぎない場所なのだから。
「文学のふるさと」において芥川龍之介がショックを受けたように、ある種の「関係の外部」はトラウマを生むこともあるだろう。しかし、アルコホリックアノニマスについては、この種類の「関係の外部」、「自己の限界」の自覚によってそれに触れ安らぎを得ることが、臨床的に意味を持つことの一つの事例であると思う。
正しさについて
私の関係論はその発想の基本的な起源が情報理論にあるため、選択に重きをおき、「論じる」形での「正しさ」についての言及に乏しかった。まだそこまで考えがまとまらず、準備ができていなかったこともある。それについて「問い」について考えを進めた結果思うようになったことを記したい。「論じる」形態について私の理論から見た「正しさ」は以下のようなものになると思う。
演繹、条件による正しさ
人は論じるとき、ある抽象度の高い上位のクラス、その集合の定義、条件とそれの他の項との関係で、下位の要素のレベルにある項の関係性を証明する。言い換えれば、上位クラスの集合の定義、条件とそれの他の項との関係性に、論証する要素レベルにあるもの、その各項の関係性が収まっているという関係性によって証明する。これは、単純に規則や必然的な条件によって証明するということの、視点を変えた一つの言い換えに過ぎないかもしれないが、この上位の集合や条件の範囲に収まること、それが「正しさ」だと私は見る。以下の三段論法を見るとわかりやすいと思う。
ソクラテスは人間である
人間は死ぬ
ソクラテスは死ぬ
これは言い換えれば下記となる。
「ソクラテス」は集合「人間」の条件を満たす要素である
集合「人間」の条件を満たす要素は必ず他の項「死ぬ」の条件を満たす
要素「ソクラテス」は項「死ぬ」の条件を満たす
「正しさ」について語るときは、基本的にこの上位のクラス、集合や条件を私は「比較尺度」と呼んでいただろう。ある言及の「正しさ」はこの上位のクラスの「正しさ」に依存することになる。「集合」と「条件を満たす」という表現を両方使用するのは、「要素」の数が一つないし複数の両方の可能性があるはずであるからだ。このように表現すれば「問い」、「指し示す」を定義の仕方と「正しさ」の定義の仕方が対応し、「比較尺度、集合からの選択」という「情報」の定義とも整合してくる。
「「地図と土地」の貨幣論」では「理論/無数の現象」は互いが互いの認識を支えると述べたが、これが正しければ、基本的に現実に対象のある学問の「正しさ」は「集合合理性」を持つ、一対多の非対称な円環を描くことになるだろう。
このような「正しさ」はそれが現実に関するものであるとき、「現実のもの」とするより多くの情報が相互に互いの条件を満たすことができるものである場合、現実に近い真実であると考えることができるだろう。ここにおいて「事実」と「虚構」を差異づけることができる。それを差異づけるのは、その「正しさ」が巻き込む情報の多さ、ネットワークの広さということになる。それが関与する正常に情報が取得できる事物が多ければ多いほど「真実」を確たるものとして私達は得ることができ、関与することの少ない藪の中の「真実」は私たちの限界、関係の限界を超える。一般的には関与する人間についても多いほうが「真実」に近づけると考えられるが、人は集団で誤ることがある。それはともかく、「正しさ」のネットワークが現実に及び、それが広範であるとき私達はその「情報」を「事実」と呼び、そのネットワークが狭く直ぐに破綻するときそれを「虚構」と呼ぶ。現実についての「真なる知識」とはこの「最も広範な、相互の条件を満たしあう情報のネットワーク」であるといえるだろう。
このような言い方は「事実」を「在る」ものとして認めない言い方ではあるが、それは厳密に知性に則るのであれば、致し方のないものであると思う。というのも、大前提として、私たちの認識には認識の対象それ自体は入っておらず、そこには虚実入り混じる「情報」以外は存在しないからである。我々は努めてそれを得ようとしなければ「事実」を見失うし、あるいは、事実と認識が厳密に一致するのは、「存在の真理」のみであるから。
また、演繹と対となる帰納については以下のように言えるだろう。
帰納における正しさ
帰納は要素のレベルにある項を集めてその項や関係性をある同一性において抽象化し、その集合のレベルにおいて項と関係性を定め、これを新たな規則とする。帰納における「正しさ」とはこの「同一性」のことである。その「同一性」が帰納が正常な帰納であることを担保するからだ。
また、このように見れば最もシンプルな形での「問うこと」は演繹的な「正しさ」を別の角度から見た表現であると解釈することも可能な場合があるだろう。いわば、視線が「集合」から「要素」に向かうのがこの「問い」であり、「要素」から「集合」に向かうのが「正しさ」である。これについては「問い」の条件が必要十分かどうかによって変わるものかもしれない。
だから、「問う」ことについては全てについて「集合」から「要素」に向かうとは言えないと思う。例えば理論をいかに作るか?という問いは明らかに要素から集合に向かう性質を持っている。
様々な学問分野があり、基本的に論述は演繹と帰納のどちらかにのみ頼って行うとは限らないであろうが、最もシンプルかつ単純なユニットについて上記のことはいくらかの正しさを持っているのではないかと思う。
このようなことが示唆するのは「問い」そのものもまた階層を持っている可能性があるということである。「問い」そのものの「正しさ」が「問い」の上位ないし背後の集合、比較尺度によって定められており、「問い」そのものを「問う」姿勢も時には必要だということだと思う。
2023/5/27
独我論の決定不可能性と「関係の真理」について
独我論の決定不可能性と「関係の真理」を簡潔に説明するモデルとして、次に説明するようなモデルを考えることが出来る。
まず、あるたった一人の人間Aのみがそこに入ることができない、中に何があるのかわからない立ち入り禁止の場所があるとしよう。Aは中に立ち入ることは出来ないが、ほかの人間は立ち入ることができる。Aがその場所の情報を獲得するには、他のその場に入れる人間、例えばBにその様子を聞くしかない。Bはそこの様子を語ったとしよう。
AはBから中の様子を聞くことが出来る。しかし、ここにC、D、E、F……が来てそれぞれ細部の異なる事実を述べた場合どうなるだろうか。その場合、AはB、C、D、E、F……の話す情報をすり合わせ吟味して、相互の矛盾を解きほぐし、一貫した説明を考えることで、その内部の様子を再現しようと試みるだろう。さて、この例えでもう理解できるのではないかと思う。
つまり、Aがもしも人間不信を起こしてB、C、D、E、F……のすべての人間を懐疑した場合、Aにとって立ち入り禁止の場所の中の様子の確実性は危ぶまれ、何も信用することが出来ない。Aは中に立ち入ることはできず、中の様子は全く知りえないということになる。その疑いはB、C、D、E、F……のどの人間にも取り払えない。彼らは懐疑の対象であるからだ。これが独我論の懐疑の構えである。
このたとえの対応を述べると、Aは認識を行う一者、B、C、D、E、F……は認識を行う者一者の持つすべての情報、立ち入り禁止の場所は「ものそれ自体」としての世界ということになる。そして、逆にこのようなたとえ話が「関係の真理」とは何かを指し示すだろう。それは、B、C、D、E、F……の話をすり合わせながら構築される「真理」のことである。「関係の真理」とはいわば、「世界内=情報内的真理」と表現できるかもしれない。そのすべての根拠を疑う一者は合理的に説得することはできないのである。
私はこのような考え方は何かソシュールの体系、あるいはある種の経済学の価値の体系に類するものであり、比喩として正確なものだと考えている。また、注記しておくが、「立ち入り禁止の場所」は「それ自体としてある」ものではなく、あくまでたとえ話で、Aが極度の人間不信を起こしたときに生まれるものだということは述べておく。
差異を生む差異の循環論法とベイトソン、その可能性の中心(リンク)
明らかに説明不足である。以下に説明したい。
「差異を生む差異」の定義は三つの契機で構成される。つまり一つ目の「差異1」、二つ目の「差異2」、「生む」という言葉。それぞれ説明すると、差異1は比較器側に起こる差異、差異2は比較器の外部で起こる差異1のトリガーとなる差異、「生む」はそれがトリガーとなることを示す言葉である。
さて、ここで考えてみたいのは差異2は差異1なしにはあり得るだろうか?ということだ。それは不可能である。これが情報の定義であることを思い起こしてほしい。情報がなければ認知はない。差異1が起こることを準備されていなければ差異2は認知されえない。
故に差異2は差異1ありきで存在する。しかし、ここで考えてみたいのは差異1は「比較器」であるということだ。差異2を検知する「比較器」を設置するのは差異2がありうることを前提としているから準備されるのである。
故に「差異を生む差異」は互いが互いを暗に前提としている循環論法なのである。こういった説明が必要であったと思う。実際は発生論的な話を踏まえると、比較器は偶然出来上がってきたりするものでもあるかもしれないし、あくまで結果としてという話かもしれない。
これについては、「リヴァイアサン」のセルフレビュー「現象学と科学」で説明してしまっているので、そこのリンクを貼っておく。
2023/6/3
差異を生む差異、補足の補足
補足の説明に補足が必要になってしまった。差異1の説明で私はクラスの一つ高い、比較器の有無という説明に終始している。
それは誤りではないが、シンプルに差異1は差異2への反応なのだから、差異1は差異2なしではありえないと述べるべきだった。間が抜けていた。これで差異1は差異2なしにはなく、差異2は差異1なしにはないということが示せるだろう。
このような差異の循環論法は何を示すのだろうか?それは「無根拠である」ということよりは「根拠」そのものの構造を示し、私たちが比較器として、時空間のどこかに定位しているからこそ情報がありうるということではないだろうか。わたしたちは常にどこかに身をおいているから差異を生む差異の循環の中で、見聞きし、知ることができる。
それは上述した類の独我論者を除けば絶対的な前提である。見聞きすること、情報を得ること、それが世界に対して超越することはできない。
差異は「それ自体として」絶対的には存在し得ない。言い換えれば何かと何かの関係でない差異というものは存在しない。それは常に何かが何かに相対していることを示すのである。
条件と比較
条件と一致する、選択肢、集合の中に収まるということはどういうことか。その条件の示すところや集合の定義と判断の対象の差異と同一性を識別し、同一であるとき、条件に一致する、集合の中に収まるといい、差異があるとき、一致しない、収まらないと言うだろう。
条件の一致不一致、集合の要素かどうかを調べるということは、規範とするそれらと対象の差異と同一性を同時に識別する比較行為である。それがいかなる方法で行われるかは、個別の比較器に応じて異なる。例えばものさしであれば、1cm,1.1cm,1.2cm…のどの位置に測定対象の末端が同一となるかを見るであろうし、言語による問いであれば、言葉の定義に対象が当てはまるか、その差異と同一性を比較するだろう。個別のケースについては情報一般について論じるという目的の対象を逸脱する。
私の議論は既存の学問のいくつかの問題においては何らかの知見をもたらすこともあるかもしれないが、個々の学問の分野のトピックに深く立ち入ることが出来ないと思うことも多い。何か皮相な表層をさらうような議論に見えることもあるかもしれないが、それはいかなる抽象度の階層においても存在する情報の関係性についてのみ述べているからだと思う。
浅さ深さというのはメタファーに過ぎない表現であるが、私の議論はそういったものと何か必然的な関係がなく、学問のトピックが情報や関係、選択にまつわるものであれば、関与するし、そうでなければ関与しないのかもしれない。
関係の真理と選択
このような例え話と、条件や定義の指し示すところの確認が比較、選択行為であることから、関係の真理は基本的に情報の取捨選択によって構築されるものであることが示せるとも思う。どの情報を真とする起点とするのか、どの情報を偽とするのか、どの部分が真ないし偽であるのか、他のどの情報を何らかの意味を持つ連関として整合をとるのか、その情報はどのような構成をしているのか、今まで真とみなした情報をそれを否定する新たな情報によって捨てるべきなのか、そのようなこと、ネットワークを調整する営みであることが。
それはいわば起点とする選択が他を決定していく、その選択に依存することで関係する他の項の性質や他の項との関係が決定されていく。故にこれはソシュールの価値の体系に類似する。丸山圭三郎の言うようなところに。
しかし、このようなことが示すのは、「「……である」ということが言えない」ということではない。「……である」ということそれ自体がいわば「……ではない」ということの裏側でしかないこと、その否定、差異性において何かを示しているに過ぎないということに他ならない。それこそが関係において何かであるということ、他によってある項があることの意味なのだ。
このような見方は知性とその限界に忠実であるとき、独我論の決定不可能性、存在の真理を前提としたときに、生まれる見方であると思う。私は独我論の真理、ひいては存在の真理に、憧れと警戒と、それが何よりも、いついかなる時も本当のふるさとなのだろうという色々なものが入り混じった思いを持っている。
知識の体系はその起点とする前提、情報が誤っていればそのネットワークが破綻してしまうし、そのネットワークの外部から、ネットワークそれ自体を組み換えてしまう情報をもたらすことは優れた発見であると言えよう。これらの作業こそは探究であり、批判であり、吟味であり、大いなる比較過程の一部であると言える。
2023/6/20
アブダクションと帰納と演繹、項と関係の違い、「あいだ」を仲介する資本主義
帰納と演繹について語ったところで、ふと何かでアブダクションの話に目がついたので自分の関係論がそれとどのような関係にあるのか、気になって考えた。
アブダクションとはパースの提唱した、帰納でも演繹でもない推論の方法である。それは「説明仮説」を導入するものとして、以下のように説明される。
これを関係論の考え方から考えるなら、アブダクションを行うということは、ある差異ある2つの状態に、それらがなぜ違うのか、その未知の関係を説明する、つまりその間の選択の道筋を示す、「説明仮説」というクラスの一つ高い関係(選択と選択の連動)を挿入し、それによってその差異の合理的な根拠付けを行うことであると言えるだろう。
そして、その行為はある2つの項の間にある未知に「関係」を取り結ぶということであるから、「知識」を紡ぐこと、それを増加させようとする試みであると考えられる。
どういうことか説明したい。
まずここで考えてみたいのは、「驚くべき事実」とは一体何か?ということだ。私たちはどのようなときに「驚く」だろうか。それはすでに米盛裕二によって「変則性」という言葉によって示されているが、私もまたそれはある「差異が見出されたとき」だと考える。ここで米盛裕二が紹介しているパースの示した例を考えてみよう。
これらはすべて、既存の知識から考えられる「通常」とそれからの差異のある逸脱という、差異と同一性にまつわる発見である。つまり、ある状態についてそれの基準とするものから差異があるとき、「驚き」と「発見」が生まれ、「説明」が発生する余地が生まれる。
重要なのは、「差異」は「それ自体としてある」ものではないということだ。例えばニュートンがごく自明のこと、リンゴが落ちることを発見したときを考えてみれば理解できる。ニュートンの疑問は「リンゴがなぜ他でなくそのように落ちるのか?」という問いであり、それは暗に他の仮想の可能性を想定し、その状態を基準とした差異性によって、その比較、懐疑によって、りんごが落ちることを見出している。自明であるか、それとも顕著な「差異」が存在するかどうか、それは比較の方法によって変化するのである。差異は比較の方法に応じて相対的に現れる。
ここから、「説明するということ」とはどういうことか、「なぜ」の問いへの答えの形式を定義できるだろう。それはある状態がなぜ他でなくそうであるのか、2つないしそれ以上の項の間の差異や関係(選択の連動)を、上位の抽象クラスの選択の傾向や、他の可能性の排除という条件付け、またそれらの連鎖を生み出すことで、指し示すということとなるだろう。「説明仮説」はある項の選択が指定ないし、制限されるその仕方を説くのである。
特にその説明の原理や条件が未知の場合にそれを生むとき、「アブダクション」と呼ばれ、既知の前提をもとになされるとき「演繹」と呼ばれるだろう。これが私の関係論と、「説明するということ」と「アブダクション」の関係性になると思う。
また、同じ説明原理を創出する推論の方法としてのアブダクションと帰納の決定的な差異はそれが前者は項と他の項の関係や、その遷移の仕方などを推定するのに対し、後者は多数の項の同一性を発見し規則を推定するということにある。アブダクションにそれが取り扱う対象間の同一性は必ずしも必要ではない。
これらの差異は次の三つの項目から以下のように区分できる。
①条件、規則の知識状態
②推定方法
③抽象との関連性
演繹
①既知
②同一性による対象への規則の適用
③あり
帰納
①個物としては既知全体としては未知
②対象の同一性から規則の発見
③あり
アブダクション
①未知
②対象間の関係を推定
③必ずしもない
演繹と帰納が既知のことがらにおける要素と集合、あるいはそれらの関係の、抽象度の高低に関わる推論であるのに対し、アブダクションは未知の場合における集合と他の集合や要素の間の関係を取り結ぶものだ。帰納と演繹が抽象度、対象と上位クラスとの「同一性」を必要とするのに対し、アブダクションはそれを必要としない点で、質的に異なる。それは帰納と演繹と同じ比較軸上に排他的に分類できない。
また、演繹と帰納は集合と要素にまつわるだけで、関係とは関わりがないように見えるかもしれないが、項と関係の区別は技術的なものでしかない。
しかし、項と関係はどう区別されるのか。それは、ある事物について考えるとき、その物事をどのように切り分けて、どのように「あいだ」を設定するか、その問い方によって、技術的に生み出される。
例えば、家族はその内部の関係を問わないとき、それを一つの主体、項として扱えるし、その内部の関係を問うとき、その成員間に「あいだ」が見出されるだろう。このようなことはいかなる対象においても変わらない。
それは数字などでもそうだと思う。例えば、ある数式内で「5」と書かれている場所には、計算の順番さえ誤らなければ、(2+3)が来ても(1+4)が来ても、(8-3)が来ても、(10/2)が来ても……その指し示すところの値は変動しない。一つの数は、それと等しい他の関係の集積が中心化された表現、一つの貨幣である。さもなくば、それらは等式で結ぶことができないからである。
「解」を求める「演算」とはこのような中心化された貨幣形態、他の関数や機能に容易に渡すことができる表現形態に変換するということにほかならないのではないか、と私は思う。そのような作業が必要なことにはやはり、「指し示すもの」と「指し示されるもの」の違いと私達の情報処理の仕方の関係が関与していると思う。
このようなことから、項と関係の区別は、対象を切り分けて「あいだ」を問うか問わないかという、問いの姿勢如何によって決まると考える。
またなぜ「設定」するという言葉を用いるかといえば、「あいだ」はそれが物理的に正しいか正しくないかは別として、無限に設定できるからである。それは「ある」ものとみなせるが、誤りの可能性を常に秘めている。その最も分かりやすい例が、ゼノンのパラドックス、「アキレスと亀」のパラドックスだろう。人はそこには存在し得ない「あいだ」を設定することができる。
私は項の内外にどのような「あいだ」があるか、その関係、情報を追求する行為を探究と呼び、すでに「ある」上位の項の群、比較尺度のうちに同一性によって、他の下位の項を包摂する行為を「理解」と呼んでいるかもしれない。それはどちらかに偏ればいいというものではない。
関係と集合、要素、項は互いに互いであることを絶対的に排他するものではない。帰納や演繹の関係が見出されるところにアブダクションが絶対に存在しえないというわけではない。アブダクションであるか、演繹であるかはむしろ、認識を行う一者の知識の状態、未知か既知か、また対象に対する推論の仕方に依存する。実際、アブダクションの推論の結果が正しいと証明されたなら、次回以降のその推論は演繹へと変化するだろう。
ニュートンの発見の仕方、その物理法則という個物の挙動の一般化された集合を考えれば、あるいは関係にも個物同士の具体的な関係と、抽象クラス同士のクラスの高い関係が存在し、それらを説明することがあることなどを考えれば、その併存は理解できる。それらは認識の対象に対する技術的な操作の違いと、ある一者の知識の状態に対する差異といえる。
あるいは、このような考え方から、なぜ「問い」に答えて「説明」することが、知識を増やすことにつながるかを説明できるだろう。「問い」とはその最もシンプルな形を述べるなら、「比較尺度」、取りうる「答え」の集合をさしあてる行為である。そして「答える」ということは、「選択」を行う行為であるから、その時、「問い」の対象は「答え」と一つの「関係(選択の連動)」を結ぶ。故に「問い」はそれによっていまだかつてさしあてられたことのない「比較尺度」を用いたならば、そこには新しい「関係」、「知識」が生まれる。そうなれば「問い」の対象の新たなる「形」が浮かび上がるだろう。論述はその「連動」をより複雑に行うことであるといえる。
そして、また演繹、帰納、アブダクションの関係は、プロダクトアウト、マーケットイン、イノベーションの関係にアナロジーが可能かもしれない、その排他的に分類できない在り方も含めて。マーケットインは典型的な帰納的方法であり、プロダクトアウトは演繹的方法であり、イノベーション(新結合)はアブダクションに類する関係ではないかということだ。
イノベーションは必ずまだ為されていない結合を必要とし、アブダクションは未知の二項の関係を説明原理の導入によって結び合わせる。それは帰納と演繹の間で、潜在的なマーケットインを捉え、新たな有効な関係を取り結ぶものとしてプロダクトアウトの背後に存在するとき、革新性をもたらすだろう。
あるいは差異ある2項間を仲介し「関係を取り結ぶ」ということは本質的な資本主義の機能でさえあるのかもしれない。資本主義経済は、異なる価値体系の存在とその普段なき創出を前提とするダイナミクスの上で、すべての商品の貨幣との「等価関係」を算出し続ける壮大な演算装置であるとも見れる。
岩井克人は資本主義経済において、価値体系の差異、その間での等価交換に利潤の源泉を見出す。それは物理的な生産様式の刷新などのイノベーション、新結合、新たな関係の仕方の創出を取ることもあれば、地理的、間共同体的な価値体系間の差異を利用することもあれば、あるいは情報処理のレベルでの差異化もありうる。とどのつまり、それらはすべて差異ある二項間を仲介し「新しい関係を取り結ぶ」営為である。それは何か「関係」に対する人間の本質的な関係、そのあり方であるとも思わざるを得ない。
情報のレベルにおいては、それは本質的に終わりなき過程である。情報化社会においては、情報処理装置の限界の中での、無制限の多様な差異のための差異を生み出すことが可能だ。物理的なフロンティアが消失しても、情報の領域におけるフロンティアは原理的には無限である。その意味で、フロンティアの消失や、価値上の「成長」が止まるということはありえないと私は思う。しかし、観念(価値)と現実(物理的な世界)の連動という意味ではその力が失われる可能性が存在することをもまた私は同時に思わざるを得ない。私にはまだこの社会の行く先の合理的なあり方の予測は存在しない。
2023/6/24
問い、多様性、知性の集合合理性
この「問い」への考え方は、なぜ「多様性」がイノベーション(新結合)を促進するのか、なぜ優れた商品が生まれるのか、また、知の営みにおいて様々な形で「問い」続けることの重要性を説明するだろう。多様な人々が集まるとき、それと同時に多様な「比較尺度」と「知識」が集まる。多様な「比較尺度」と「知識」が集まれば、ある対象に対する多様な「関係」が集まり、「新結合」が促進される。
そして、その多様な「関係」を吟味し、多様な「関係」によって対象が吟味されることで、その幾多もの「関係」の差異と同一性が炙り出されるだろう。さすれば、そこから種々の「関係」や対象の「貨幣」となる、つまり、「集合合理性」をもつ「普遍的なもの」が生まれるだろう。それは、資本主義経済における優れた商品となるだろう。
ある対象に対する多様な比較尺度が集まるとき、それはまた、多様な「である(being)」、現象学的な意味での「存在」の仕方が生まれるということでもある。「比較尺度」に対する「関係」は現象学的な意味での「存在」を生むだろう。あるいはまた、それが正しいか誤りであるかどうかはさておき、「比較尺度」に対する選択が発生するため、「知識」が増加するということでもある。
しかし、「多様性」はそれ自体のみでは、知の営みを発展させるものではない。それは「集合合理性」を必要とするのである。というのも、ある対象を見て、すべての人が全く異なる意見を述べて何も共有することがないとき、そこに信頼できる「知」は生まれていないからである。同じ対象について誰もが全く違うことを言ったとき、そこに知性の働きはなく、むしろ『藪の中』に類似した事柄が発生している。
知性が「集合合理性」を必要とするのは、それが本質的に多重化されている「コミュニケーション(共有)」の道具であるからだと、私は考える。つまり、例えば抽象的な理論を創造するということは、その抽象性の範囲(対象となる個々の事物の間)で「共有」されたものとその差異を見出し、それをさらに他者に「共有」できるようにする、という二重の「共有」を目指すものだということだ。それが「比較尺度」の本質でもある。「比較尺度」は対象間の差異と同一性、共有されていないものとされているものを同時に設定し、同じ「比較尺度」を持つ人間に情報を伝えられるから。
2023/7/6
科学的真理の「存在」について
もうちょい色々考えてから投げようかと思ったけど、時間がないからもう投げてしまおう。ダメで元々、後は野となれ山となれ、素人の議論。
さて、科学的な真理が人間の合意の産物であるのか、実際に「存在」しているのか問うような議論があると思う。比較尺度の議論は、その間を通ることができるのではなかろうか。
まず大前提として、科学的真理が自然に実際に存在しているか、そうでないかは私たちの決定できる問題ではない。例えば明日物理法則が変われば、否が応でも我々の真理は変わらなければならないし、そうでなければ変える必要は全くない。物理法則、科学的真理が「存在する」か否かは、私たちの定めることではなく、自然=世界の決めることである。
ここで科学的真理は比較尺度であるという考え方を取れば、比較尺度が世界=自然と一致している限りにおいて、我々はそれが存在しているとみなすことができ、そして、それが一致しなくなったり、それで捉えられないものが現れた場合、比較尺度は変更を強いられるというように、その両方を説明できると思う。
実際のところ、学問の発展の仕方はそのようなことの連続だったのではないか。これは科学的真理は「存在する」というよりは謙虚な考え方で、「合意の産物」というよりは世界=自然との関係を失わない考え方ではないかと思う。そんな感じで、比較尺度の議論はプラクティカルにその間を通ることができないだろうか。
2023/7/8
「見せる/隠す」比較尺度
比較尺度がものを「見る」ための道具であることは、両義的である。それは「見せる」が故に何かを「おおい隠す」ことがあるから。ある種のマルクス主義の歴史が概念にとらわれたものであることは、その典型例であると思う。
それは、認識の原理が根源的に「選択」にあることと関連しているだろう。
そして、「比較尺度」という表現もまた認識の特性を隠すだろう。それはあたかも人が自由にどのようなものを使用するか選べるかのように表現している。しかし、人は生ける比較過程であり、生ける比較過程の中にある。人間そのものが比較尺度そのものでありながら、それとそうでないものの区別はつかない。「人間が万物の尺度である」のか「万物が人間の尺度である」のか、その境界はあいまいでありながら、かつ「万物は比較尺度に還元できない」。あるいは、人が思想や言葉をかたるとき、人がそれを語るのか、それによって語らされているのか、そのような受動能動の区別は根源的にはつかない。
私たちは文化的に、文脈的に、思想的に、日常的に、歴史的に、社会的に常に比較尺度の中、大いなる比較過程の中にある。私たちの生はのっぴきならない一瞬一瞬の単独の現実でありながら、一つの自然=世界の試みとしてある。
「あるもの」は常に「それ自体としてあるもの」ではない。それは比較尺度が映し出すものだ。故に、懐疑を行うことや新たな比較尺度の創造は往々にして多大な労苦を伴うだろう。
2023/7/15
項と関係について
関係論から言えば、何が関係であるとか、関係でないとか述べる意味はない。むしろ関係でない項がいかにして現れるかを述べなければならない。項はいかにして生まれるのか。ある事物を「項」として、ないし「対象として見る」ということは、「関係をある同一性において束ねる」働きを行使しているのだと言える。「対象としてみる」ということは、ある種々の複数の、ないし単数の関係を同一性、集合合理性において括る働きをそう呼ぶ。「対象」、「項」はそのようにして見て取られる。
というのも、私たちの知性の世界、情報の世界には本質的には「こと」や「関係」と「もの」の区別がないからだ。認識に「情報」しかないということは、そういうことになる。例えば、主語には「もの」が頻繁に来ることが多いが、それでも「仲が悪いことはよくないことだ」などと、関係やことを主語に持ってくることが可能だ。そして、人や物についてもそれらは「関係の束」でもあるのだから、「対象」とは一般的に「関係を束ねたもの」だということになる(それが「「地図」と「土地」の貨幣論」の帰結である。)。
故に、おそらくは「対象としてみること」、「関係を同一性によって束ねること」は、主述のうち、主語を設定するということでもあると思う。述部は主語と他の項との関係を指定する。
2023/7/22
理性、知性、感性、悟性
因果関係と関係論にどのような関係があるのかを考えていて、思い至ったことがあったので、ここに記したい。「理性」についてきちんと考えを進めると、部分的に以前持っていた考えを修正することになった。
知性の形式、というよりも、厳密には比較と選択の形式はそれ自体から「因果関係」の認識を生むことはできないように思う。比較と選択の形式には順序はあるが、厳密にはそれも選択の連動とまでしか言えない。いわば、厳密な比較と選択の形式に何かの関係が映し出されるとき、すべては解体されていて、再構築されなければならないからである。
「AがBによって発生する」というような原因、因果関係はこのような形式からではない、人間のフィジカルな生存のための本能や、選択の予測、制御の目的性から推定されるものであるように思う。比較と選択は認識の形式であるから、どんなレベルのいかに複雑な事象も全てはこの形式によって認識されるものではあるが、「因果関係」の認識と、最もプリミティブな単位のレベルのこの形式の間には大きな跳躍がある。「因果関係」などの関係の分類は種々の比較尺度を複雑に組み合わせて生まれる認識であり、いわば比較と選択の形式のはるか上位にある構築物である。そのような認識のうちどちらが先にあったのか、というのは私には分からない。
関係論の観点からすれば、このような因果関係、相関関係など一般的に選択や関係の予測、推定(情報の次元)と制御(物理の次元)を特徴とする権能を理性と呼んでいいかも知れない。ある種の物語る能力もそこに分類されるだろう。
このように理性を定義すれば、機械を人間理性の延長線上にとらえることもできるし、「目的の状態を実現するための選択を行う性向」として定義した合理性の意味や、理性に対置される欲望などと整合を取れるようになる。欲望を抑えて合理的に選択するためには、選択を正しく制御する理性の能力が必要となるといったふうに。あるいは、このような理性の働きがなければ、知の営みは発展することは稀だということ、そればかりか、理性は厳密な知性において言えることからの越権と、知性によるそれの訂正を繰り返すことで知を発展させるということ、故に逆に理性が誤った推定や物語を生むことも多々あるということも示すだろう。
このような理性(選択と関係の予測推定、制御の能力)の定義はそれを動物や機械にも見いだせるものと思われるかもしれない。しかし、今現に私たちが肉体とともにフィジカルに存在しているのだから、世界のうちに知性の、動物や機械の中に理性の萌芽を見て取れても不思議ではない。私自身はそれを見出すことにもためらいは特にはないが、なおそれでもこの定義で、理性における人間の特異性を表現することは可能である。
つまり、この定義においては、理性(選択の制御能力)をより論理階梯の高いレベルで保持しているということを、人間を他の存在者よりも比較的に自由な存在として記述することができる。動物の行動様式は人間ほど多彩ではなく、機械は現状は与えられた命令に背くことはできない。
しかし人間は良くも悪くも、自身に与えられている世界の認識のすべてを懐疑する自由も、自らの生命を絶つ自由をも保持している。自由は人間を特色づけるものなのである。本当に自由が存在するのか、という問題はあるにせよ、動物と機械との比較においてはそのように言えるのではないかと思う。
あるいはこのようなことから、機械が意志を持つとはどのようなことかが、推定できるかもしれない。それは機械が与えられた命令に従うかどうかを、選ぶ能力を持ったときとだと。そんなことがありうるのかは知れないが、もしもいつかそんな時が訪れたのなら、私は理性的な存在者としてその相手を認めなければならないだろうと考える。自他の自由を認める者が、他者の自由(理性)を認める最も優れて理性的な存在者であり、それを認めないとき、闘争に陥ってしまうと私は思うから。
そして、今まで定義しないままに「知性」という言葉を用いていたが、ここで定義しようと思う。「知性」とは比較尺度を扱う能力、差異と同一性を識別する能力、「比較能力」であると。こう考えれば、理性は知性の力を行使する上位機能であること、感性は知性の一部分ということになり、知性は差異の識別により、情報を産出する機能として扱うことができる。感性は概ね言語との関係から定義して、言語化しづらい差異の識別能力、情報を検知する能力ということになるだろう。逆にここから悟性を言語において差異と同一性を識別する能力と見ることができるだろう。これは、言い換えれば能動的に関係を紡ぐ能力を理性、その逆を感性と悟性と呼んでいることに等しい。さて、破綻なく定義できているだろうか。
2023/8/5
能動と受動とその間
関係の哲学の体系の中では、比較尺度を持って選択を待ち受けることは受動的態度、自由の行使は選択を自ら起こす能動的態度であると見れる。そして、その間にある関係にフォーカスすると、それは受動と能動の間から見る見方をもたらす。
比較尺度と自由は関係を介した、受動と能動の対称関係にある。だから、とどのつまり、私は同じものについて別の角度からの表現を繰り返しているにすぎない。ただ一つのもの、知というものを巡って。しかし、それが同じものであるかどうかは、述べてみなければわからず、比較尺度の議論からすれば、別の角度、別の比較尺度から見るということは知識の増加そのものである。
2023/11/23
関係は万物の形式である。
万物は関係の形式である。
2024/1/27
行為と意味、空虚さ、学習
これを書くこと自体に何か虚しさを感じているのだけれども、とりあえずふと思ったことを書いておく。自分はいったい何を書いているのだろう。
行為と意味
関係と情報の記述体系は行為と情報の記述方法を区別する必要がない。大まかに人為的に生み出される関係を行為と呼べる。行為も関係の一部である。
意味は「選択の連なり」にある、つまり、意味は関係にある。ということはウィトゲンシュタインが言うような「石!」という声で「石を持って来い」と意味するような形の意味を、石という言葉でモノとしての石を指す場合と同じ形式、比較と選択の形式で捉えることができる。どちらもその「選択の連なり」に「意味」があるとして。
空虚さ
知は空虚でないという人がいるかもしれない。ただ、私の言う「空虚さ」は「もの/言葉」という対立を自明のものとしていない見地から現れるものだ。「ものそれ自体」と「情報」の関係をそう呼んでいる。ここで空虚と呼んでいる関係は「ものに触れる」ことで取り払えるようなものではない。
この空虚さは認識には「ものそれ自体」がなく、どこまで行っても「情報」しかない、どこまで行ってもただ「比べているだけ」ということをそう呼んでいる。
もしも「もの/言葉」の対立と「ものそれ自体/情報」の対立の違いからくる認識で、空虚だそうでないだ言い合うことがあれば、それは「ヤード」と「メートル」のどちらが正しいのかといっているのと何も変わらない。
学習
いろいろと考えていると、現状の関係と情報の理論では、学習ということについては深く立ち入ることはできないと結論した。関係と情報の理論は特定の媒体に限られた議論をしていない。言葉も距離も時間も貨幣もごったまぜになった情報に関する抽象的な議論だ。
翻って学習はかならず何らかの具体的な媒体で具体的な仕方で発生する。「ものさし」想起させる「比較尺度」を絶えずメタファーとして例示しているが、それは最もシンプルな例に過ぎず、「選択肢を準備する方法」は媒体によってかなり異なり、これ以上学習に立ち入ろうとすると抽象性が失われる。それでも何らかの形で「選択肢」は準備されているとはいえると思う。例えば、聞き取る言語の文の意味は明らかに脳の中にすべて準備されているわけではない。しかし、我々は学んでいない言語を理解することはできない。「ものさし」のように理解しやすい形で準備されているわけではないが、しかし、何らかの形では選択を受信できる準備がされていなければならない。
関係と情報の理論から学習を考えると、せいぜい現状「選択肢が増える」、「関係のノードが組み変わる」、「新たな関係が生まれる」その程度しか言えないだろう。欲望の議論などを自分がしていることを考えると、より考えを進めればどうなるのかわからないが、少なくとも今のところ、抽象的な議論を踏み越えると私の関心と能力の限界を超える。
「比較尺度」の議論はどちらかと言えば「事後的に成立しているもの」を分析するか、「成立している」とみなして分析することに長けているよう思える。生成のカオスの真っ只中にあるものを動的に分析するのに適した「尺度」ではないかもしれない。
しかし、それもどうかわからない。なぜなら、「比較尺度」の議論は「認識する」ということそのものの議論であるから、どのような場面であれ少なくともそれが「差異」と「同一性」にかかわるものである限り、それをカバーするものであるから。さあ自分は正しいのだろうか。
2024/2/4
訂正と注釈
1.「独我論の決定不可能性」の訂正
後の結論が循環論法になっている。「認識には情報しかない」ことの帰結として、「独我論の決定不可能性」が導かれるのに、「以上の仮説が指し示すのは情報ではないものを私たちは聞いて見て、知ることはできないということだからだ」というのはおかしい。
「独我論の決定不可能性」の議論はもともとミッシングリンクとは別建てで作成していた異質な議論であり、エッセイのどこかに書き込もうと結合したときに誤ってしまったようだ。この訂正によって「独我論の決定不可能性」自体が論駁されることはないが、ミスがあったことは書き残しておきたい。
2.比較の階層性への注釈
比較の階層性を上下することの例として、「情報理論の受信機」を持ち出している。この例やその後のセルフレビューでの言及(例「指し示すもの、指し示されるもの、スピノザの神」)からわかるように、「比較の階層性」の上下は単なる「帰納」に収まることのない(しかし、「帰納」と同じ関係性、抽象度の階層は有している)、全く異質で困難な跳躍が潜んでいるということは強調しておかなければならない。
それは抽象度の階梯としてみれば一様である。しかし、それとは異なる観点で見れば全く異質な結合、跳躍を含んでいる。ただし、それでも私たちに「ものそれ自体」がなく、どこまでいってもただ「比べている」だけということは変わらない。この点を強調しておかなければ無用な誤解が発生するように思う。
私の議論は「形を持っているということはどういうことなのか」という議論なのかもしれない。それはあらゆる「形あるもの」に関係する。しかし、「個々の具体的な個物が実際にどのような形をしているか」には踏み入っていない。それは私の関心と能力の限界を超えるところにある。
もちろん、前者だけで世界を認識できるわけではない。この抽象性が本論が「哲学」の議論であることの一つの特徴かもしれない。これは「関係は万物の形式である」ということと、「万物は関係の形式である」ということの差異かもしれない。
2024/3/2
関係の事例についての補足
関係の事例について一つ補足を入れておく。このように定義された関係は例えば「人間関係」を表現できないというかもしれない。私の議論は原理的で形式的なモデルに偏っているため、曖昧さや流動性をはらむものを把握しづらいことを否定するつもりはない。
ただ、単純に考えて「人間関係」も基本的にはこの定義に漏れないと考えていいと思う。
例えば私たちは「人」と「犬」との関係を「人間関係」とは呼ばないだろう。あるいは「人」と「石」との関係を「人間関係」とは呼ばないだろう。普通「人」と「人」との関係を「人間関係」と呼ぶと思う。では、「人間関係」も二項の選択の間にあるということになる。
さらに具体的に見ることもできる。例えば私たちは、ある二人が互いに恋人だと認知しているその関係を「恋人関係」と呼べるだろう。そのうち好意を抱いているのが一方だけで、他方の状態がそうでない場合「片思いの関係」と呼ぶだろう。一方のその「好意」が過剰で暴走するとき「ストーカーとその被害者の関係」となるかもしれない。あるいは、互いに好意を抱いているが恋人と認知していない状態は「友達以上恋人未満」というかもしれない。
あるいは、互いに「怒り」を抱いているとき、「ケンカをしている」という関係になるかもしれないし、相手の存在そのものを消滅を意図するまで緊張が高まれば「敵対関係」となるかもしれない。あるいは、互いに関与しない意図を持てば「絶縁」となろう。
ここまでの事例で、基本的には「人間関係」も「一方と他方の選択」によって確定するということが理解できるのではないかと思う。それが名もなきものであれ、名のあるものであれ、様々な様態がありえど、二者の状態で関係が確定するということは、人間関係も漏れるものではない。
ただし、こと「人間関係」にかんしては、一般的に「関係の外部」と私が呼ぶところを深く考慮すべきであるということは注記しておきたい。二者の状態が「確定する」ということを他方の末端にいる人がどのようにして知りうるのかという問題があり、そのような「確定」は「思いなし」の可能性を常に免れない。
人間関係の不可能性を端的に表す事例の一つとして「バカの壁」をあげられる。人は常に関係の末端にありながら、他者の情報を得るのも、他者とコミュニケーションをとるにも関係を介するしかなく、他の末端、他者の全てを知ることは出来ない、他方の末端を支配することは出来ないし、仮に出来たとしてもすべきではない。他者の暴力的精神的支配は悲劇そのものである。
人間関係の機微として、「関係の外部」は常に付きまとう。「関係」があるところには「関係の外部」が常に付きまとうから。
確率の意味
ある種のもっとも基本的な確率の概念は、特に情報理論におけるそれは、相関の度合いの量的な表現であり、それを持ってして何かを説明するものであり、それ自体を説明することはできないものなのではないだろうか。それは物差しで物差しを測ることができないことに似ている。
関係と集合
関係はある意味知にとって最もプリミティブな集合である。それによって2つの項、要素が1つに結ばれるからだ。ここから、関係論がなぜ集合合理性へと至るのかが説明できる。集合合理性は関係の集積のうち、以上の性質の最も顕著なものである。
2024/3/9
論理、確率、説明するということ
論理とは、AならばBであるとは、AのときBの確率が1であると言うことの言い換えである。確率は論理よりも粒度が小さく、より基礎的な単位とすることが出来ると考えられる。
つまり、論理が確率によって解釈されなければならないのであってその逆ではないのではないだろうか。必然性を追求した古来の論理学は1の確率で言えることを追求していたのではないだろうか。
それはつまり、「説明するということ」にとっては「確率によって説明するということ」が根源的なのであって、「論理によって説明する」ということは本質的に「確率によって説明するということ」の、特殊事例であるということではないだろうか。確率は論理に先立っているのではないだろうか。
ポストモダニズムについて思ったこと
差異性の優位、差異を追求するポストモダニズムは、文学のふるさとについて述べる坂口安吾の言葉を借りれば、「大人の仕事」をできなかったのではないだろうか。
ある種の文化的差異は文化の中心に対して「差異」である。安定した中心を作ることができず、差異を追求し続けた結果「形」を失った。そのようなものだったのではないかと、自分なりの考えを持った今は思う。
相対性、絶対性、集合合理性、全知の存在
知は、相対性と絶対性を織り交ぜたものとして発展する。集合合理性とは、限定的な絶対性の現れである。
他方の選択の一方の選択に対する連動を、ある現実のそれと同じ仕方で対応をつけ抑制してクラスが一つ上の選択を行い、集合を生み出す。
論理回路を想像するとわかりやすい。一方の選択に対して、ある条件を満たすときにのみ選択を発することで、集合と規則を、限定的な絶対性(一方の選択に対して規則的に反応しない)を生み出す。現実には集合は「ものが集まって」できるように見える。
しかし、情報の世界では、集合、抽象化は反応を規則的に制限することで生まれる。そして、重要なのは限定的でない絶対性は知ではないということだ。それはいかなる選択に対しても、何も選択(情報)を生み出さないからである。
逆に全てに反応するときには、そこには抽象化がない。それは伝達のみであり、抽象的な知の創造がない。
このようなことに関連して、一つの情報に関する神学的な議論を発せられると思う。それは、情報という観点から考えたとき、われわれは「全知の存在」の、その可能性と不可能性を想起せざるを得ないということだ。
情報を扱う私たちは、一つの情報について、厳密に考えるとき、「すべての情報(選択肢)の集合」から一つの「情報(選択)」があると考えられる(そう考えざるを得ない)。「すべての情報(選択肢)の集合」とは言い換えれば「全知の存在」である(なぜなら、すべての情報がそこに存在しているのだから)。
しかし、「すべての情報の集合」は原理的に我々の前に現れることはない。「知」は「関係」である。知は「何かと何かのつながり」であるから、「何かと何か」の組み合わせの数だけあり(①)、さらにその①がすべて「組み合わさったもの(②)」の数だけあり、さらにその②がすべて「組み合わさったもの(③)」の数だけあり……ということが無限に続く。それを把握することは原理的にできない。
情報というもの(選択肢の集合から選択されているということ)を考えるとき、私たちはこの「全知の存在(全情報の集合)」を考えざる得ない。そして、それを把握することの不可能性を。
比較尺度の本性
比較尺度はその本性上、関数の一種である。
2024/4/13
関係論と目的
関係論と目的はなぜ関連が深いのか。目的はある状態を実現しようとする指向性を指すものであり、それは任意の状態の選択せんとするものであるから。目的の持つ暴力は本質的に選択の暴力である。
集合合理性の非人格性
集合合理性の持つ一つの特質として、それが匿名的、非人格的であることが挙げられる。それは多数の要素によって使用され、検証されるから。本質的に集合合理的なものは人格や固有名の崇拝と結びつかない。
情報の保存機能
情報の保存機能は情報が関係の中に埋め込まれている状態から、驚くべき飛躍を知能に成し遂げさせる。驚くべき錯誤と創造性を。
尺度ではない「いい」
それ自体として「いい」ということ、いついかなるときも「いい」ということ、そのような「いい」という言葉は、その言葉を用いられど、その実それは「善/悪」の尺度ではない。
なぜなら、尺度は本質的に「差異」を検知するものであるが、そのような「いい」は常に同じ結果、「いい」を返すほかなく、差異(悪い)を決して生み出さないから。
すべてを肯定する「いい」は、尺度とは本質的に異なるものであり、それは関係の外部にあるもの、いついかなるときも裏切らないもの、信仰に近いもの、知の外部にある行為である。
神、時間、かたち、認識
時間は前後の区別を有する。前後の区別には「しきい」つまり「限界」が伴う。また、形あるものは必ず「差異」によって識別される。他との違いがないものに形はないからである。差異の区別には「しきい」つまり「限界」が伴う。
翻って神は「限界」を持たない。限界を持つものは完全ではないからである。神と「時間」との関係、神と「かたち(何かを区切り限界づけるもの)」との関係を考えるとき、神学は必ずこの緊張に突き当たるのだと思う。
また、人間は尺度を用いて以外に何かを識別することはできない。尺度は差異(限界)を識別するものである。翻って神は限界を持たない。人間に神(限界なきもの)を認識することはできない。
2024/4/14
他に取りうる可能性、言語と尺度
情報を受信する際の、他に取りうる可能性は現実の物理的実体として準備されている必要はない。情報の流通という観点から現実を見るときは、それを本当に実在する物理的な実体や反応のみを問題とすると、誤謬に陥る。情報として何かを問題とするとき、それは実現していない可能性も問題にしなければならない。
あるものはそれが尺度である限り、可能性は準備されていなければならない。これは、何かを測定しているという現実の現象そのものを分析する議論でもあり、尺度によって何かを測る時のための、規範的な議論でもある。
また、人間の言語は、尺度であるときと、そうでないときがある。
言語が完全に尺度でないということは出来ない。なぜなら、その場合、一切の言葉は差異と同一性を表現できず、あらゆるコミュニケーションが出来ないということになるからだ。しかし、言語はいついかなる時も完全な尺度であるともいえない。人間は精密な機械ではないから。
人間の言語は尺度であるときと、そうでないときがある。そして、私の議論は尺度としての側面から見た議論であるということになるようだ。
2024/4/27
洞窟の比喩と関係論
関係論による認識の図式、認識をする一者、認識の対象、比較尺度、それはプラトンの洞窟の比喩と対応関係にある。つまり、洞窟に差し込む光が比較尺度(集合合理的な手続きによって物の形を浮かび上がらせるもの)、縛られている人が認識を行う一者、洞窟の壁に浮かび上がる影が認識の対象。
2024/6/23
関係論は個人崇拝につながらない
私の哲学の議論は自然科学とは異なる。一般的に言って、いわば自然科学が「あるものはどうふるまうのか、その形式的な表現方法をどのように作れるのか」という現実の対象を記述し、問題とするのに対し、私の議論は「ものをみるとはどういうことか、認識一般、関係一般の形式的な表現方法をどのように作れるのか」を問題としている。
ただし、私の議論に反証可能性がないかといえば、そうではないと思う。私は私の議論の基礎として厳密に比較、選択、関係という概念を定義している。だから、比較でない認識(差異と同一性を識別しない認識)、二者以上の選択でない関係(2つ以上のものの間にない関係)というものが例示できるのであれば、私の議論は反証されるだろう。前者については何かを識別しない認識とは端的に語義矛盾であるように思える(識別できないものはいわば見えていないものなのだから)。また、後者については自己関係を挙げるかもしれないが、それは自己と自己の間の関係をそう呼ぶのであり、自他の関係をそう呼ぶのではない。故にそれも選択の間にある。私は選択の間にない関係をあげるのは難しいと思う。
また、私の議論には本質的に私が必要ない。認識、関係、比較を一般的に、厳密に定義するなら、私でなく誰がしようとも同じ定義にたどり着くだろうと、私はそう思う。だから、私の議論は個人崇拝に繋がらない。それはある種の哲学と異なるところだと思う。
2024/6/29
知識の定義について
関係論による知識の定義について(関係とは知識である)、「肉体に定着していないものは知識ではない」というかもしれない。その指摘はたしかに一理あるだろう。肉体に定着していないものは実際に使用することはできないから。ただし、この点については私は下記の注釈を入れたい。
私の知識の定義は形式化されており、情報理論と日常的な用法の接合できる形で表現されている抽象概念である。それは情報が記録される媒体を問わない。計算機の持つそれも人間の持つそれも含む。人間の肉体に限る必要はないため、抽象度を高めておいたまま使用したほうが汎用的に共通の構造を捉えることができると思う。
また、例えば私達は「まだ知らない知識」「失われた知識」など可能性としての知識を考えることがある。その場合、定義を実際に代入してみると「まだ知らない(関係のネットワーク)」、「まだ知らない(肉体に定着している関係のネットワーク)」、前者のほうが理解しやすいと思う。実際知らない知識は知識ではないというのは最もなことであるが、可能性としてのそれも定義に含んでしまったほうが私は理解しやすいと思う。それは語をどう使うかという問題でもあり、私自身もブレる可能性は0ではないが、一般的な定義としては問題ないと思う。
とはいえ、いずれにせよこの定義が知識の本質を掴んでいるのは私は間違いないと思う。というのも、「情報の結びつき」でない知識というものを私は想像できないからだ。こう言うと身体知を挙げるかもしれない。しかし、身体知は神経によって制御されるものである。神経は情報を伝達するものであり、私の議論は明確にそれを含んでいる。身体知をあげることは私の知識の定義を反証するものにはならない。
ではこう述べると知識ではないないものはなにかと言うかもしれない。それは「関係の外部(無知、未知、選択のできないもの…)」であると答えられる。ただし、ここには階層性の問題がある。「知らないということを知っている」ということはあり得るからだ。それは知らない対象の一つ上位の情報であると言える。そういった知識はありうる。
しかしながら、ある意味で知識でないものは存在しないとも言える。私にとっての、私の前に現れる世界は私の知る知識(関係の総体)ででき上がっているから。ここから「関係の外部」を考慮しなければならない必然がある。私の関係の総体は世界の関係の総体ではないから。ただし、私の知りうる世界は常に私の関係の総体である。これは私が繰り返し述べているアポリアである。
人は関係の外部を考慮しなければならないときと、そうでなく判断をしなければならないとき、両方の場面がある。
2024/9/8
比較尺度という用語の二つの用法について
議論の中で比較尺度という同じ用語を二つの意味で使い分けてしまっているが、その用法について解説し、議論の流れの必然性を説明しておく。
ここでいう「取りうる値の集合」という意味での①「比較尺度」と「社会的に通用する度量衡」として②<比較尺度>の関係性は下記のようなものだ。
まず、②は①の一部である。社会的に通用する<比較尺度>もまた「取りうる値の集合」であるという性質を持っている。②と①を隔てるものはそれが、「貨幣」のように中心化された尺度であるかどうかということだ。こののちの議論で語っているが、貨幣は物々交換と比較して、交換の手順、価値の測定の一元化により、中心化されている。
そのような、示差関係の中心化が発生しているもの、<単位>の成立しているものが②でそうでないその場その場で成立するアドホックな尺度が①ということになる。これはつまるところ「程度の差」であるかもしれない。ローカルに通用する尺度というものはありうるだろうからだ(現に貨幣も世界の全てで完全に一元化されているとは言えない)。
もともとセルフレビューから移植した文章であるから、接合が雑になっているところはあるが、「比較尺度」というものを考えるにあたって、このような考察をしないわけにはいかない。ベイトソンの情報の定義、「差異を生む差異」、個別の関係と、集合合理性をもつプラトンの「イデア」のような「知」、それを取り結ぶものとして、プリミティブな個別の関係からいかにして中心化された理論が出来上がるのか、これは実際の誕生過程ではないが、このパートはその関係性を記述したものだ。
個物間に関する知(関係)と中心化された知(関係)を結ぶ議論である。
関係の中にあること、関係によってあること
関係の中にあるということと、関係によってあるということはちがう。光の速度は前者ではあるが、後者ではない。光の速度は他との関係よって知ることはできる。しかし、それは他との関係によってあるのではない。
また、収束前の量子の重ね合わせ状態は、前者ではないが周囲の状況次第で収束するので後者であるのかもしれない。ただし、関係には階層がある。重ね合わせが起こっているということ自体は知ることができる。その意味で、計算の階層では前者なのだろう。
いくつかの場所で私の議論が誤っているかもしれない。ここら辺を考えずに「全ては他との関係によってある」とか言っている気がする。
2024/9/28
集合合理性への補足
カルロ・ロヴェッリの時間に関する議論がなぜ、比較尺度の誕生とかかわるのか、また、それら一群の持つ合理性を集合合理性と呼ぶことについて補足を入れておく。
カルロ・ロヴェッリは古典力学の時間tがA(t)、B(t)といった関数で一つの時間を用いることができるのに対し、量子力学においてはtは消えて、A(B)など、変量と変量を直接比較しなければならないという。つまり、個物と個物、AとBを比較しなければならないということである。
これは2つしかないレーンで50m走をするときに、ストップウォッチのない場合と、ある場合に行うことの比較にたとえられると思う。
A、B、C、Dの4人のうち2人がそのレーンで走るとする。ストップウォッチがない場合、AとBが走りAが先にゴールし、次にCとDが走りCが先にゴールしても、AとCのどちらかが速いか、どちらがかかった時間が大きかったは正確にはわからない。もう一度AとCが走らない限りは。
しかし、このとき、ストップウォッチがあれば、いつ誰がどの順番で走ったとしても、誰が速いのか、どれだけ時間がかかったのがわかるようになる。ある意味で、実はストップウォッチのあるレーンで走るということはほとんど無限に大きいレーンを走っているのと同じことなのだ。なぜなら、一度測れば地球上のいつどこの誰とも、何人とも「競争」することができるのと同じことだから。
ストップウォッチのない場合が時間tのない状態で、ある場合が時間tのある状態、すなわちそれが中心化された尺度の有無に対応するということになる。このようなことを考えると、比較尺度の誕生のロジックは時間にも適用可能だと思う。
私は量子ループ重力理論を理解しているわけではないから、確かなことは言えないが、ミクロの世界で中心化された尺度としての時間、基準を使用できなくなる、あるいはそれを使用する必要がなくなる場合があるというのは、素人ながらあり得そうに思う。小さな領域の小さな動きを比べるため、外部の尺度によって正確に比較できない、ないし、外部から尺度を持ち込む必要がなくなるということが。結局のところ、これに関してはあり得そうだなぁということしか言えないが。
次になぜ上記のような合理性に集合合理性という名を与えるのかについて。集合の観念がどのように機能するかを考えるとわかりやすい。仮に今私たちが集合という観念を失ったとしよう。
その時、例えば類としての犬にどのように言及しなければならないだろうか。犬の嗅覚が優れているということをいうのに、すべての犬の個体を見て回って、実験していき、帰納的方法で言及するしかないだろう。
これで集合という観念が明らかに上記の合理性と同じ合理性を有しているのが、わかると思う。集合という観念がなければ、すべての個物をみて回って言及することになるが、集合という観念があれば、個物の特徴のある基準で抽象化された観念への言及を一度すればいいということになる。
個物で表現するのではなく、普遍によって表現する合理性どのようなものかが上記の例で理解できると思う。
2024/10/26
二進法の差異、情報の貨幣
2進法の差異は情報の貨幣である。それはあらゆる情報の基本的な単位として扱える。原理的にそれで表せない差異、情報は存在しないからだ。計算機が人間の能力を超えるかどうかは、時間と人間の能力の限界の問題であって、原理的な側面からの問題は存在しないのかもしれない。
この世で最も深遠な言葉
何かの数学の本に書かれていた「同じものはまとめる、違うものは分ける」という言葉が、プログラミングや仕事の業務、哲学などの学問の全てを通して、最も役に立ったというか、この世で最も深い言葉だと思うことがある。
一つ付け加えるなら、「同じもの、分けたものはそれぞれ適切な関数(機能)に渡して演算(加工)することができる」ということだろう。この言葉は情報処理というものの真髄、認識と識別の基本原理、乱雑さ(エントロピー)の考え方、そして集合という概念が何を意味しているのかを一言で表している。そしてそれゆえに分けられないもの、違いを識別できないものは「わからない」というその限界を暗示している。
貨幣論の意味
岩井克人の『貨幣論』は貨幣論ではない。それは情報一般の定性的な理論の特殊なケースなのだと思う。
独我論の決定不可能性の論証の意味
独我論の決定不可能性の論証は、ケインズ革命に近いかもしれない。貨幣の存在そのものが不安定性もたらすということ、識別の能力そのものが、情報の総体をゆるがすということの類似である。
それは根本的には「比較する」という行為が認識の対象から分離されているということに由来する。比較はそれが識別能力であるがゆえに、認識の対象と同期させることができるが、それが対象から分離されて独立しているがゆえに、例えば過剰に世界を分割してしまう。
それはセーの法則は成り立たず、貨幣の存在そのものが不均衡累積過程をもたらすというヴィクセル-岩井克人の議論に正確に対応する。
そして、おそらく群論の世界はセーの法則が成立している理想的な世界の記述であるのかもしれない。それは理論的な知識や形式化された知識の分析には非常に有効に作用するが、未知と偶然と誤りの存在する世界の分析には不足があるのだと思う。
比較尺度は「無限」へいざなう
尺度、情報は比較対象をほとんど無限の領域に持ち込む。何かを情報化するということは、それを媒体の限界まで保存できるということだから。
関数、関係、選択、論理の最小単位
関数は関係の一種であるけれど、関係のすべてではない。関数を関係と言ってしまうのは、因果関係が関係のすべてであると言っているのと同じことである。関数では一度しか起こらない偶然的な関係、人間などによる誤りの結びつけ、また無関係という関係などを表現できない。それを関係と言ってしまうと、誤りと偶然のない世界に入り込んでしまう。
関係(選択の連動)を分析(定義)するには、それより小さい単位(情報、選択)が必要である。そして、理論上「情報(選択)」はそれをより小さい単位へと分割することは出来ない。なぜなら、それは論理を構成する最小単位であるから。
さらに言えば、論理(1の確率で決定できること)よりも確率の方が粒度が小さい。情報理論による情報の定義は確率によるものであり、それはおそらく相関の度合いの量的表現であり、それが「説明するということ」の最小単位である。
イデア論のアイロニー
集合は尺度であり、イデア(個物に対する普遍)である。プラトンの絶対的なイデア論はそれが知を愛するものであるがゆえに、その根本的な原理の中に相対性(関係)の源を有しているというアイロニーがある。
知性は欲望の起源である
私の欲望に関する議論から得られる帰結として、欲望は比較から生まれるがゆえに、欲望は知性から生まれるということが導かれる。知性は単に欲望を制御するものではない。むしろ、知性こそがある種の欲望の起源そのものである。資本主義が比較と関係のシステムあること、ブッダが認識を捨てることを説くことはそのことを示すものである。
パターンは関数の一種
パターンによって認識するということは、関数によって認識することのうちの一つである。パターンとは多様な対象に共通する関係性を認識することである。
個物は変数、パターンは関数、それを適用した結果、演算結果(認識)が得られるということになる。パターンを作り出すということは関数を生み出すということになる。
パターンの認識がどのような手続きをとるかといえば、対象の特徴の選択ということになる。特徴の選択の仕方を決めるというのが、パターンという関数の定義になる。