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憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~9 大爆発のポップコーン

「臭い物に蓋をする」という諺がある。
 悪事や醜聞などを、他に漏れないように一時しのぎに隠そうとするたとえなのだが、「臭い物」は、発酵しているということだから、何れ、それらは爆発する。
 「都合の悪いこと」を見ないふりしても、何時かは「それ」が原因で、「爆発」するのだ。
 そう。温められたトウモロシが。
 温められて、水蒸気で膨らみ、爆発するように。
                 ★
 八月に入り、明里の勤める学童も、本格的に夏休みの体制に入った。
 戦いの季節が、始まったのである。朝。来所後宿題をする。
 だいたい、八時から九時までがその時間になる。
「どうして宿題せにゃいかんの⁉」
「宿題ですから」
「宿題忘れた」
「安心してください。きちんと用意していますよ。さあ、このプリントをするのです」
 という会話が毎回、子どもは違うが交わされるのだ。
 で、そうこうしているうちに十時になり、「本日の活動」が始まる。
 長い休みに、「自由に遊んで良いよ」で持つはずがない。
「今日はホットケーキを作りまーす」
「先生、これ少し食べて良い?」
「焼いてない物を食べるなっ!」
「ボウルに水入れるんだよね。前に作ったから知ってるー」
「勝手に入れるな~!」
 とりあえず、カオスである。
 二階で「活動」は行うのだが、四十人一気に行うことはできないので、低学年と高学年に分かれて行ったり、男女別にして行ったりするが、それでもカオスである。
 そして続けて来るお昼は、宴会である。
「お昼ご飯の用意するよ。お弁当をロッカーから出してー」
「はーい」
 お弁当をロッカーから出す子ども達だが。
「先生、お弁当落とした~~~」
と言う言葉が出て来たら、もう最悪である。
「だーから、いつも振り回しなさんな、と言っているでしょーが!」
 何故か、お弁当を振り回す子がいるのだ。
 それも、一人ではない。
 何故、お弁当が入ったバックを振り回すのか、明里にはわからない。
 だが、子ども達は、こんな悲劇が起こるまで、お弁当を振り回すことを止めない。
「お弁当を買いに、コンビニに行ってくるわ」
 夏休みは九時から来ている谷さんが言う。
「お願いします」
「先生、デザート落とした~」
「それは諦めてね」
 他の子どもが叫んだ瞬間、すかさず安部さんの突っ込みが入る。
「ええええっ!」
「だったら振り回すな!」
 この世の終わりとでも言うような声を出す子に、明里も容赦なく突っ込んだ。
 低学年の子達が一番の楽しみにしているのは、水遊びだ。
 これは、昼過ぎの一時半ぐらいからやる活動だが、安部さんが自宅の倉庫に眠っていた幼児用のプールを持って来てくれたのだ。
 康子さんも長い夏休みの活動の一つとして、あっさりと認めてくれたらしい。
「俺、顔を水に一分付けられるんでー」
「俺なんて、一分五秒付けられるんで」
 ただ、家庭用としては大きめとは言え、所詮幼児用のビニールプールだ。
 「水遊び」と言っても、たかが知れている。主にこの「水遊び」に参加するのは、低学年の子達だ。
「どっちも一秒には変わりないって」
 本日水遊びを担当する谷さんは、容赦なく男子の会話に突っ込みを入れている。
 しかも、「分」が「秒」に変わっている。
 いつもは子ども達には「優しい」と言われている谷さんも切れ気味だ。
「水着が小さくて入らない!」
「ああ、去年の物を持って来たのね。入らない可能性もあるんだから、気を付けて持ってこないと」
 水着が小さくて、入らない子がいたのを見て、明里は学童に置いてある着替え用の棚から、学童のズボンを出し、
「これを履くと良いよ」と、「入らない!」と言っている子に手渡した。
「先生、泳いでいい?」
 明里も本日は水遊び当番だ。
「幼児用プールだからね」
「ケチー」
「狭いでしょうが!」
「ケチな先生には、水かけるもんねー」
 幼児プールに、二十人近くの子達が入れるわけがない。
 だが、子ども達にはそれが想像できないのだ。
「真中ちゃん、今日水遊びの子、何人いるかしら?」
 安部さんが、カウンター席でパソコンの仕事をしながら言った。
 子どもが毎日朝から来ていても、書類仕事は減らない。
 というか、通常業務はこなさないといけないのだ。
「二階に行って着替えている女の子も入れると十二人ですね」
「半分は女の子よね?」
「あ、はい」
「じゃあ、悪いんですけど、谷さん。今日は谷さんだけで水遊び見てくれないかしら?」
「何かあった? 安部ちゃん」 
「おやつの連絡が来ないのよ。いつもだったら、そろそろ来る頃なんだけど」
「確かにそうですね」
 夏休みになり、学童の隣にある児童養護施設の子達も朝からいるようになった。
 そのせいか、おやつの連絡はこの水遊びが始まる時間帯に来ている。
「そういえば、児童養護の子ども達、今日から旅行に行ってなかったけ?」
 阿曽島さん以外の職員が辞めて以来、児童養護施設の職員達は、入っては来ているものの、安定はしなかった。
 長くても一ヶ月、最短なのは一日で退職したらしい。
『児童養護施設の職員ってのは、どうしたって続かないことが多いの。預かっている子ども達は心に穴が空いているような状態だからね。誠実に対応したって、それをきちんと受け取ってはくれないから。それに疲弊して辞めていく職員が多いのよ』
 とは前に南さんが言っていた。
 ただでさえの仕事なのに、康子さんのあの横柄さだ。
「やってられない」と判断されて、辞められても無理はないのかもしれない。
 そんな実態があるから、結局一人残った栄養士さんと農場の人達が交代で入っているようだった。
 当然、本来行われるべき業務も滞っている。
「そうなのよね」
 谷さんの言葉に、安部さんは深い溜息を吐きながら言った。
「もしかして、栄養士の子がその旅行に付いて行ったってこと?」
「栄養士の人がその旅行に付いて行っても、関係ないわ。厄介なのは、康子さんがその旅行に一緒に行っていることよ」
「引き継ぎができていないってことですか」
「おやつについて、安部ちゃん、何か聞いていない?」
「聞いていないわね、何一つ。こっちで準備してっていう連絡も来ていないもの」
 安部さんは、ため息を吐いた。
「もちろん、これから康子さんや理事長に問い合わせはするけど、間に合わなくなるかもしれないから、真中ちゃんにはおやつの用意をお願いしたいのよ」 
「鷹ちゃんに聞いてみようか?」
 ポケットに入れたスマホを取り出しながら、谷さんが言う。
「事務長に聞いても多分、『わからない』って言われるわ。あの人は、たいていのことは『わからない』って言うから」
 疲れもあるのか、いつもは控え目な安部さんが、すっぱりと切っている。
「わかった」
 谷さんは、ため息を吐きながら頷いた。
「今日は、私一人で水遊びの子達は見る」
「良いんですか⁉ 子ども達の本気の水鉄砲攻撃、集中しますよ!」
 明里は、本気で谷さんが心配になった。
「それは真中ちゃんが本気になって、子ども達を挑発するからでしょうが!」
 だが、そんな明里に対して、谷さんはくわっとした表情になって叫んだ。
「えーと……」
「えー真中ちゃん、今日は水鉄砲しないの?」
 明里達の会話を近くで聞いていたらしい壮馬が、不満そうな声を上げる。
「ええ、つまんないっ」
 とたんに、低学年男子達から不満そうな声が上がる。
「今日こそ真中ちゃんを倒すんだ!」
「この間、ヒーローごっこした時に倒された恨みだ!」
「机の上に載るヒーローなぞ、おらん!」
 思わず故郷の言葉が出てしまった明里だが、
「俺が真中ちゃんの代わりをするわ」
 そう言って、今まで座ってブロックで遊んでいた歩武が、立ち上がりながら言った。
「歩武君、でも水着持って来てないじゃない」
 そんな歩武に、明里は言う。
「真中ちゃんの代わりなら、いらないじゃん。そうだろう? 安部ちゃん」
 歩武は、飄々とした表情で安部さんに言う。
「そうねぇ」
 苦笑しながら、安部さんは頷いた。
「まあ、今回は歩武君にお願いするわ。ただし、濡れないようにしてね」
「わかった」
 歩武は、こくんと頷いた。
「歩武君が着られる着替えはあった?」
「……念のため、用意しておきます。それと谷さん、スマホは部屋に置いていった方が良いですよ」
 谷さんがこそっと明里に囁いたので、明里はため息を吐きながらそう答えた。
              ★
 安部さんが安全策として用意してくれたのは、ポップコーンだった。
「なるほどな……」
 ポップコーンの素が入った袋を片手に、明里は呟いた。
 ポップコーンの素は、百均にも売っている。
 そして、少量でも大量に作ることができるから、本当に崖っぷっちにいるこの学童には、「神!」と思える程のコストパフォーマンスが良いおやつの一つだ。
 ただし、それは上手く行けば、の話しだ。
 ポップコーンの作り方自体は、簡単である。
 深めの鍋に油と塩を入れて、ポップコーンの素となるトウモロコシを入れる。入れたトウモロコシをまんべんなく油に馴染ませ、蓋をする。
 中火で温めると、トウモロコシがはじけて、音が聞こえてくる。
 そうしたら、鍋を揺らして焦がさないようにする。
 音が鳴らなくなったら、できあがり、ではあるのだが。
 ここで多大なる難問が待ち受けているのだ。
「真中ちゃん、ポップコーン作るの?」
 明里が神妙な顔をしながら二階へと上がっていると、下の方から望海がそう言いながら、上がって来た。
「そうよ。久々にね」
「味付いてなかったじゃない。前に作った時」
 そう。
 ポップコーンを作る時の最大の難関は、味付けなのだ。
 味付けは、でき上がった鍋の中のポップコーンに塩を適量振りかけて、また蓋をする。
 そして小さ目な火で鍋を温めながら、鍋を揺らす。
 そうやって味付けをするのだが、味がなかなか付かないのだ。
「紙の袋に入れて、振ると付きやすいって」
 望海は、明里の横に立ちながら言った。
「後、鍋にバター溶かして醤油を入れた物を混ぜても良いらしいよ」
「うーん。それは厳しいな。コピー用紙で紙袋作ってやってみようか」
 とりあえず、今の学童にある物は、砂糖と塩と油だけである。
「後はカラメル作って、それをからめるかな」
「じゃあ、私、安部ちゃんにコピー用紙もらってくるわ」
 望海はそう言うと、体を翻して、階段を降りて行った。
 それを見送りながら、明里はぽりぽりと頭を掻いた。
 どうも、今日は歩武といい望海といい、変である。
 去年までの―と言うか、つい先日までの二人は、文句が多かった。
 おもちゃがないだの、おやつがシケてるだの、暇だの、まあさもありなん、の内容ではあるのだ。
 二人共、もう高学年だ。
 学校の友達は、夏休みは家にいて、遊びに出かけたりしているだろうに、彼らはこの学童に来ている。
 歩武の場合は低学年の時に近所の子とトラブルがあり、それは親同士を巻き込むものになって、歩武の母は、相当精神的に追い込まれたらしい。
 五年生になった今でも彼が一人で留守番をするのは好まない。
 一方の望海は母子家庭で、母親は看護師だ。夜勤はないらしいが、それでも遅くまで仕事をしている時もあり、やはり女の子一人を家に置いておくのは不安なのだろう。
 二人とも、親の心情を察して、文句も言わずこの学童にほぼ毎日通っているのだ。
 だが、「つまらない」と言う気持ちは、消えようがない。
 それは、仕方のないことでもあるのだ。
 意識が「外へ」と向き出している子達にとって、この学童は狭すぎる。
 学童の対象はだいたい十歳までとされているのは、理に適っているのだ。
 そんなことを考えながら明里は階段を上がり、ポップコーンの素が入った袋を流しに置いた。
 トイレの前にある手洗い場で手を洗う。
 そして、おやつを食べるのに使っている机にアルコールを吹きかけ、台拭きで拭く。
 とりあえずIHのコンロを使って、第一弾をやってみるかと、明里が流しの下の扉を開けていつも使っているフライパンを出していると、
「真中ちゃん、私達もやって良い?」
 二階に上がって来る望海の後から、何人か一緒に上がって来る足音と、真由の声が変わって聞こえた。
 IHのコンロ以外にも、ホットプレートと、電子レンジも使おう、とその声を聞きながら明里は段取りを考えた。
          ★
 そして迎えた、十五時のおやつである。
「おやつだよ―」
 明里の言葉に、どっどっどっどっと、と冗談抜きで、階段の方から地響きが聞こえた。
 どうやら、カラメルソースの作っていた匂いが階下まで届いていたらしく、階段の方にスタンバイしている様子が、その気配から伺い知れてはいたのだが、階下で遊んでいた子達が、二階へと上がって来ているのである。
 その数、三十五名。
「どれが多いの⁉ 多いの頂戴‼」
「私まだもらってないっっっ!」
 ……カオスである。
 これをカオスと言わずして、何をカオスと言うのか。
「うるさい! ちゃんと分けてあるから、一年生からお皿を取って行って」
 しかし、すぐさま望海が一喝した。
 そうして、下学年の子達に指示を出す。
「まるで、真中ちゃんだ」
 そんな望海の様子を見て、子ども達と二階に上がって来た谷さんが苦笑しながら言った。
「そうですか?」
「うん。口調もそっくり」
 明里は、下学年の子達に声をかけている望海を見つめた。
「……何か不思議な気もしますね」
 谷さんの言葉に。
 明里は、そう呟いた。
 望海と明里は血の繋がりのない全くの他人なのに、明里がやっていたことを、そっくりに望海はやっているのだ。
「何も不思議じゃないよ。真中ちゃんは、三年この学童にいて、望海ちゃんは、平日は毎日来ているんだから、当然影響は受けるって」
 けれど。
 明里の言葉を聞いた谷さんは、何でもないことのように言った。
 この学童で働き始めた時、望海は三年生になったばっかりだった。今よりも強烈な上級生達もいて、あの頃の明里は、毎日がバトルだったと言って良い。
 まあ、今も似たようなものではあるが、日々積み重ねたものの結果の一つが、今日の望海の姿であるとしたら。
 それは、やはり明里達がやってきたことは、間違っていなかったと言うことだ。
「そう言えば、水遊びどうでしたか?」
 明里はふと、本日の水遊びがどうだったかと、谷さんに尋ねた。
 明里は毎回ずぶ濡れになり、下着まで着替えないといけなくなる。
「ああ、歩武君が頑張ってくれた。私の方にも子ども達は水鉄砲向けて来たけど、歩武君が撃退してくれたから。下着までは濡れずにすんだけど、真中ちゃんが用意してくれた着替えは、無駄にならなかったね」
 最後の方は怒りが含まれていたものの、谷さんは嬉しそうな口調で言った。
「歩武君が、守ってくれたんですか」
「まあ、本人はそんなつもりはないかもしれないけどね。でも、恰好良かったよ」
 と谷さんは言葉を続けた。
「谷さんを守んなきゃ、と思ったのかもしれませんね。無意識に」
「まあ、付き合いは長いからね」
 谷さんも笑いながら言う。
 歩武も、谷さんも血の繋がりはない。
 歩武はこの学童を利用しているだけだし、谷さんは学童の職員だ。
 歩武が学童を卒所したら会うこともない関係で、でも確かに育っている「何か」がある。
「不思議ですね」
 明里がそう言うと、谷さんも明里の言いたいことはわかってくれたのだろう。
「そうね」
 笑いながら、頷いてくれた。
 そうして。
 明里達がそんな思いを共有していた頃。
 安倍さんが、電話を切ってため息を吐いていたことを、明里は後になって知ったのだった。
        ★
「疲れた……」
 明里は、ぐったりと玄関に倒れ込んだ。
「姉ちゃん、そぎゃんところに寝んで」
 現在、夜の八時過ぎである。倒れこんでいる明里を見て、美里が呆れたように言った。
「お風呂入って来たら、ご飯にするけん」
「わかった」 
 明里はぐいっと体を起こすと、立ち上がり、カバンを持って、和室に入った。
 そうして、カバンを畳の上に置いて、着替えを出そうとプラスチックの引き出しケースの隣に置いてある、美里のスーツケースに気付いた。
 この家に住み始めて四か月近く経とうとしているのに、美里は自分の持ち物を、ほとんどこのスーツケースに入れていた。
「ねえ、美里。あんた服はスーツケースに入れとるでしょ。ケースとかば買わんの?」
「この家のどこに、そぎゃんとば置くと」
 明里の問いかけに、台所にいる美里は、すっぱりと答えた。
「でも、服ば出しにくかっでしょうが」
 明里が着替えを持って和室を出ると、明里の夕飯を出す準備をしていた。
「いつまでもここにおるわけにはいかんよ」
「まあ、二人だと確かに狭かね」
 明里は、美里の言葉に頷いた。
「ばってん、あんたが家事ば知てくれるけん、私は助かっとるよ」
「ありがとう」
 美里は振り返って礼は言ったが、それ以上は何も言わなかった。
 明里はそのまま風呂場に行き、着替えを洗濯機の横に置かれた籠に入れた。
 前は直接フローリングの床に置いていたのだが、美里がそれを嫌がって、編みかごを買ってきたのだ。
 美里は、小さい頃からそう言うところが気になる性格だった。
 そして、明里はあまり気にしない。
 他人ーと言うか、自分以外の人間と一緒に暮らすということは、そういったことをお互いに譲り合って行くということだ
 。顔立ちと気質は瓜二つだが、美里と明里は真逆の性格をしている。
 今は美里の方が居候だと思っているから、多分に譲ってくれているのだろう。
 その点から考えれば、美里の結婚生活は我慢に我慢を重ねた日々だったのかもしれない。
 だからこそ、これから先はもっと自由にやっていきたい、と思うのだろう。
 明里がそんなことを考えながらお風呂から出ると、美里はこたつと兼用のテーブルに、夕飯をセッティングしていた。
「あんた、食べとらんだったんね」
「一人で食べるとは、味気なかたい」
 明里の言葉に、美里は笑ってそう答えて、持っていた箸を明里に渡してくれた。
「ありがとう」
 それに対して、明里は礼を言った。
「さ、食べよ」
 美里はそう言って、いたたぎます、と箸を持って食べ始める。
 それに倣って、明里もいただきます、と声をかけて食事を始めた。
「うん、美味しい」
 美里が今日作ってくれたのは、アジのタタキだった。
 薬味として混ぜてある大葉とねぎとゴマが、良い感じでご飯に合っていた。
「良かった」
 そんな明里を見て、美里は嬉しそうに笑う。
「仕事はどぎゃんね? たいぎゃ疲れとるごたっばってんが」
「まあ……夏休みだけんね」
 明里は、ため息を吐きながら言った。
「朝から子どもが来るし。けど、仕事はいつも通りしなきゃいかんけん、気力も体力も使うしね。休憩時間もあるようで、無いけんね」 
「休憩時間もなかとね」 
「子どもが四十人近くおって、職員は三人しかおらんもん」
「アルバイトも雇わっさんとね」
「そぎゃん金があらすと思う?」
 今も給料は遅れている。
 谷さんにいたっては、先月は半分しか支払われていない。
「おやつはどぎゃんなっとっと」
「今日は、忘れ去られとったわ」
 豆腐の味噌汁を飲みながら、明里は答えた。
 そう。
 結局、安部さんの予想通りの結果になったのだ。
 安部さんは、まず康子さんの携帯に電話をしたが通じず、事務所の方に平八郎理事長への連絡をしようとしていたけど、これまた不在。
 料理長に至っては、「儂には関係ない!」と言い放ったらしい。
『とりあえず、事務所の人には平八郎理事長への伝言をお願いして、康子さんの携帯には、ショートメールを送っておいたわ。今日できる限りの対応はしたわよ!』
 と、安部さんは疲れ果てた表情で言った。
 美里にそのことを話すと、 
「それ、ちゃんと記録しときなっせよ」
 真剣な表情で、美里はそう言った。
「姉ちゃん達は、きちんと対応したってことば、きちんと記録しとかんといかんよ。それと、そろそろ告発する時の事ば考えとった方が良かよ。自分でするとじゃ、手間だけん、弁護士さんを頼んだ方が良かと思う」
 ご飯を食べながら美里はそう言葉を続けた。
「告発ね……」
 明里は美里の言葉に、顔をしかめる。
「今は時期じゃなかような気がするけん」
 何せ、全国の放課後児童支援員が「来なくて良いっ」と心の中で絶叫しているであろう、地獄の夏休み月間だ。
 できることならば、あまり「仕事」以外のことでの他用は避けたい。
「だけんよ」
 だが、美里は首を振った。
「いつ『その時』が来るかわからんなら、今のうちに準備しとかなん。『その時』が来た時に弁護士とか見つけようとしても、すぐには見つからんよ。相性とかもあるし」
 美里の言うことには、一理あった。
「お世話になっとる弁護士さんの旦那さんがね、やっぱり弁護士なんだけど、そっちの方にも詳しいらしいとよ」
「お世話になっとるって……」
「離婚の話よ。弁護士入れたの」
 あっさりと、美里は言った。
「そっか……」
 明里としては、それ以上は何も言えない。
 いくら「姉」とは言え、大人の「男」と「女」のことだ。
 口出すべきではない、ということはこれまた同じ「大人」としてわかっている。
 「和孝がね、『おばちゃんにありがとうって伝えて』って言っていたらしいわ」 
 だから。
 我が子のことも、淡々と話す美里の気持ちを、想像するしかない。
 考え込む表情をする明里を見て、美里は小さく笑った。
「姉ちゃんはね、優しかとよ。自分が働く場所は、どぎゃん環境でん、愛情ば抱くとよ。教員採用試験ば落ちまくったのも、そん時の担任した子どもとか同僚のために、仕事ば頑張っとったからだろ? それなのに教員を辞めたのは、病気になった同僚の人を誰も助けようとしなくて、それで嫌になったって前に言ってたってお母さんから聞いたけど、それだけ教員の仕事に情があったけん、嫌になったとじゃなかと?」
 確かに、美里の言う通りではあった。
 職員室に、空いた机が一つ。
 荷物は、彼女が頼んだ業者か取りに来た。
 でも、何事もなかったのかのように、働く同僚。
 ルーティーン化したようにこなされる、業務。
 心の底から思った。
 こんなことを「当たり前」だとしなければならない仕事に、何の意味があるのか、と。
「でも、自分ば犠牲にしてまで情は向けんでええよ。また空っぽになってしまうけんね」
「それは、あんたの実感から?」
「そぎゃんたい」
 明里の問いかけに、美里は頷いた。
「私は、多分人が一生かけて使うであろう家族への『愛情』をほとんど使い果たしたと。だけん、もう『一緒に暮らそう』とは思わんとだろうね」
 美里は、我が子に「もう一緒に暮らせない」と告げることは「辛い」と前に言っていた。
 けれど、一緒に暮らすことはできない、と。
 それは変えようの事実として、美里は明里に告げていた。
 美里もまた、明里に自分を重ねているのかもしれない。
 愛情を注いでも、自分に何も返してくれない家族と。
 明里達が手を尽くして仕事をしても、さもそれが当然と思い、何も評価しようとしない会社と。
「もちろん、するかしないかは、今すぐ決めなくても良かよ。でも、準備だけはしておいた方が良か。明日私弁護士さんと話しするんだけど、姉ちゃんも行って話だけしてみん?」
 だからこその、好意であるのならば。
 明里は、拒否はしないで、「わかった」と、頷いた。
 どのみち、明日の仕事は休みである。
「じゃあ、電話しとくわ」
 美里は、鯵のタタキを口に運びながらあっさりと言った。
 明里はそれを見ながら、ビールを飲もうと、冷蔵庫に取りに行くために立ち上がった。
 口に広がる苦さを、ビールのせいにしたかった。
        ★
「あなたは、何を求めて内部告発しますか?」
 しかし、開口一番に言われた言葉は、前に言われたことがある内容だった。
 彼は、「高橋(たかはし)正悟(しょうご)です」と明里に名乗った。
 ちなみに彼の奥さんが、美里の離婚問題を受け持ってくれる弁護士さんである。
 名前は、「高橋(たかはし)千晶(ちあき)です」と、旦那さんの後に、これまたきちんと名乗ってくれた。
 二人とも眼鏡をかけていて、何か弁護士になるために生まれて来たような雰囲気があった。
 そして今、美里は奥さんの千晶さんと話している。
 その間にと言うことで、明里は私服姿の夫の省吾さんと別の部屋で話すことになったのだ。
 そうして言われたのが、先程の言葉である。
「前に、ユニオンの方にも同じことを言われたことがあります」
 とりあえず、ケンカにならないように、時沢さんの顔を思い出しながら、明里は答えた。
「なるほど。的確な言葉ですね」
 明里の返事を聞いて、高橋さんは感心したように頷いた。
「まず基本的なことですが、内部告発と言うのは、組織の不正を、組織の内部にいる人間が外部に告発することです。そして、違和感を持たれるかもしれませんが、内部告発をされる会社と言うのは、団結力が強いんですよ」
 そして、明里が驚愕する事実を告げる。
「ええっ⁉」
「だって、考えてもみてください。会社の『悪事』を世間に隠しているんですよ?団結していないと、できないじゃないですか。しかも、それを『悪いこと』とは、中にいる人間は自覚していませんからね。意外に、内部告発をしてくるのは、新しくその会社に入った人間だったりするんですよ」
 言葉の意外さに、明里は絶句するしかない。
「そんな強固な繋がりを持つ『会社』にとっては、内部告発をする人間は、『裏切者』以外、何者でもないんです」
「自分達が悪いことをしているのに?」
「ええ。例えば、あなたが内部告発しようとしている職場では、不正なお金の使い方をしていますよね。保護者の方から遊びの教材費を取っているのに、子ども達への還元はされていない。おやつ一つを見ても、それはよくわかります」
 そこで、高橋さんは一度言葉を切った。
「それに対して、あなた方指導員は実によくアイディアを出して対応している。妹さんから話を聞いて感心したぐらいです。でもそれも『偽装』として見ることができるんですよ」
「えっ?」
 その言葉に、明里は頭が真っ白になった。
 それはいったいどういうことなのか。
 明里達は真っ当に仕事をしてきたのである。
 理不尽な環境にもめげずに皆で協力してやってきた。
「それが、『内部告発』の厄介さです」
 冷静に、高橋さんは言った。
「大抵の人間は、自分が『偽装工作』をしているとは思わないんですよ。むしろ、正しいことをしていると思っている。確かに、あなた方がされていることは、真っ当だと思います。できるだけ、子ども達に不都合がないように対応されている。けれど、法律的に見たら、『隠蔽工作』に見られる可能性だってあるってことです」
 その言葉は。今の明里の「事実」を示していた。
 「事実」は、「事実」だ。
 そこに、明里達の「思い」や「努力」は関係ない。
「だからこそ、考えて欲しいんです。自分が、何を求めて内部告発をするのか。そもそも、内部告発する意味があるのか」
「意味……ですか」
「おそらく、おやつや教材費について内部告発しても、業務改善命令がせいぜいです。それを適当に会社は受け流して、内部告発した『裏切り者』探しに躍起になるでしょう。そんな中にあなたは働くことになります。それに耐えて働くのも一つの方法ですが、確か、お給料が遅れているんですよね。そこに、ずっとお勤めされる気ですか?
「保っても、年度内だとは思います」
 それは、明里の「希望」でもあった。
 できれば、来年の三月末までは働いていたかった。
 その時になれば、望海も卒所だ。
「それならば、来年の三月まで働いて、その後退職されて手続き等も終わってからするのが一番現実的です」
 まあ、その時は「内部告発」ではなくなっていますけどね、と正吾さんは言葉を続けた。
 でも、それはあまりにも今の明里には「未来(さき)」の話過ぎた。
 明里が望むのは、今の状況が改善されることだ。
「全部を叶えることは、無理です」
 明里の気持ちがわかるのだろう。
 正吾さんは、そう言った。
「自分の安全な立場が守れて、勧善懲悪に原因になった悪人が取り除かれて、理想的な環境に改善されるのってのは、よほど奇跡が起きない限り叶えることはできません。死刑囚に恩赦が出て、死刑が無期懲役になるぐらい有り得ません」
 正吾さんは、職業病なのか、えらくマニアックな例えをした。
「私は、何を優先するべきですか?」
「身の安全です」
 そして明里の問いに、迷いなくそう答えた。
「内部告発するにしても何にしても、それは人生の一瞬にしか過ぎません。どんな判決が出ても、あなたの人生は続いて行くんです。ならば、かかる火の粉は少ない方が良い。裁判をすることになって、弁護士を頼むとしても、無料ではありませんからね」
 明里は、深いため息を吐いた。
 生半可な気持ちでするものではない、ってことなのだ。 
「でも、せっかくここまで証拠を集められたんです。これはこれで、活用されることをオススメします」
 正吾さんは、明里が持って来たおやつの記録と、レコーダーで録音したデーターが入ったCDを見ながら言った。
「活用……ですか」
「はい、そうです」
 明里の問いかけに、正吾さんは頷いた。
         ★
「結局、契約することにしたんだね」
 帰りの車で。助手席に座った美里は、運転する明里に向ってそう言った。
「やってきたことが、無駄にはならんかなって感じでね。やっぱ内部告発は、難しかごた」
「そうなん?」
「うん。やっても、効果はなかかもしれん」
「ばってん、何で契約したんね」
「あんたが言ったたい。するかどうかは、後で決めれば良かって。だけん、準備だけはしとこうと思って。もしもの時のためにね」
『これらの証拠は、あなたの身を守るために使いましょう。濡れ衣を着せられないために』
 正吾さんは、示された「事実」に衝撃を受けている明里に、そう言った。
『濡れ衣⁉』
『よくありますよ、不正に気付いた職員に全ておっ被せて会社を退職させられるのって。もちろん、それだけじゃあないですけど、攻撃できるものを用意しておくだけでも安心じゃないですか』
 そう微笑みながら、正吾さんは言った。
 その言葉を聞いて、一理ある、と明里は思った。
 確かに子ども達の環境を良くしたい、と言う気持ちは嘘ではない。
 でも、そのために自分の人生を犠牲にすることはできない。
「……まあ、無駄にならんで良かったわ。私、姉ちゃんは契約しないつもりと思ってた」
「あんたの方は、どぎゃんだったんね?」
「私の方は、慰謝料は払わんで良かごた。養育費は財産分与と相殺って感じね」
 生々しい返事に、明里はため息を吐いた。だけど、美里はもう「決めた」のだ。迷いも、辛さも感じているけれど、「離婚」に突き進むことにためらいはなかった。
 それに引き換え自分はまだ迷っていることを、明里は自覚していた。
 できることならば、何事もなく過ぎて行って欲しい、と思っている。
 けれど。
 それが限界なのも、わかっていた。
 温められたポップコーンが爆発してしまうように。
 近い将来、何かが起こって、それが爆発することは、目に見えていた。

1話目はこちら
憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~ 1 その戦いはうどんから始まった|kaku (note.com)

2話目はこちら
憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~2 有り合わせのオープンサンド(卵乗せ)|kaku (note.com)

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憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~3 戦闘前の唐揚げ|kaku (note.com)

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憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~4 憂鬱なメロンコンポート&アイスクリーム添えトースト|kaku (note.com)

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憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~5 決断のチョコレートマフィン |kaku (note.com)

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憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~6 炊飯器でおでん|kaku (note.com)

7話目はこちら
憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~7 飛び込んで、ライスプリン|kaku (note.com)

8話目はこちら
憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~8 ブラックティー|kaku (note.com)

9話目はこちら
憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~10 甘いカレーと激辛カレー ①|kaku (note.com)

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