「グループ」であること
どうも。登坂車線です。
乃木坂46 29thシングル 「Actually...」を批評する回。
前回書ききれなかった曲編の続きです。
一番の問題点だと思ったこと。
それはあの曲が「中西アルノ」の当て書きのように思えたことだ。
私はお見立て会をリアタイできず、Twitterで切り抜きをちょこちょこ見ただけだが、中西を見たとき「すげぇのが来た」と思った。
あの歌唱力もそうだが、彼女が放つ雰囲気は平手が持つそれと非常に似ていた。
まさに天賦の才。
中西が今後、乃木坂にどのような影響をもたらすのか、とても楽しみになった。
しかし曲を披露し終え、最悪だ、と思った。
中西が持つ雰囲気そのものを歌詞にした曲だと思った。
秋元康がオーディションで見て感じ取った中西の持つものを書き起こし、これを表題曲にしろ、と言ったのだろう。
これは紛れもなく欅坂でやっていたことだ。
平手の当て書きの曲を作り上げ、平手をセンターに据え、平手にその曲を物語らせた。
その結果、平手が限界を迎え脱退し、平手の存在を前提にした多くの楽曲は主人を失い、同時に平手の存在を前提にされてしまっていた欅坂46と言うグループは改名をする他なくなった。
もちろん、人数も違うし、既に高い知名度を持つ飛鳥や与田などがいるなど、グループの性質が全く違うため、同じ結果に帰結するとは思わない。
だが、「特定のメンバーの存在を前提にしている曲を出した」という点が問題なのだ。
なぜならその他のメンバーの存在意義がなくなるから。
中西アルノwith乃木坂46 29thシングル選抜メンバーの皆様
になってしまっている。
そのメンバーが今回の選抜に選ばれた意味は?
中西単体の曲としても成り立つのでは?
欅によく言われていたバックダンサーに今回の選抜メンバーがなってしまっているのだ。
グループでやっている意味が全くない。
これでいいはずがない。
乃木坂46、10年の歴史が、乃木坂の楽曲によって蔑ろにされた、とも感じた。
と、ここで一つ論を展開しておく。
私は先ほど、特定のメンバーの存在を前提にしている曲を出したことが問題だ、と述べた。
ソロ曲はダメなのか?
ソロ曲は是、だ。
ソロ曲はその特定のメンバーのために作られたものであり、披露するのはそのメンバー単体だ、という前提がある。
だからOKになる。
今作では北野のソロ曲が収録されるそうな。
あの底抜けた明るさと、見え隠れする崩れそうなぐらいの繊細さ。
それが表現された曲になるのであろう。
北野のために作られた、北野による曲だ。
問題はない。
因みに言えば、ソロ曲はそのメンバーが去った後は披露されなくてもいいと思っている。
そのメンバーに思い入れのある人が歌いたい、と思えばやればいい。
ソロ曲はそんな位置付けでいいと思う。
北野の曲は2期生か久保か柴田が歌っていくんだろうなぁ。
(いつだか4期生が全員でないものねだりを歌わされていたが、正直あれは本当に気に食わなかった)
そしてもう一つ、卒業シングルにも言及せねばなるまい。
これは「特定のメンバーの存在を前提にしている曲」であることに間違いない。
これはアウトなのか?
こちらも是、だ。
なぜならその卒業メンバー単体で歌っても意味が通じないからだ。
他のメンバーと一緒にやらねば成り立たない曲になっている。
ハルジオン・サヨナラの意味・帰り道・保護色、どれも必ず2つの存在が確認できる。
去る者と残る者。
このどちらかが他方に向けて語りかける、という構図になっている。
これは1人で歌ってもよくわからないだろう。
グループで歌って初めて成り立つものだ。
「他のメンバーの存在意義」は大有りだ。
なので卒業シングルはOKになる。
少し脱線したが、とにかく秋元康と運営陣は間違いを犯したことを認識してほしい。
秋元康は天才に「当てられ」て暴走をし、運営はこれを諫めなかった。
結果、あんな曲が表題曲として世に送り出されることになったのだ。
お前らがメンバーの足を掬ってどうする。
矢面に立ち、苦しむのはメンバーだぞ。
今一度、乃木坂というもの、ひいてはグループというもの。
これを再考してもらいたい。
ふう。言いたいことは粗方言えたかな。
でもまだMV出てないし、まだ言いたいことがあると思うので、また投稿すると思います。
それでは。