鶉野飛行場と戦争遺跡ガイドツアー
5月16日(土)は、かさいまちあそびプログラムの鶉野平和祈念の碑苑保存会主催、名ガイドと行く鶉野飛行場と戦争遺跡ガイドツアーに参加しました。
[多くの方が参加されました。]
最初に、記念碑の前で説明がありました。
こちらの記念碑は、15年前に、保存会のメンバーと、地域の方、また当時戦争に関わられた方とで出資し、建てられたそうです。
しかし、15年たった今、戦争を体験し、記念碑を建てたいと強い思いで動かれた方々は、ほとんどご存命ではないと話されていました。
ガイドを務めてくださった上谷さんは、戦争を実体験した方の、生の声を聞くことができなくなりつつある、そんな危機感を募らせておられます。
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鶉野飛行場は、第二次世界大戦中、川西航空機姫路工場の専用飛行場として建設されましたが、姫路海軍航空隊や筑波海軍航空隊分遣隊が駐留し、訓練基地および特攻隊の出撃拠点となった場所です。(Wikipedia参照)
戦後70年を迎えようとする現在も、ほぼ当時のままの滑走路や、防空壕跡などがあります。滑走は全長1200m、幅60mと全国でも珍しいほど当時のままの姿と規模で残っており、歴史的にとても貴重なものです。
保存状態が良い理由はこの辺り一帯は水がないため、田んぼや工場にされることがなかったそう。
また、昭和20年に、神風特別特攻隊「護皇白鷺隊」が編成された場所でもあります。
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まず、地下飛行指揮所防空壕の見学をしました。
[地下飛行指揮所防空壕です。]
こちらは、5年前に、中に溜まっていた水を抜き、保存会の方と地域の方で整備をされました。
[レンガの色が濃いところまで水があったそう。]
[新聞の切り抜きがおかれていました。]
[奥は、模型と資料が置かれています。]
私は防空壕というものに初めて入ったのですが、入り口から奥に入る通路が、くねくねとした作りになっており、疑問に思い質問したところ、爆風などを防ぐため、わざと複雑な作りになっていると教えていただきました。
次に、火垂るの墓のロケ地を案内していただきました。
[ガイドの上谷さんも出演されたそう!]
さらに、対空機銃座の見学をしました。
当時は、ここに銃の装置があり、低空飛行をしている飛行機を目視で打っていたそう。
[対空機銃座のレプリカです。]
[YAMATOの映画で使われたレプリカが、市役所で5月末まで展示されています。]
また、対空機銃座地下爆薬庫も見学しました。
[中は、真っ暗です。]
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その後は、お昼休憩を挟み、資料館のお隣の建物で、ガイドの上谷さんのお話をお聞きしました。
[鶉野飛行場の資料館です。見学は無料でできます。]
[中は沢山の資料と模型が置かれています。]
[ガイドの上谷さん。高砂市在住で、法華口駅のボランティア駅長をされています。]
上谷さんは、当時働いておられた仕事の関係で、鶉野飛行場と出会ったそう。
それから多くの人との出会いと、いくつもの奇跡を経験し、いつしか使命感にかられるようになり、鶉野飛行場について詳しく調べるようになりました。
調べれば調べるほど、謎は深まり、どんどんと鶉野飛行場の研究にのめり込んでいかれたそう。そして今では、新聞の全国版に掲載されるような発見をされたり、メディアで取り上げられたりと、上谷さんがいなければ、市民に知らされることのなかったような真実が発表されています。
そんな上谷さんの貴重なお話を1時間半たっぷりと聞かせていただき、今回のガイドツアーは終了しました。
鶉野飛行場に興味を持たれた方は、一度、資料館に訪れてみてください。
資料館の開館日は、毎月第1、第3日曜日の10時~16時です。
鶉野飛行場Facebook:https://www.facebook.com/uzurano
資料館HP:http://plaza.rakuten.co.jp/uzurano/diary/201409280000/
グーグルマップ:https://goo.gl/maps/KPe7w
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当時、特攻隊のパイロットとなったのは、16歳、17歳の少年を含む若者63人でした。
私はその方よりも長く生きていて、その方が見ることのできなかった世界を見ています。
戦後70年たった今、戦争の悲劇や、私よりも若い人が特攻隊として、命を落としたという事実が風化しつつあるのではと感じました。
しかし、加西市には、当時の姿がそのままに残っており、その場所に行けばいつでも肌で感じることができます。
そんな貴重な場所が、これからも今の姿を保ちつづけ、多くの人に知ってもらうことができればと思いました。
鶉野平和祈念の碑苑保存会の皆さん、貴重な体験をさせていただきありがとうございました。