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憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~2 有り合わせのオープンサンド(卵乗せ)

 料理には、「目を瞑ってでもできる」と思われている物がある。
 多分。
 オープンサンドなんかは、そう思われている料理の、筆頭に上がるだろう。
 何せ、パンに具材を乗せて、オーブントースターで焼けばいい。
 だから、「料理をしない人」ほど、こう思うのだ。
「何だ、簡単じゃん!」と。
 そうして。
 「放課後児童支援員」の仕事も、そうである。
「えっ? 放課後児童支援員って子どもが学校から帰って来てからの仕事だから、すごく楽じゃない」
 その台詞を聞くたびに、明里は「ぬしゃ(お前)何ば言いよるかっ!」と、故郷の九州弁で言いたくなる。
「真中ちゃん、代わって!」
 春休み真っ最中のこの日、凄い形相で、外遊びの子ども達と一緒にいたはずの谷さんが出入り口の扉を開け放つなり、そう言った。
「どうしたんですか、谷さん」
 部屋に残った子ども達と、毛糸を使った工作遊びをしていた明里は、驚いて立ち上がった。
「どうもこうも、子ども達がもうすぐおやつだって言うのに、中に入りゃせんのよ!」
「ああ、そうですね。そろそろ用意しないと、と思ったんですけど」
「そうね。そろそろ、そんな時刻ね」
 子ども達が少ないうちにと、カウンターで仕事をしていた安部さんも、カウンター席の後ろにかかった時計を見ながら頷く。
 春休み真っ最中のただ今。
 外遊び、二時間経過中である。
 最初の一時間は明里が見て、おやつまでの時間は谷さんが見ることになっていたのだ。
「声はかけたけど、『やだ、まだ遊ぶ』って!」
「ああ、なるほど……」
 明里は谷さんの言葉に頷くと、出入り口の方に歩き出した。
「谷さん、続きお願いして良いですか? 後は絞って、ベランダに干すだけなんで」
「どんな遊びをしていたわけ?」
「毛糸を洗剤に浸して揉むと、フェルトみたいになるんですよ。その実験をやっていたんです」
「また、斬新な遊びをしていたのね……」
「私もそれを真中ちゃんから聞いて、思わず家にあった毛糸を持って来たわ」
 どこか呆れるような谷さんの言葉を聞いて、安部さんも笑いながらそう言った。
 放課後児童支援員の仕事は、子どもを「預かる」だけが仕事ではない。
 そもそも、学童は子どもを「保育」することが目的である。
 去年別れた元彼と、晩御飯を居酒屋で食べていた時に、言われたことがあった。
『子どもと遊んでいれば良いんだから、誰だってできる仕事でしょ』」と。
 元彼とは、結婚の話も出ていたが、この時も「結婚したら、どこに住むのか」という話にもなった。
 明里としては、今の職場で働き続けられたら良いなと思っていたが、元彼は当然のように、自分の地元に明里が引っ越すことを望んできた。
『だって、子ども達が学校から下校してから、親が迎えに来るまで預かって、一緒に遊んでいれば良いんでしょ? お前が拘る必要ないじゃな』
と、言われてしまった。
 だが、子どもと遊んでいるだけで良いのであれば、学童の「保育」の場を設定できるはずがない。
『あのさあ、清潔な環境を保つためには掃除は必須だし、何か行事をする時も下準備はいるし、「福祉施設」だから、行政に提出する資料も多いんだよ。しかも、子ども相手に「遊ぶ」と言うのは、そんな簡単(もの)じゃあないんだよ。「子ども」の「遊ぶ」は、場当たり的なものが多いし、大切なのは、「その子と一緒に遊んで楽しいか」と言うことなの。誰だって、自分勝手な子やわがままな子、乱暴な子とは遊びたくないでしょ?そんな子達を、どうやって「遊び」に加えるのか、そんなことまで考えないといけないんだよ』
 ようするに、放課後児童支援員は「遊びの場の人間関係がスムーズに行くように調整し、なおかつ、遊びの提供をし、子ども達が楽しめる場を設定する」総合プロデューサーみたいな立場にあるのだ。
 そして、何よりも。
 「遊び」にかける、子ども達の情熱は半端ではない。
 けれど。
 元彼は、残念ながらそのことを理解してくれる人ではなかった。
『お前は、俺を愛していないんだ。愛しているなら、そんな仕事なんか捨てて、俺に付いて来るはずだ!』
 と、言い放ってくださった。
 明里にとっては、大切な仕事であることを、最後まで理解はしてくれなかった。
 まあ、それも去年の夏のことで。
 春休みの慌ただしい日々の中、元彼のことは、思い出すことは、今ではほとんどない。
「みんな、帰るよ―!」
 明里は、園庭に着くと、遊んでいる子ども達に声をかけた。
「ええ、やだ! まだ遊ぶっ」
 案の定、子どもからはそんな声が上がる。
「だって、おやつの時間だよ」
「いらない。食べない」
「帰るよ」
 拗ねたことを言う子どももいたが、明里は再度そう言った。
「どうせ、ゆで卵だろ?」
 今年の春に五年生になった歩武(あゆむ)が、ちょっとふくよかな体付きのわりに、サッカーボールを軽やかにラフィティングしながら不満げに言う。
「最近のおやつ、ゆで卵ばっかりだぜ」
「そんなこと、言わないの。烏骨鶏(うこっけい)の卵は高いんだよ」
「チュウチュウアイス方が、まだまし」
 取りなすように言った明里に、歩武はそう言い切った。
 まあ、無理はないのだ。
 昨年度までは、まだおやつ用のお金が出ていた。
 だが、四月に入ってから、おやつのお金が出なくなったのだ。
 今までにも、おやつ用のお金が、十分に出ていたとは言えなかった。
 三十人分前後のおやつは、だいたい安くみても、一か月で二万円は必要になる。
 それなのに、一万円しかもらえなかった。
 だから明里達職員は、皆で協力して、「いかに安く、良いお菓子を手に入れるか」と言うことを常に重要課題としていた。
 けれど、今はそれすらもない。
 もらえる金額が少ないとは言え、以前の方がまだ遥かにましだった。
 現物支給とは聞こえは良いが、ようは老人ホームの施設であまった食材を、学童の方に回しているのだ。
「でも、今日のおやつは、パンだよ」
 先ほど、栄養士の女の子が持って来てくれたのは、パンだった。
 この学童がある山の麓にある、ディスカウントショップが売り出している、一斤百九十円(税込み)の食パンだ。
「パンにマーガリン塗ってさ、砂糖をその上に振りかけてさ、シュガートーストにしても良いし、焼き立てにマーガリン塗っても美味しいよ」
 明里が持ち込んだ砂糖が、まだ冷蔵庫には保管してあるためそう言うと、
「あ、それじゃあ僕帰る!」
 と、二年生になった、坊主頭の壮馬が、そう言って走り出した。
「焼き立ての食パン……」
「おかわりもあるよ」
 考え込む歩武に、明里はそう言った。
「マーガリンだけのも、シュガートーストも、どちらも美味しいよね」
「帰ります!」
 歩武が即答した時には、ほとんどの子ども達が、外から学童の建物へと戻ろうとしていた。
「真中ちゃん、早く!」
 と急かす子もいて、明里は、おいおいおい、となってしまった。
 しかし、学童のおやつがディスカウトショップで売られている食パンとは。いったい、これはどういうことなのか。
「そこにアイスクリームを添えるもんじゃないの、普通」
 やれやれと思いながら明里が子ども達の後を追っていると、いきなり、今度六年生になるこの学童で最年長の望海(のぞみ)ががそう声をかけてきた。
「うちは、カフェじゃないよ」
 明里は、振り返りながらそう答える。
「しけた学童なんだから、せめておやつぐらい豪華にして!」
 ボニーテールの髪を揺らし、望海は叫ぶ。
「何だ、真中に何か言われているのか」
 と、その時だった。
 自宅に戻ろうとしている、平八郎理事長が声をかけた来たが。
「何でもありません」
 ばっさりと、望海は切り捨てて、
「早く行こう、真中ちゃん!」
 明里の手を取り、すたすたと歩き出す。
「ちょ、望海さん!」
 明里は形式上、平八郎理事長に頭を下げると、望海に引っ張られるまま、学童へと戻った。
「望海さん、あれは失礼だよ」
 出入り口の扉を閉めて、軽くため息を吐きながら、明里は靴を脱ぐ望海に声をかけた。
「だって、あの人、気持ち悪いんだもの。他の子達が傍を通っても声をかけないくせに、最近、私に声をかけてくる!」
「それ、本当?」
 嫌悪感丸出しの望海の声に、明里はそう問い返す。
「私の言っていることが信じられないの⁉」
 それに対して、望海は切れ気味に振り返りながら叫んだ。
「そう言うわけじゃないけど……」
 だが、明里がそう説明しても、望海が納得していないのか、怒りの表情で見ている。
「とりあえず、安部さんにも話すわ。それと、できるだけ、一人で行動しないようにしよう。私達も、協力するから」
 望海の言葉を全面的に信用するわけではないが、無視して良い事柄ではない。
「とにかく、おやつの準備しよう。シュガートーストは、望海さんも好きでしょ?」
 黙り込んだ望海に、明里は「このお話はお終い」と言う意味も込めて、話を変えた。
 これ以上話しても、望海を追い詰めるだけだ。
「……おかわりは、シュガートーストにして」
 明里の言葉に、望海は不貞腐れながらもそう返事をしてきた。
               ★
「そんなこと、望海さんが言ったの?」
 その日の夜。子ども達が全員帰った後、明里は、安部さんと後片づけをしながら、今日望海が言っていたことを報告していた。
「確かに、理事長は学童の子ども達には、あまり関わろうとしないわね。機嫌が悪いと、無視することもあるし」
「まあ、おやつが『またパンだった』って言う、怒りもあるのかもしれません」
 最年長でもある望海は、この「学童」の中で一番偉い人が誰なのかは、きちんと理解している。
「それなら、まだマシよ。農場で烏骨鶏を買っているじゃない。ようは、無料で手に入った物を、提供しているってことよ」
 彗で床をはきながら安部さんが言った。
 明里達の学童は、夜の八時まで開所しているが、だいだい七時半も過ぎれば子ども達は帰って行く。
「何か向こうからしたら、餌代とか掛かっているって言いそうですね」
 明里は、部屋のごみ箱を集めながら言う。
「一日千五百円程度のおやつ代すら出せないってことですかね?」
「出せないんでしょうねぇ。市からは、十分補助が出ているはずだけど」
 明里は、溜息を吐きそうになった。
「何に使っているんですか?」
「さあねえ」
「家とか、立派ですけどね」
「まあ、ここも『山』の上にあるけどね。まるで、領主か何かになったような気がするのかもね」
「徒歩で十五分ほどですよ?」
 その程度の山で、何故に「殿様気分」になれるのか。
 明里は、窓から見える理事長の自宅を見た。
 彼は、もう五十代も後半だと言う。
 そうして、一度も「外」で働いたことがないらしい。
 大学を卒業してから三十年以上、ずっとこの自分の家が経営している社会福祉法人で働いてきた。
 いや、まだその頃は「社会福祉法人」と言うものはなかった。
 「児童養護施設」を経営していた実家を手伝い、そして「福祉法人」を設立して、「老人ホーム」を作り、明里達が働く「学童」を作った。
 傍から見れば、りっぱな経歴ではあるが、中身はガタガタである。
「何で理事長の自宅の方を見ているの?」
「いえ、あれだけ太っているなら、歩くよりも、ボーリングの球のように転がって行った方が早いのかなって考えています」
「恨みつらみが重なっているわね……」
「だって、おやつって、学童の子ども達にはとても大切なんですよ! 安部さんだって、子どもの頃のおやつは命の次に大切だったでしょう?」
「まあ、それは否定しないわ」
 明里の言葉に、安部さんは言った。
「でもね、真中ちゃん。一番大切なことを忘れちゃダメよ。この学童の経営者は、『それで良い』と判断しているのよ。そしてその経営者に、私達は雇われているの」
「間違ったことを、そのまま『良し』とするのは違うような気がします」
「私達にとってはね」
 明里はそう言い募ったけれど、安部さんはそう言葉を続けた。
「あの人達にとっては、きっと私達の方が間違っているわ。『雇い主の言うことを聞かない』ってね」
「そっちの考えの方が間違っているですけど、常識的に。雇い主と労働者は対等じゃないですか。それに『言うことをきけ』って言うなら、何で給料が遅れるんですか」
「でも、あの人達にとっては、たとえ遅れても給料は払ってやっているんだから、感謝しろってことだと思うわよ」
「昭和初期で時間が止まっていませんか」
「実際、八重子(やえこ)先生はそうかもしれないわね。若い時はそれこそ、お家には使用人もいたでしょうから。お婿さんに来てくれた前理事長の功(いさお)先生の方が、まだ世の道理はわかっていたはずよ」
 八重子先生と功先生と言うのは、平八郎理事長の両親の名前だった。
 前理事長だった功先生は亡くなり、今は一人息子だった平八郎理事長が継いだ、という流れらしい。
 上にはお姉さんがいるらしいけど、何故か実家であるこの「仕事」には関わっていない。
 そこにどんな軋轢があったのか、伺い知ることはできないけれど、「健全」な家族関係ではないことは、察するにあまりある。
「まあ、おしゃべりはこれぐらいにして。さっさと終わらせて、帰りましょう」
「そうですね……」
 まったくもって、安部さんの言う通りだった。
 こんな会話をしていても、子ども達のお菓子の状況が改善されるわけではない。
 明里は安部さんの言葉に頷くと、
「でも、望海さんの件は注意が必要かもしれません」
「そうね。外に行く時は、望海さんだけを一人にしないようにしましょう。必ず、歩武君や他の子達と一緒に行動させるように、こちらも配慮しないとね」
 と、そんな確認をしながらテキパキと部屋の掃除を再開することにした。
               ★
 そうして、次の日。
「また卵⁉」
 半狂乱に近い声で、望海がポニーテールの頭を振りながら言った。
 その瞬間、明里はげっとなった。気持ちは、わかる。痛いほど、わかる。
 だが、わざわざ栄養士の女の子が学童までおやつを持ってきてくれたのに、その言いぐさはない。
 明里が咎める視線で見たとたんに、望海は明里から視線を逸した。
「すいません、ありがとうございます」
 明里は、栄養士の人にぺこりと頭を下げた。
 まだ若い幼さが残る栄養士の人は、辛うじて笑顔を浮かべている。
「ええと、今日はマヨネーズもありますから。残ったらどちらも返してくださいね」
「ありがとうございます」
 いつもは塩だけだからね、とは言わなかった。
 容器を受け取り、ドアを閉める。
「ちょっと、望海さん。あれはないわよ」
 それから、望海にそう声をかけた。
「何よ、本当のことじゃないっ!」
「だからと言って、持って来てくれた人に言うべきことじゃあないわ」
「だって、もう卵ばっかりうんざりよ! こんなしけた学童に毎日連れて来られて、しけたおやつを食べさせられるのよ⁉」
 明里の言葉に煽られたのだろう。
 望海は、さらに声を上げた。
 やれやれ、とその声を聞きながら明里は溜息を吐いた。
「どうしたの? 真中ちゃん」
 ちょうどおやつの時刻になったので、外に子ども達と出ていた安部さんが中に入って来ながら、明里に聞く。
「望海さんが、おやつを持って来てくれた栄養士さんに文句言っちゃって……」
「あら―」
 明里の言葉に、安部さんは困ったような顔をした。
 明里だけじゃなく安部さんにまで咎められたのが面白くなかったのか、望海はぷいっと、部屋の奥に行ってしまった。
「まあ、気持ちはわかるんですけど」
 ただ、本当にその気持ちは明里にもわかるのだ。
 こうも毎回毎回ゆで卵を出されていては、切れ気味にもなる。
 まして望海は、彼女が望んでこの学童に毎日来ているわけではない。
 親が望むから、来たくもないこの学童に来ているという思いは、日々積み重なっているのだろう。
「でも、言ってはいけない言葉ではあるわね。わざわざ持って来てくれた人には、まず『ありがとう』と言うべきでしょ」
「……そうですね」
 部屋の奥にいる望海に聞かせるように言った安部さんの言葉に、明里は頷いた。
 たとえ不満があっても、まず先に出るのはお礼の言葉でないといけない。 
 建前と言うやつである。
「栄養士の子が、理事長に言うかもしれないけれど、まあ、その時はその時ね」
 ただ、安部さんも同じ気持ちではいるのだ。
「とりあえず、今日はマヨネーズがありますから、いつもよりもマシにはなります」
 そんな安部さんに、明里は言った。
「そうなの?」
 聞き返して来る安部さんにこくんと頷くと、明里は受け取ったゆで卵を持って、二階へと上がろうと、階段に向かった。
「俺、望海ちゃんに同意だぜ」
 そんな明里の隣に歩武が寄って来て、明里に言葉をかけてきた。
 彼は望海の次に最年長になる、五年生だ。
「だいたいさ、こんな良い天気の日に、何でこんなしけた場所にいなきゃいけないんだよ。普通は、どっか出かけるだろ」
 明里は、歩武をちらっと横目で見た。
「俺が一年の時は、平ちゃんがバスの運転してさ、みんなで遠くまで出かけたり、ボーリングに行ったりしたんだぜ。それが今じゃあ、おやつですらこれだ」
 歩武が一年生だった頃は、まだ金銭的に余裕があったようで、小旅行のようなものにも行っていたらしいが、明里が勤め始めてからは、せいぜい市内の散策ぐらいで、それでさえも、明里が勤め始めた年に、ゴールデンウィークに行ったきりだ。
 理由は、簡単だ。
 「金がない」のである。
 給料が期日に出ない社会福祉法人に、そんな余力はない。
 と言うか、お菓子ですらこの様なのだ。
 一応、春のお出かけとして、活動の計画は立てようとしたが、「無理だから」と、安部さんに止められたのだ。
「まあ、屋上で『やっちゃいけんよ』と言われたボール遊びをしていたり、ご飯とかおやつを食べている時に追いかけっこをしている人がいちゃあ、安心して出かけられないわね」
 しかし、明里はそう言って、階段を登り始めた。
「……っ昨日と同じものだったら、おやつ食べないからな!」
 そんな明里に向かって、歩武が叫ぶ。
「おやつの時間になったら、来なさいよ。食べるのは、そん時に決めな」
 手をひらひらさせて、明里は二階に上がった。
 歩武も、そして望海も、本当は家にいたいのだ。
 この春休みに学童でへ来ている高学年は、彼らだけだ。
 同級生でもある友達は、長期休みには家にいて、自由に過ごしている。
 彼らは、親の意向に従って、渋々来ているに過ぎない。
 その不満に、さらに自分の希望とは反したこの学童の現状だ。
 せめておやつだけは、と思うのは、無理ないだろう。
 こういう時。
 学童の「おやつ」を舐めるんじゃない、と明里は思う。
 二階では、谷さんが遊んでいる子ども達を見ていた。
「またゆで卵?」
「えーまたあ?」
 谷さんと折り紙をしていた二年生のショートカットの由紀(ゆき)と、髪の毛を二つ結びにした麻衣(まい)は、不満を訴える。
 高学年の望海よりもまだ素直な、谷さんお気に入りの低学年女子ですら、この様である。
「こら、文句言わない」
 谷さんもそのことをわかっているから、咎める言葉はそれぐらいだ。
 明里は遊んでいる子達に机から移動してもらうと、アルコールを机に吹きかけ、ゆで卵を置いた。
 そして、二階にあるトイレ近くの手洗い場に行って、手を洗う。
 そのまま、通路の間に置いてある冷蔵庫から昨日のおやつだったパンを出す。
 枚数は、十七枚。
「よし、足りるな」
 明里はそう呟くと、今度はそれを机の上に置く。
 次に子ども達が遊んでいた広告用紙を一枚もらうと、卵の殻を剥き出した。
「卵の殻を剥くわけ?」
 谷さんがそう尋ねて来たので、
「そうです。十個ぐらいで足りるかな?」
 明里はそう答えた。
「子ども達にやらせればいいじゃない。由紀ちゃん、麻衣ちゃん、手伝ってくれる?」
「うん、いいよ」
「わかった」
「剥き終わったら、これに入れてね」
 と、明里は流しの下から取り出して来たボウルを差し出して言った。
 谷さんの、こういった機転は、さすが元幼稚園教諭だな、と思う。
 卵の殻剥きは子ども達にも比較的任せて大丈夫だし、そうすることで、子ども達の暇つぶしにもなる。
 とにもかくにも、春休みや夏休みと言った長期休みは、子ども達の「ヒマー」の言葉との戦いでもあるのだ。
 そんなことを思いながら、明里は流しの下から出したまな板の上に、食パンを置いた。
 鍵のかかる棚から包丁を出すと、包丁を斜めに入れて、食パンを斜めに切り分け始める。
 一枚一枚に包丁を入れ、皿の上に積み上げていると、
「何してんだよ、真中ちゃん」
 二階の反対側の部屋で遊んでいた、壮馬以下低学年男子達が寄って来た。
「おやつ作っているの」
 明里は、パンを手際よく切りながら言った。
「谷さん、包丁しまってくれますか?」
「わかった」
 この子達が近づいて来たら、包丁は危なくて使えない。
 何せ、包丁を持った明里に突進して来た過去がある。
 そのことは谷さんもわかっているから、素早く対応してくれる。
 明里から包丁を受け取ると、流しに行って包丁を洗い、ふきんで拭って戸棚にしまってくれる。
「真中ちゃん、俺もやりたいー!」
「あ、俺も俺も!」
「待て、その前に手を洗って来い!」
 置いてあるパンに手を出そうとする低学年男子達を一喝すると、明里は谷さんに頼んで、泡だて器を出してもらう。
 麻衣と由紀達が殻を剥いてくれた茹で卵を手早く潰した。
 そして、そこにマヨネーズを投入する。
「何を作るわけ?」
「オーブンサンドです」
 作業している明里の傍に来た谷さんにそう答えていると、低学年男子達が戻って来た。
「手を洗ったよ~」
「んじゃ、これを交代で混ぜて。一人は、しっかりボウルを抑えてね」
「十回混ぜたら交代だよ」
 谷さんがすばやく声をかけてくれる。
 この辺の声掛けは、経験から来ている。何も言わずに子ども達に任せておくと、『ずるい、いつまで混ぜているんだ!』『代われよ!』『俺、ちょっとしか混ぜていない』という絶叫と、床に中身が散らばるのは、目に見えているのだ。
 子ども達が潰したゆで卵とマヨネーズを混ぜている間に、明里は使った泡立て器を流しに入れ、棚から皿を出した。
 ついでに塩も出す。
「真中ちゃん、私達は何をすればいい?」
 卵の殻剥きをしてくれた麻衣と由紀も、まだまだお手伝いする気満々だ。
「それじゃあ、また卵四個剥いてくれる? 剥いた卵は、このお皿に入れて」
 二人の傍に、出したプラスチックのお皿を置いた。
 そうして、次に塩を持って卵とマヨネーズを混ぜている男子達の所に行った。
「ちょっとごめん、良い?」
 明里はそう言うと、棚から出したスプーンをボウルに入れて、すくった。それを手に乗せると、口に運ぶ。
「あ、ずりぃ、真中ちゃんだけ食べているっ」
「俺も、俺も食べたい!」
「味見しているだけでしょうがっ。谷さん、どうでしょうか?」
 明里は谷の手にすくった物を乗せた。
「うーん、塩が足りんかもね」
 谷さんはそれを口に運んで、そう言った。
「わかりました」
 その言葉に頷いて、明里は塩を小さじ半分ぐらいの量を目分量で入れる。そして、よく混ぜてもう一口味見をする。
「ずるい、真中ちゃんだけっ!」
「俺も、俺もしたい。味見!」
 騒ぐ壮馬以下四名を横目に、明里は、
「麻衣さん、由紀さん、味見してくれる?」
 と、最初に手伝ってくれた麻衣と由紀の手にスプーンですくったものを乗せた。
「うん、美味しい」
「美味しいよ、真中ちゃん」
 彼女達はにっこりと笑いながら言う。
「俺も、俺も―!」
 その横で騒ぐ壮馬以下の低学年男子達に、
「順番でしょうが!騒ぐなら味見なしよっ」
 これまた明里は一喝して、低学年男子達を黙らせる。そして、
「一口ずつよ」
 と言って、順番に低学年男子達の手にすくった物を乗せた。
「美味しい」
「うま―い!」
と、低学年男子達が騒いでいる間に、明里は卵とマヨネーズを混ぜた物が入ったボウルとスプーンを持って、パンを置いてある場所に移動した。
 そのままにしておいたら、さらに搾取されるのは目に見えている。
「これをパンに塗るわけ?」
 それをわかっている谷さんは、すぐに動いてくれる。
「はい、そうです」
「わかった」
 谷さんは頷くと、スプーンが入った瓶を出して、そのまますぐにパンにそれを乗せた。
「量はどれくらい?」
「全体に伸ばせるぐらいで」
 谷さんは、手際よく作業を進めてくれる。
「真中ちゃん、まだ味見したい―!」
 だが、低学年男子達が騒ぎだして来る。
 明里は、谷さんを見た。
 谷さんはその視線だけで、察してくれたのか、
「こっちはやっておく。麻衣ちゃん、由紀ちゃんも手伝ってくれる?」
 と言って、二人に声をかけた。
「うん、わかった。真中ちゃん卵全部剥いたよ」
「ありがとう。ほれ、あんた達もやるよ」
 明里は壮馬以下低学年男子達に声をかけて、殻を剥いたゆで卵を見せた。
「ええ、また作るの!?」
「追加で作るなら、また味見できるけど?」
 不満そうな彼らにそう言うと、とたんに、態度が改まった。
「作る、作る!」
「今度はもっと食べさせて!」
 とりあえず、落ち着いた子ども達を横目に、明里は流しに一回置いた泡だて器をもう一度持って来て、深めの皿にゆで卵を一つずつ入れて、交代で潰させた。
 そしてその作業をしている間に、冷蔵庫の上に置いたオーブントースターを持って来て、コンセントの近くの床の上に置く。
 あまり床の上に食べ物を作る道具を置きたくはないのだが、冷蔵庫の上だとコンセントに届かないのだ。
 そうして、中のトレイを出して、パンを置いた。
 通常の食パンを二枚置けるから、四人分はできる。
 本日の児童数は三十人。
 八回焼けば全員分のは焼き上がる。
 時間は二分。
 必要な時間は、だいたい十五分。
 ここまで来れば、時間との勝負である。
 しかも、焦がすわけにはいかない。
 そんなことを思いながら、トースターのタイマーを回す。
 そして案の定、
「おやつまだー?」
 と言いながら、おやつを求める子ども達が階段を上がって来た。
 そして、そこにとどめを刺すのは、トースターから漂ってくる、パンの焼く匂いである。
「うわ、何、何、今何作っているの?」
「私早く食べたい!」
 これらの暴走を抑えるのは、持って五分程度なのだ。
 それを持たせるためには、
「卵潰した? マヨネーズ混ぜるよ」
 取りあえず、意識を逸らせるに限る。
 明里がそう言ったとたん、「おやつまだ」軍団の視線が、一斉にそちらを向いた。
「俺、味見したいっ!」
「え、味見できるの?」
「お手伝いしてくれる人が優先です」
 明里はそう言うと、マヨネーズをボウルに投入した。
 明里の言葉に、手伝ってくれた低学年男子達が安心したような表情をする。
 学童と言う場所は、縦社会だから、低学年男子達は、上学年の子達には逆らえないのだ。
「ずるいっ」
「ずるくありません。当然のことです」
 味見をしたくば手伝うが良い、と言外に言いながらマヨネーズと卵を混ぜる。すると、
「んじゃ、俺も手伝う!」
 そんな声が、上がった。
 その声の持ち主は、何時のまにか来ていた歩武だった。
 そのままパンのところに突進しようとするのは、低学年男子達と同じである。何故に、子どもと言うのは同じパターンで行動するのか。
「手を洗って来いっ!」
 明里としても必死である。
 「おやつまだ」軍団の攻撃をかわしつつ、パンを短時間で焼かねばならないのだ。
 塩をさっきよりは少なめに入れて、さらに混ぜていると、
「焼くの手伝うわ」
 望海が階段を上がって来て、そう言った。
「その代わり、味見させてよ」
「そりゃ、もちろん」
 明里は望海の言葉に、即答した。
 そうすると、後はスムーズに行く。
 明里は約束通り手伝ってくれた子ども達に味見をさせて、十五分後、
「おやつだよー!」
 と、言う事ができた。
 それから、全員そろって、「いただきます」とおやつを食べ始める。
「真中ちゃん、これ美味しい!」
 一口食べたとたん、そんな声が聞こえた。
 明里は自分も味見をしようと、余ったおやつを食べてみた。
 そして、改めて思う。
 やはり、マヨネーズは最強だ!と。
 卵もやはり良い物を使っているせいもあるのかもしれないが、マヨネーズがこんがり焼けたパンとマッチして、また卵を一緒に焼いたせいで、卵がカリカリになっている。
 オープンサンドは、パンに乗せる具材が命なのだ。
 下手に不味い物を乗せたら、単なるゲテモノになってしまう。
 だが、今回のこのオープンサンドは、卵が良い具合になって、とても美味しくなっていた。
「真中ちゃん、私ももらって良い?」
「いいですよ。半分こしましょう」
 と明里が言った時、
「あ、ずるいっ、真中ちゃん達!」
「おかわりがなくなるっっ」
 という声が子ども達から上がった。
「おかわり分はキープしているからっ」
 そう言って、明里は叫んだ。
 それでもって、おやつタイムをやり過ぎし、子ども達のお迎えタイムも過ぎて、谷さんも帰り、明里は流しに溜った洗い物を片付けることにした。
「安部さん、洗い物をして来ますね」
 と明里が安部さんに声をかけ、二階に上がろうとしたとたん、
「私も二階の掃除をするわ」
 と、安部さんが言った。
 そこに、何か含むのがあるような気がするのは、明里の気のせいではなかった。
「さっきと言うか、子ども達がおやつを食べている時、平八郎先生が来たのよ」
 洗い物を始めた明里に、安部さんは言った。
「早いですね、仕事が。こういう時だけ」
「若い栄養士の子から話を聞いて、おばさん達にピシャリと言ってやろうと思ったみたいね」
「自分もおじさんなのに?」
 だが、「おばちゃん」と言われる世代がこの学童に固まっているのは確かだ。一番若い明里ですら、もう三十代も後半である。
「そうね。若い子に良い恰好しようとして、厳しく注意しようとして意気込んで来たものの、案の定、早く下に降りて来た子達が、『今日のおやつゆで卵じゃなかった。うれしいっ』って口々に言うわけよ。それで、言い出せなくなったみたいで」
「そのゆで卵出しているの、自分ですもんね」
 さすがに、おやつに不満を持っている子ども達の前ではとてもじゃないが言えなかったに違いない。
「で、その時に言われたのが、『後で料理長に連絡させる』ってことだけ。後から内線で料理長から連絡来たわ」
 彗を動かしながら言う安部さんの言葉に、明里は皿を洗いながら、うわぁと思った。
 ようは、ちゃちなプライドを満足させるために、そんな手の込んだことをしているのだ。
「それで、料理長からは今度から厨房におやつを取りに来るようにって言われたわ。それから、余ったおやつは返すようにってことだったわ。パチるんじゃないって言われたわよ」
「子ども達のおやつ代パチっている人がよく言いますね」
 「盗人猛々しい」とはこのことか、と明里は思いながらため息を吐いた。
「まあ、いいじゃない。余ったおやつを返却していけば、調理の人達だって、どんだけ自分達が人気のないおやつを出しているかってわかるでしょうから」
 しかし、安部さんの方は強かだった。
「ただ、おやつを厨房にまで取りに行かなくちゃいけないんだけど」
「それは行きますよ。おやつは、料理長も何も言って来ないでしょうしね」
 肩をすくめながら、明里は言った。
 多分、明里達に厨房に来させることで、「お前達は俺達の下なんだ」ということを、料理長達は示したいのかもしれない。
 だが、それは明里達にとっては、「何、それ?」の世界だ。
「料理長と理事長の肝って、本当に小さいですね。どれくらいの大きさなんでしょう?」
 イチゴミルク飴くらいかな、と明里が呟くと、
「さあねえ」
 明里の言葉に、爆笑しそうになりつつも、安部さんはそう答えてくれるのだった。

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憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~10 甘いカレーと激辛カレー ②|kaku (note.com)

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