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憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~7 飛び込んで、ライスプリン

 「味覚」というものにも、「成長」と言うものがあるらしい。

 赤ちゃんの頃は、この「味覚」と言うものがかなり敏感なので、ちょっとした味の変化でも食べなくなる。
 また、子どもの頃は「苦味」や「辛味」は「毒」として無意識の内に体が判断するため、子どもはそういう味がするものは、食べようとしない。
 けれど、少しずつ「食べる」という経験を積んでいくうちに、「味覚」も成長し、人は「苦味」や「辛味」を「美味しい」と感じ始める。
 そうして、この「味覚」と言うものは、十二歳ぐらいまでに完成されてしまうものらしい。
 つまり、小学生までに食べた物達によって、子ども達の一生の「味覚」の能力は決まってしまうのだ。
 そのことから考えると。毎日子ども達が「おやつ」を食べる学童にも、多大な責任の一端はある、ということなのだ。
 けれど。
 もう一つ、忘れていけないことがあって。
 「味」と言うのは、子ども達にとって、「安心できるもの」であることも大切なのだ。
 まして、食事と違って、「おやつ」は「楽しみ」が一番の目的である。
 あまり、奇抜な物を出すのは、好まれない。
 未知な物は、子どもにとって「毒」でもあるからだ。
 だから。
 「定番」と言われるおやつは、子どもにとっては、とても「安心」できる物なのである。
 それは、世界共通で言えることなのかもしれない。
 そう。
 でも、「国によってそれは違う」ことも、忘れちゃいけないと、明里は思うのだ。
 ここは、日本。どこかの外国ではない。
          ★

『もしもし真中さん?もし良ければ、労働組合のユニオンに行くの、付き合ってもらえませんか?』
 その電話がかかってきたのは、安部さんから「真中ちゃんの好きなようにしなさい」と言われた三日後の夜のことだった。 
「ユニオン……ですか?」
 明里は、松浦さんの電話に答えながら考え込んだ。
 労働組合のユニオン、という言葉は、派遣切りがマスコミで話題になった頃、よくテレビからもラジオからも流れていた。
 だから。
 明里も、「一人でも入れる労働組合」と言う程度には知っていた。
『本当は、市内まで行かないといけなかったんですが、たまたまこっちに用事があって、明日会ってくれることになったんです』
 松浦さんは、すがるように明里に言った。
『明日九時から会うことになっているんです。真中さんの勤務時間は十一時からでしたよね?一時間ぐらい付き合ってもらえないでしょうか?』
 明里は松浦さんの言葉を聞きながら、どうしようか、と思った。
 だけど。
 目の前にある、パソコンの画面には、本日出されたおやつの記録があった。
「卵とご飯の混ぜご飯のお焼き」
 またしても、これが出たのだ。
 最近はご飯物が良く出るようになっている。
『有り合わせで何とかしようってとこね』
 とは、安部さんの弁だ。
『それだけ人手が足りないってことですか』
『お金もね』
 そして、明里の問いかけに皮肉気に笑った。
 美里に以前指摘された、保護者の人達から「利用料」として徴収されたお金は、どう使われているのか。
 学童のために集められたお金は、きちんとその項目のために使われているのか。
 そのことについても、明里は少しずつ調べていっていた。
 先月の保護者に出された「請求書」の内訳は、「基本利用料」「送迎費」「光熱費」「教材費」「施設維持費」となっていた。
 金額に分けると、「基本利用料」が四千円、「送迎費」と「光熱費」がそれぞれ千円、「教材費」が五百円である。
 明里達の学童は日によって増減はあるが、三十五名の子ども達が在籍している。
 つまり、「教材費」と銘打って徴収している金額は、毎月一万七千五百円もあるのだ。
 けれど。
 六月になって、至急された「教材」はガムテープ一個だけだった。
 ちなみに、ガムテープはどうみても、百均のものだった。
 この結果だけでも、美里が言うところの「ちゃんと使われている」ことが、全然できていないことが、一目瞭然だった。
 けれど。
 そのことを、どこに伝えるのが一番良いのか、明里は決めかねていた。 「好きにして良い」と安部さんは言ってくれたが、何をするにしても、安部さんが責めを受けるのは確実なのだ。
 だからこそ、少しでも安部さんの負担がなくなって、尚且つ、最大限の効果か出るようにしたかった。
『どうでしょうか? 真中さん』
 考え込む明里の耳に、やっぱりすがるような松浦さんの声が届く。
「……わかりました」
 明里は、息を吐くように頷いた。
「一緒に、行かせてもらいます。待ち合わせの場所を教えてください」
『労働基準監督署です』
「はいいい⁉」
どうやら、松浦さんは本気のようだった。
          ★

 労働基準監督署。労働に関する法律がきちんと守られているか、監視・指導する国の行政機関である。労働基準監督署の監督官は司法警察権限を持っており、法律違反と判断した場合には是正のための指導や調査、悪質な場合は強制捜査や逮捕のを行うことも可能。
「でも、だからこそ、警察と同じで『民事不介入』が徹底しとるみたいよ」 
 本日も自動車学校に行く美里が、豆を箸でかき混ぜながらった。
「詳しかね、美里」
「一応、労働組合の経験もあっとよ、私」
 そう言えば、航空会社は、労働組合がかなり活発な印象が明里にはあった。
「人間関係に関しては、口出しできんと?」
「と言うか、扱いが難しかとよ」
 確かに、パワハラや退職追い込みは、その人の感じ方もある。
「人と人との関係だからね。どぎゃんしても、公的機関である以上平等でなきゃいけんけん、なあなあになる部分も多いのかもしれんね」
「ふーん……」
 美里の言葉を聞きながら、明里はご飯に生卵を落とした。
 栞奈ちゃんや江原さんの件は、「人と人との関係」になるならば、事が大きくなる前に退職した彼女達は、賢いのかもしれない。
「姉ちゃんは、朝は必ず卵ご飯だね」
「美里が用意してくれるのは、和食だけんね。だったら、と思ってついしてしまうとよ」
「私も和食のご飯は久々だけん。向こうでは、洋食ばっかりだったし」「え? なんで?」
「所謂ブレックファーストってやつ?和孝ですら、『和食は洋食よりも低俗だ』って」
「それ、根拠どこにあっとね」
 明里は、目をばちくりとさせて言った。
「火を使うことをする文化が高等で、生で食する文化は下等なんですって」「何ね、その馬鹿馬鹿しい見解は。自分が馬鹿ですって言ってるようなもんじゃん」
「そう思う?」
「だって、そぎゃんじゃん。食べ物ってのは、それぞれの国で時代の変換を経て、発達していっているのよ? ハンバーガーだって、もとはイングランドの地方料理の一つだしね」
 そう言って明里は卵かけご飯を口に運んだ。
「それ、姑の見解をそのまま言っていとると」
「何で、そぎゃんことば言わすと?」
 明里は、不思議に思って尋ねた。
「さあ?」
 美里の言葉に、大きい声で叫ぶ平八郎理事長を思い出した。
「可哀そうな人なのかも、しれんね」
 明里は、卵かけご飯を食べながら、小さく呟いた。
 それと同時に、美里の家庭があまり良い状態のではないことも確認できて、心の中で、小さくため息を吐いた。
          ★

 労働基準監督署は、ハローワークの二階にあった。松浦さんと階段を上がって行くと、二階のすぐ上がったロビーのような場所で、ソファに座った男の人が待っていた。
 年の頃は、六十代ぐらいだろうか。白髪で、厳しい眼差しをしている人だった。
「こんにちは。松浦さんですか?」
 その人は、立ち上がりながらそう言った。
「あ、はい。電話をした、松浦涼子(りょうこ)です」
 それに対して松浦さんは慌てて頭を下げる。
「そちらは、同僚さんですか?」
 松浦の後ろにいた明里を見て、さらにそう尋ねてきた。
「あ、はい。真中と言います」
「そうですか。私は、時沢(ときざわ)と申します。それでは、早速お話をうかがいましょう」
 時沢さんはそう言うと、テキパキと明里達を会議室のような場所に案内してくれた。
「こちらにどうぞ」
 明里と松浦さんは、幾つも置かれた長テーブルと椅子の一つに案内されて座った。
「さて、あなた方はどんな『望み』を抱いて、ここに来られましたか?」
 そして、向かい側にパイプ椅子を移動させると、時沢さんは、そう口を開いた。
「望み……ですか?」
 その言葉に、明里は考え込む。
「それでは、ちょっと問いを変えましょう。あなた方は、我々ユニオンとはどんなものだと思いますか?」
「え……?」
 松浦さんは、時沢さんの問いかけに言葉を詰まらせる。
「一人でも入れる労働組合ですよね?」
 明里が答えると、
「そうですね。では、『労働組合』とは、何かをご存知ですか?」
 と、時沢はさらに問いを重ねてきた。
「労働三権を守るために作られた団体のことですよね?」
「そう。日本は憲法で、三つの労働の権利を保障しています。労働者が皆で集まって労働組合を作る権利(団結権)、雇う側と交渉する権利(団体交渉権)、そしてストライキを起こして良い権利(団体行動権)。この権利を有効に使うために作られたのが、『労働組合』です」
「経営者が無茶したら、文句を言うための組織ってことですね」
「そうですね。的確で正しいです」
 明里としては軽い冗談のつもりだったが、時沢さんは真面目な顔をして頷いた。
「給料の未払や、不当な労働をさせる雇い主に、集団でまとまることでこちらの権利を主張するんです。一人では通用しないことでも、集団でやれば、経営者も考えなければならなくなる。ただ、日本的には、その考え方は、『好ましくない』と考えられがちなんです。中小に企業になると、労働組合はないところも多いですし、正社員以外は入れないところもあります」
 と、時沢さんがそう説明してくれた時だった。
 トントン、と軽くドアが開いて、若い男の子が入って来た。
 スーツがまだ着慣れていない印象のその音の子は、まだ二十代前半ぐらいで、新卒のような感じがした。
「時沢さん、プロジェクター持ってきました」
「おう、三宅(みやけ)君。ちょうど良かった。少し付き合ってくれ」
「え、僕は仕事中ですよ」
 三宅君と呼ばれた男の子は、嫌そうに顔を歪めた。
「君は、本日の講演の係じゃないか。準備を手伝ったと言えば良い。実際、これも準備だよ。これから彼女達に話すことは、今日私が話そうと思っていることだ」
 ふうとため息を吐きながら、三宅君は時沢さんの隣に座った。
「じゃあ、手短に行こうかね。三宅君、労働基準監督署に通報された案件で、匿名の場合はどうなる?」
「もちろん、案件としては受け付けます。ただ、緊急性は薄いですね」
「どうしてですか⁉」
 これには、松浦さんが声を上げた。
「緊急性が低いからです。匿名で通報するってことは、まず信憑性が低いと言う可能性があります。逆に実名を出されていると言うことは、それだけで真実性は高くなる」
「嫌がらせの可能性もあるってことですね」
「そうです。自分勝手な思い込みで通報される方もいらっしゃいますから。そんな『通報』にかまかけている暇があるならば、他に優先するべき案件があるんです」
 それは、偽りのない本心たと明里は思った。
「それと、労働基準監督署にはパワハラなどのご相談も受け付けていますが、基本的に『労働』に関することが専門です。だから、給料未払や残業手当の未払、不当解雇などは証拠さえあれば、すぐにでも動けます。でも、パワハラなどの人間関係は、なかなか困難な場合が多いんです」
「まあ、例えばあんた達は、俺に『セックスしようか?』と言われたら嫌悪感を持つだろうが、三宅君のような若いのに言われたらどうだ? 満更でもないだろう? つまり、言われた本人の気持ちがそこに入ってくるんだ。だから、扱いが難しい」
 時沢さんの言葉に、明里は栞奈ちゃんや江原さんのことに思い出した。確かに、彼女達は「平八郎理事長」にされて嫌がっていた。
「それに加えて、労働基準監督署が対応できる分野には限りがあることと、企業に対し何かを強制する権限はないんです。企業がきちんと労働基準関係法令を守るよう監督する機関であり、問題があったら送検して刑事事件にする権限は持っていますが、未払い賃金や残業代を支払わせるなどの、民事的な対応をさせたり命令したりすることはできません。実際に企業に対して、刑事罰を適用させるケースは、そう多くはないですしね」
「つまり、個人の『代理人』としては、動く場所ではないってことですね」「そう。だけど、雇い主と労働者の仲立ちはしますよ。そのために、『あっせん』という方法があります」
 明里の言葉に頷きながら、三宅君は言葉を続けた。
「あっせん制度は、労使双方の間の紛争が起こった場合に動労問題に関する専門家が仲介に入って、話し合いによる解決を目指すものです。ようするに、お互いの妥協点を探すってことですね。だから、どちらが正しいとか、そう言った判定はしません。そう言う性質のものではないんです」
「さらに付け加えると、あっせんには裁判所のように強制力はないからな。会社側(あちらさん)が『参加しない』と言えば、それまでだ。まあ、そのまま裁判と行く場合もあることを考えると、出た方が良いんだがな。これはユニオン(うち)でも言えることだが、自分のために正義の味方が現れて、自分の『敵』をやっつけてくれるわけじゃあない。だからこそ、『自分は何を望むのか』が、大切になってくる」
 時沢さんは、明里達を見ながら言った。
「不当解雇を撤回したいのか、給料の未払分を回収したいのか、パワハラの上司を何とかしたいのか。それによって、やっていく方法は様々だし、『退職する』と言うのも、一つの手ではある」
「ちなみに、あっせんが不成立に終わっても、裁判所で、『労働審判(ろうどうしんぱん)』を申し立てることもできます。これは、労働者と事業主との間で起きた労働問題を、手早く適切に解決を図ることを目的とする、裁判所の手続です。ただ、これはあくまでも『労働者者としての権利・利益に関わるもののみ』となっているので、パワハラをした相手を訴えることはできません」
「逆に、うちのようなユニオンが得意としているのは、団体交渉だな。一人の要求だとなかなか会社側は動かない。だが、我々のようなユニオンが団体で動くと、会社も相手にせざる得ない。もちろん、裁判になった時のサポートもするが、あくまでも動くのは本人だ」
 異なる立場の二人から、代わる代わる説明を受けて明里は脳内がパンクしそうになった。
「私は、一生懸命会社のために働いてきました。大変なこともたくさんありましたけど、頑張ってきました。それなのに、『邪魔になったから』という理由で退職させられました!」
「そう。確かにそうなんですけど、会社はそんなあなたを必要としなくなったんです」
「……!」
 厳しい現実を、時沢さんは言った。
 何時の間にか口調は丁寧なものに戻っていた。
「あなたが今置かれている状況は理不尽なものでしょう。でもそれは、あなたの前に辞めていた人達―辞めさせられた人達も、同じような気持ちでいたはずです」
 その言葉に、松浦さんは、はっとなった。「どうするかを決めるのはご本人です。私達は、そのサポートをする立場にしかすぎません。だからこそ、きちんと考えて欲しいんです。あなた方が一番望むものは何なのかを」
 そう言った時沢さんの顔を、松浦さんは茫然となって見ていた。
          ★
 時沢さんにお礼を言って、建物の外に出た時には、雨が降っていた。
「結局……私は甘かったってことですかね」
 傘をさそうとしていた明里に、ぽつりと松浦さんが呟いた。
「私は、一生懸命に働いてきました。休みの日だって、出勤して仕事をしてきたんです。それなのに、何の言葉もなく、私は退職するしかなかった」「今までの方も、そうだったですよ。私達は内内にしていましたけど」
 けれど。
 明里は、そう答えた。
 実際、前の学童の管理者が辞めた時は、南さんや谷さんと一緒になって、小さいお別れ会を開いた。
 少ないけれど、皆でお金を出し合って餞別を渡した。
 会社からは特に何もなかった、と退職した管理者は言っていた。
 松浦さんは、ずっとその「会社」側にいたのだ。
 松浦さんだけが、理不尽な退職をさせられたわけじゃない。
 今回のことは、彼女の番が来た、と言うだけの話だ。
「そういう会社なんですよね」
 明里は、傘を開きながら、小さく呟いた。
「他人事のようにしていますけどね、真中さん、あなたも辞めさせようと理事長は考えているんですよ!」
「どのみち、あの会社は持ちません。縛られかることは、ないと思います」「どうして冷静でいられるんですか⁉」
「冷静じゃないですよ」
 淡々とした明里の態度に、苛立ったように松浦さんは叫んだけれど、明里だって、冷静でいられるわけじゃなかった。
 これからどうするのか、
 まだ何一つ決めていない。
 それでも、今の日々は続かない。終わりの始まり。
 そんな言葉が、ぴったり来るのだろう。
「松浦さんは、何が望みですか?」
 先に、その日々を終わらせた人に、明里は問いかける。
 でも、まだ彼女の中では「終わって」はいないのだ。
 だから。
 明里はその人の「願い」が何なのか「知りたい」と思った。
        ★
 ただ、そうは言っても。現実の仕事は、目の前にある。明里が仕事を辞めようが続けようが、子ども達は毎日来る。
 だから、明里は松浦さんと別れた後で、仕事に向かった。
「おはよう、真中ちゃん」
「おはようございます」
 タイムカードを押すために、児童養護施設に入り、玄関に置かれたタイムカードの機械に、ICカードを認識させる。
 もうすぐ十一時ということで、当然ながら、施設の子ども達の姿はない。 
 だが、玄関すぐ横にある事務室にも、職員の姿はなかった。
「誰もいませんね」
 明里は、安部さんにそう尋ねた。
「会議があるのかもね」
 安部さんは靴を脱いで中に入ると、事務室から学童の鍵を取ってきた。「会議ですか?」
「本来ならば、ケース会議やら運営会議やらやってなきゃいけないのよ」
 児童養護施設の玄関を出て、すぐ隣にある学童へと向かう。
「松浦さんが辞めてから、本格的に『改革』に着手したって感じね」
 学童の鍵を開けながら、安部さんは言った。
 「確かに、綺麗に掃除はしてありましたね」
 松浦さんがいた頃は、玄関も砂だらけだったのに、最近は綺麗に掃除してある。
「まあ、今のところは真っ当なことばかりね」
 けれど、扉を開く安部さんの言葉は、「今後はどうなるのかわからないけどね」という意味を含まれていた。
 安部さんは、康子さんと付き合いが長い分、これから先がどうなるのか、「見えている」のかもしれなかった。
『どうして冷静でいられるんですか⁉』
 さっき松浦さんと交わした会話が、明里の脳裏に蘇る。
 明里の現実は、まだ何も変わらないのだ。
 朝の十一時に出勤して、安部さんと一緒に部屋の掃除をして、十二時になったら、お弁当を食べる。
 そして、午後の二時になったら谷さんが来て、安部さんと谷さんは子ども達の学校に迎えに行って、明里は子ども達を受け入れる。
 それからは怒涛のように子ども達に宿題をさせて、おやつを食べさせて、外遊びに付き合い、保護者の方の迎えを受け入れて、夜の八時には勤務が終了。
 ―そんなふうに、とりあえず、今日も過ごして行くのだと、明里は思っていた。
 けれど。明里と安部さんが一階と二階とを手分けして掃除をしている時だった。
 ピピピッと、内線の鳴る音が、二階で掃除をしている明里にも聞こえた。「はい、学童安部です」
 と、安部さんが答えている声も聞こえる。途端に、明里は嫌な予感を覚えた。
 最近は、食堂に行かないために料理長のパワハラは受けずにすんでいるが、内線が鳴る時は、だいたいロクなことがないのだ。
「あ、はい。わかりました」
 一方、安部さんはそう返事をしている。
 明里は彗を動かしながら、聞き耳を立てた。
「では、失礼します」
 と言う返事と共に、受話器の置かれる音がした。
「真中ちゃん、私ちょっと隣の児童養護の方に行ってくるわ」
 そうして、明里に向って、階下からそう叫んできた。
「どうしたんですか?」
 明里は階段の踊り場まで降りて、安部さんに問いかける。
「康子さんに呼び出されたから、行ってくるわ」
「お隣に……呼び出しですか」
 だが、このパターンは初めてだった。
「そう。お隣に呼び出し。長くなりそうだったら、先にご飯食べていてくれて良いからね」
 そう言って、安部さんは外へと靴を履いて出て行った。
 その後ろ姿を階段の踊り場から見送った明里は、軽くため息を吐くと、階段を上がって、掃除の続きを再開した。
 二階にもトイレがあるから、トイレ掃除もしないといけない。
 お昼から掃除をしても良いけど、雑務があるので、できるだけお昼ご飯前に掃除は済ませるようにしているのだ。
 安部さんのことは心配だったけれど、だからと言って、今の明里にできることは、他にない。
 今できることをするしかない、と思いながら明里がトイレ掃除をしようとした時だった。
 トゥルルルルーと、ズボンのポケットに入れたスマホが鳴った。
 誰だろう、と思いながらズボンからスマホを出すと、画面には「母」の文字が出ていた。
「母さん?」
『あ、明里。今ちょっとよか?』
 母親は、明里が電話に出ると同時に、挨拶もなしに喋り出した。

「今仕事中だけん、少しならよかよ」

 だが、これはいつものことなので、明里は気にせずにそう返事をした。母の里美(さとみ)は、現役の看護師で、いつも忙しそうにしている。明里達が帰省した時も、夜勤だ出張だと言って仕事優先で飛び回り、ゆっくり過ごす時間はほとんどない。
 明里が臨時教員をしていた頃は、時々「まだ結婚しないの?」という類の連絡をしてきたが、明里が母の電話を無視するようにしたら、それもいつの間にかなくなった。
 そんな母がわざわざ明里に電話をかけて来たと言うことは、本当に珍しいことなのだ。
『美里、あんたのところにいるの?』
「何ね、藪から棒に」
『あちらの実家からね、連絡が来たとよ。連絡と言うか、嫌み?』
「旦那さんの母親からね?」
『ご名答』
「おるよ。先月から。で、今は自動車学校に行っとる」
『そう……』
 明里の返事に、母親はため息を吐くように頷いた。
『あんたはどぎゃん思う?』
 そして、そう問いかけて来た。
「美里のこっだけん、ぎりぎりまで我慢したじゃなかかな、って思う」
 母の問いに答えながら、明里は、今朝の美里の様子を思い出していた。
 どこか他人ごとのような表情で、自分の家族のことを話していた。そこには、家族に対しての「感情」は、何一つ見えなかった。
『戻らん可能性もあるってこと?』
「その覚悟がなきゃ、あん子は私のとこになんか来んよ」
 姉妹の中で、一番生真面目で粘り強い性格をしているのだ。
 その美里が、「家を出る」ということは、生半可な覚悟ではいないってことなのだ。
 自動車学校に通っているのも、今後の布石のために違いない。
『そう……わかったわ』
 母親は、再度ため息を吐くように言った。
『そぎゃん言うんなら、私は美里が何か言ってくるまで何も知らんふりしとくわ』
「まあ、それが良かと思う。あっちの方にも、 『知らん』で通しとって」『何も知らんのだけん、他に言いようがなかたい。美里にも無理はせんごつ伝えといてね』
 そう言うと、母親は通話を切った。
 明里はスマホの画面をしばらく見つめていたが、軽くため息を吐き、ズボンのポケットに入れた。そして、また彗で床をはわき出した。
 母親からの電話は、さらに明里の気持ちを暗くさせてくれた。
 結婚していない明里には、よくわからないが、妻が家出したにも関わらず、夫ではなく夫の母親が電話をしてくると言うのは、やはり疑問に思ってしまうのだ。
 けれど。
 安部さんが言っていたように、夫婦のことは夫婦にしかわからないことも、また事実だった。
 難しいな、と思う。明里にとっては、美里は妹だ。
 「妻」でも「母」でもない。
 「姉」として、美里が辛抱強くて、頑張り屋であることは、よく知っている。
 その美里が出した「結論」は、世間一般では「間違っている」と言われても、否定はできない。
 たとえ世間的に「間違っている」と言われようが、それしか選べない時もある。
 美里が、自分の「家族」に感じた思いは、明里が「教員」という仕事に対して感じた思い(もの)と、似ているのかもしれなかった。
 あの時。
 「退職」した職員のことを知らされた時の職員室の雰囲気は、今でも忘れられない。
 まるで何事もなかったように、職員達は過ごしていた。
 自分達の仲間が、悲鳴を上げて退職したと言うのに。
 明日は、我が身かもしれないと言うのに。
 そんなことにかまかけている暇はないのだと、本当にいつもの風景が、そこにはあった。
 その瞬間。
 明里は、「もう、駄目だ」と思ったのだ。
 これ以上、この仕事を続けようという思いが抱けなかった。
 それと同じことが、美里にもあったのかもしれなかった。
 と、その時だった。
「ただいま、真中ちゃん」
 ガラっと戸が開く音がして、安部さんが帰ってくる音が聞こえた。
「あ、お帰りなさい。どうでしたか?」
 明里は彗を持ったまま、下に降りた。
「どうも、こうも……厄介なことになったわ」
 苦笑を浮かべながら、安部さんは言った。
 その口調に、明里は嫌な予感を覚えた。
          ★ 
「ワゴン車の運転を、安部ちゃんに⁉」
 午後二時になって出勤してきた谷さんは、明里の話を聞いて、呆気に取られた表情になった。谷さんはお昼ご飯を食べた後、「じゃあ、車の練習に行ってくるわ」と言って、出かけて行ったのだ。
 その後、明里は父の日のプレゼントを子ども達に作成させるために、プラバンを切る作業をしていた。(ちなみに、プレゼントはプラバンで作るキーホルダーである。今回も、安部さんが材料を提供してくれた)
「はい……」
 明里は呆気にとられた谷さんに頷く。
「今まで、そんなことはなかったけどね」
 確かに、谷さんの言うとおりだった。
 前の管理者や南さんはワゴン車を運転していたが、それは例外で、学童の職員は、軽自動車を運転することになっていたのだ。
 それは自然とそうなっていたかもしれないが、大きな車を運転する自信がない職員には、願ったり叶ったりなことではあったのだ。
 ちなみに、何故か明里は働き始めの頃から、「留守番」が役目となっていて、それが今は定着している。
「大きな車は、農場の人とか南さんがやつてくれていましたけど、そんなことなら、私も送迎に出た方か良いんですかね」
 明里は、ため息を吐きながら言った。
「真中ちゃんはね、平ちゃんに信用されていないから、運転の許可がでないよ」
 だけど、谷さんがそんなことを言った。
「あの人は、自分の『信用できない』と思った人以外は、運転の許可を出さないから」
「何ですか、それ」
 明里ははっ?となって、谷さんを見た。
「前に言っていたからね。『俺は信用している奴しか、運転はさせん』って」
「その基準は、何でしょうか?」
「基準?……仕事をちゃんとする」
「していませんか? 私」
「無断欠勤や、遅刻早退をしない」
「年休っていつ取ったのかも覚えていませんし、遅刻とかは社会人として有り得なくないですか?」
「会社に利益を還元していない」
「していないですかね?」
 少なくとも、明里が働き出してからこの三年間、利用者は増え続けている。
「結局『気に入らないから』ってことですか」
「真中ちゃん、モテないね」
 ずばり、谷さんは言った。
「そんなものは、思春期の時に自覚済みです」
「不思議だったんだけどね。真中ちゃん顔立ちはそこそこ整っているし、性格も明るいのに、何で彼氏もいなくて、結婚しないのかなって」
「……ありがとうございます」
 礼を言うところかどうかは疑問だったが、明里は素直にお礼を言った。「でも、何故なのか、だんだんわかってきた。真中ちゃん、平ちゃんのことをどうでも良いって思っているもんね」
「どうでも良いってことは……」
「でも、信頼はされなくても良いって思っている。実は」
 まあ、それは当たっていた。
 明里が信頼されたいのは、一緒に働いている安部さんや谷さん、そして子ども達だ。
 だから平八郎理事長のことは、信頼されたいと言うか、「どうでも良い」と言うのが本音だった。
「自分は目障りだと思っているのに、当の本人は自分に欠片も関心がないってのは、屈辱だわ」
 谷さんの納得したもの言いに、明里はどう答えて良いかわからなかった。「戻りましたあ!」
 と、その時だった。
 谷さんが勢いよくドアを開けて、学童に戻ってきた。
「お疲れ様です、安部さん」
 明里は、そう安部さんに声をかける。
「お疲れ様。どうだった? 安部ちゃん」
 谷さんも、安部さんにそう声をかける。
「ちょっと、座らせてもらえるかしら?」
 そう言いながら、安部さんはカウンターの中に入ると、自分の荷物から水筒を出して来て、お茶を一口飲んだ。
 そして、ふーと、長いため息を吐く。
「お疲れみたいですね」
 明里達がいる座り机の所に来ながらの安部さんの様子に、明里は「ワゴン車の運転」の練習はやっぱり難しいのかな、と思った。
「車の運転は、そう大変でもないのよ。大変だったのは、それ以外のこと」
 やれやれとまたため息を吐きながら、安部さんは床に座った。
「そうなんですか?」
「私は普通車も運転するからね。座高が高くなる分、見渡しが良くなって、その分運転はしやすいかもしれない。でも、長さがある分、やっぱり狭い道とかは不安だわ。特にここの学童の入口は狭いしね」
 確かに、年に一、二度、ワゴン車が坂道の側溝に落ちることがある。
「明日からワゴン車で迎えに行くわけ?」
「まさか。慣れない車で、雨降る中子どもの送迎行けって? 阻止したわよ、もちろん。責任は持てないからね。七月からにしてくれって言ったわ」
 谷さんの問いかけに、安部さんは肩を竦めて答えた。
「康子さんには『甘えている』って言われたけど、子どもの命には代えられないからね。『学童の職員でやるべきことを、何故農場の職員や児童養護施設の職員がやらなきゃいけないのか』って言われたけど、突っぱねたわ」「それ、老人サービスの送迎に、農場の人や南さんを使いまくっていた事実、綺麗に無視していますよね?」
 明里は、呆気に取られた。
「それに、大きな車で迎えに行ってもね、意味ないのよ。今、私達が行っているのは、太田小学校方面、西小学校方面、そして一番近い開田と四宮小学校の三方向でしょ。しかも、下校時刻はどの学校も大差ないのよ。送迎の人手が欲しいのは、子ども達を待たせないためなのよ。学校が迎えの時間で許してくれるロスは、せいぜい十五分ぐらいなのに、今のままじゃ、三十分は軽く超えてしまうわ」
「それは説明した?」
「したわよ、もちろん。でも、『甘えよ』で終わってしまったわ」
 谷さんの問いかけに、安部さんは首を振った。
 谷さんと明里も顔を見合わせてしまう。
「頭が回らないんだと思うわ。児童養護施設、今阿曽島さんしか残っていないんですって」
「えっ⁉」
 それは、衝撃的だった。
「みんなですか⁉」
 児童養護施設の職員は、松浦さんと阿曽島さん以外にも他に五名いたはずだ。
「そう。みんな、松浦さんと一緒に退職してしまったのよ」
「えっ? じゃあ、今児童養護施設、どうやって回してんの」
「農場の人や、栄養士の子を使って回しているみたいよ」
「大丈夫? もう一人の栄養士の子も辞めて、パートの水木さんも辞めたのに、調理は回っているわけ?」
「何か、平八郎理事長が入っているみたい」
 何気に情報をしっかり集めている谷さんは、馴染みのパートさんが辞めていたことも、ちゃんと把握していた。
「じゃあ、ご飯作りもままならないってことだ。料理長のフィールドに平ちゃんが入って、あの二人上手く行く?」
「難しいんですか?」
 あの二人は、一緒になってパワハラをしているイメージが明里にはある。「二人とも、自分が仕切りたい人間だからねー。特に料理長は、前に勤めていたホテルを追い出されているのよ。結構立場的には、上だったらしいけどね。だからこそ、調理は『自分の場所(もの)だ』って思いが強いだろうし。平ちゃんは自分の方が上だって言う思いがあるだろうし」
 谷さんの言葉は、明里には初耳だった。
「料理長は、人間関係のもつれで辞めたんですか?」
「私も、鷹ちゃん経由で聞いただけど、そうらしいわ」
 かなり高い地位にいたのにも関わらず、前の職場を追い出されたことがあるならば、料理長はそれを避けるために、あんな言動(パワハラ)をしているのか。
「だから、最近姿を見なかったんですね」
 道理で、最近は学童周辺で会わないはずである。
 望海のことがあるため、明里達は子ども達が園庭に行く時は、必ず交代で付き添うにしていたが、六月に入ってからは、ほとんど見かけることもなくなった。
 それでも、五月ぐらいまでは望海によく声をかけていたが、望海が平八郎理事長を無視したり、明里達職員が傍にいることに気付いた様子で、今では、子ども達全員に声をかけるようになっていた。
「私は、児童養護施設の職員が、阿曽島さん以外に全員辞めたことの方が気になるわ」
 けれど、安部さんは谷さんとは違うところが気になるようだった。
「見ようによっては、松浦さんがそれだけ慕われていたというふうにも思えるけど、康子さんのやり方に付いて行けなくて辞めたという可能性もあるのよね」
 その言葉に、谷さんと明里は、また顔を見合わせた。
「つまり……そうされる可能性があるってことですよね」
「そうね。もちろん、私達は私達でやっていくしかないんだけど、ある程度の心構えは持っていた方が良いと思うわ」
「平八郎理事長と同じようなことをされるってことですかね」
「それよりもタチが悪いかもしれないわ。本人が、それが『正しい』って思っている分、こっちの意見は聞いてくれない可能性も高くなる」
「安部ちゃん、それは考えすぎ」
 谷さんは、軽く手を振りながら言った。
「平ちゃんの方が立場は上だし、自分の許可なく、勝手なことをさせるわけないって」
「……そうかしらね?」
「そうそう。あ、もうこんな時間。送迎に行かないと」
 からからと笑いながら、谷さんは立ち上がった。
 谷さんの行くルートは、学童から離れている小学校ばかりなので、少し早めに出て行くのだ。
「真中ちゃんは、どう思う?」
「正直、安部さんの予想が当たっているような気がします。松浦さんにそこまで人望があるとは思えません」
「あいかわらず、すっばり切るわね」
 苦笑して、安部さんは言った。
「松浦さん本人には言いませんよ? それに、これは私の見解で、本当に人望があったのかもしれませんし」
「正直、私も『白河の清き魚のすみかねてもとのにごりの田沼恋しき』ってところだと思うのよ。「正しい」ことが、そのまま「正しい」とは限らないからね」
「そうですね……」
 明里は、安部さんの言葉に頷いた。それは美里のことも同じだった。
 確かに美里は子どもをほったらかしのまま、明里のアパートに居続けている。
 けれど、それは本当に美里が苦しんで出した結果なのだ。
 多分。
 康子さんも、「このままで良い」とは思っていない。
 でも。
 その「正しい」ことが、明里達と同じとは限らない。
 実際、児童養護施設の職員にとっては、「正しい」ことではなかったのだ。
 人の数だけ「正しい」ことがあるのならば、そのことを認め合い、妥協することも必要なのかもしれない。
 けれど。この後起こった出来事は、
 明里にその難しさを実感させたのだ。
 安部さんも送迎に出た後、明里は本部の老人施設の厨房に、おやつを取りに行った。
 だいたい子ども達が帰ってくる直前の午後二時半過ぎにおやつを取りに行っているのだ。
「すいません、おやつを取りに来ました」
 明里は何時ものように、厨房の裏手に回って、開け放たれている入口から、そう声をかけた。
 厨房には、料理長と栄養士の女の子がいて、料理長はちらっと横目で明里を見たが、何も言わずに作業を続けている。
「やっと来たのね」
 そうして、やれやれと言う口調でそう言いながら、奥の方から康子さんが出て来た。
「遅いわよ、子ども達が帰って来る時間ぎりぎりじゃない」
 そう言われて、明里は「えっ?」と思った。
 確かに、この時間帯はもうすぐ子ども達が帰って来る下校時刻には近い。だが、この時間帯におやつを取りに来ても、「まだできてません」と言われることもあったのだ。
「留守番役の職員として、自覚が欠けているんじゃないの? しっかりしてください」
 明里としては、今までの経験上、この時間帯にできていることが多かったから、「まだできていないんです」という状態を避けるために、タイミングを選んで来ているのだ。
 それなのに、この言われ様である。なるほど、と思った。つまるところ。康子さんは、自分が「正しい」と思う通りに動かないと、もう相手を責める言葉しか出てこないのだ。
 自分の来て欲しい時間帯に、相手が来るようにするには、それなりの「調整」と言うものが必要になってくる。
 明里達が送迎の時に、各自のスマホを使って連絡を取り合い、使えるツテは徹底的に使っているのは、スムーズに「子ども達の送迎」を果たすためだ。
 けれど、康子さんはそれをせずに、自分の思い通りに動かなかった人を責めて、それで終わっている。
 確かにこれでは、仕事はスムーズには動かないし、働く人達のモチベーションも上がらないだろう。
「私の話、聞いているの?」

 じっと自分を見つめながら、何も言わない明里に、苛立ったように康子さんは言った。
「あ、すいません」
 とりあえず、明里は頭を下げた。
 何かあったら、安部さんにクレームが行くのだ。谷さんにも、散々「気をつけろ」と言われている。
 それに明里が今考えたことを康子さんに言っても、その内容については、理解はしてくれないだろう。
 ただの「言い訳」として、無視されるのがオチだ。「じゃあ、さっさっと持って行って。今日のおやつは、『ストラチ』よ」
 そう言って、厨房の壁沿いに置いてある業務用の冷蔵庫から康子さんは、おぼんに載った、銀色のこれまた業務用のボウルを出した。
 銀色のボウルの中には、どろりとした白い液体が入っていた。
「これに食べる直前にシナモンをかけてね。トルコのお菓子なのよ」
 その白い液体を呆気に取られる表情で見ていた明里に、康子さんは得意そうに言った。
          ★
「真中ちゃん、これきついわ」
 六時間目の授業を終えて帰って来た歩武が、一口ストラチを食べて言った。
「味は良いんだけどね」
「でもこれ、ご飯だろ?」
 ストラチとは、ようはライスプリンのことだった。
 そう…牛乳に砂糖を溶かし、お米をそこに入れる。
 お米が柔らかく煮あがれば、出来上がり。
 味は素朴で口当たりが良く、優しい感じである。
 ただ。
 その中に入っているのは、ご飯なのだ。
 ミルクプリンにご飯が入っているような感じだろうか。
「悪いけど、限界。ご飯が甘いってのは、やっぱ勘弁だわ」
 いつもであれば、文句を言いながらもおやつを完食してくれる歩武も、食べ慣れない食感に、根を上げた。
「ああ、良いよ。無理しなくて」
 それでも、歩武は食べてくれた方である。
 他の子ども達は、まずこのストラチにかける「シナモン」で、「食べない」となった。
 シナモンは、独特な香りをしているスパイスだ。
 その匂いだけで、「ダメ」となったのである。
 けれど、その「シナモン」の香りが大丈夫だった子も、食べた瞬間に、今度は中に入っていた「ご飯」の食感で「駄目」となった。
 それでも、何人かの子ども達は、完食してくれたのだ。
「望海さんも良いよ、無理に食べなくても」
 同じく六時間目の授業を終えて帰って来た望海も、完食しようとしていた。
「不味ければ、残しているわよ」
 そんな望海を気遣って明里は声をかけたが、相変わらず、素っ気なく望海は言った。
「真中ちゃん、食べ過ぎると太るよ」
 そして、一緒になってストラチを食べている明里に、そう声をかけてくる。
「二杯目じゃない。炭水化物なんて、太る最大限の要因なのに」
 実は、明里は三杯目だった。
 一杯目は、低学年の子ども達と一緒に食べていたのだ。
「美味しいのかよ、真中ちゃん」
「まあ……食べられないことはないかな」
 そう。
 実際、味付けは悪くないのだ。
 ただ、中に入ったご飯の食感に違和感がある。
「よくこんな物食べれるよな」
「でも、世界中にある料理だけどね。自分達に食べられないから不味いってのは違うよ」
 歩武の言葉に、今朝の美里の会話を思い出した明里は、そう声をかけた。
「いや、真中ちゃん、俺達日本人だから。別に世界の人が美味しく食べていようがいまいが、俺達が『美味しい』ってって思う物を出してくれりゃあいいんだよ」
 だが、歩武の言うことはもっともなことだった。
 子ども達は、自分達が「美味しい」と思うおやつを食べたいだけなのだ。「だいたい、何で牛乳にご飯を入れるんだよ。米しかないなら、握り飯に俺達が作るし、牛乳と砂糖があるなら、片栗粉混ぜりゃあ牛乳餅ぐらいは作れるのに、何考えてんだ⁉」
「真中ちゃんに文句を言っても仕方ないわ」
 だが望海は、そんな歩武に声をかけた。
 何時もであれば、歩武と一緒に文句を言っていたのに、明里を庇うような台詞を言っている。
「真中ちゃんは、下っ端なんだから。言ってみれば、何一つ力はないのよ」
 けれど、その内容は明里を庇っているとは思うのだが、何気に辛辣である。
 その言葉に、明里はがっくりするしかなかった。
          ★
「へえ、望海さんがねえ」
 その日の午後七時過ぎ。安部さんは、ストラチを食べながら言った。
「何か、庇ってはいてくれるんですが、ちょっと辛辣なんです……」
「文句ばっかり言っていたのにね」
 明里がぼやくように言うと、そう言って、安部さんは笑う。
「まあ……本当は、望海さんも歩武君も、ここには来たくないんだと思います」
「そりゃそうでしょう。自分以外の友達は一緒に帰っているのに、学年で一人だけうちの車に乗って、ここに来ているわけだしね。高学年であれば、『学校の友達と遊びたい』という気持ちは当然あるし、ここにはあの子達が『楽しい』と思う物はないしね」
 そこで一度、安部さんは言葉を切った。
「その辺のことを、あの子達の親には考えて欲しいけどね」
「どうして、考えてくれないんでしょう?」
 明里達からは、そんなことは口を出せない。
「何時まで利用するか」を決めるのは、子どもではなくて、「親」だからだ。
「楽なんでしょうね」
「楽?」
 安部さんの言葉に、明里は首を傾げた。
「あの子達の『望み』を叶えるためには、色々なことを考えたり、話し合ったりする必要があるでしょう? だけど、ここに預けておけば、そんなことをする必要はないし、何よりも自分が『安心』できる。子どもの望みを叶えるための手間をかける『余裕』がないってことにしておけば、親は確かに『楽』よ……でも『親』の立場で考えれば、楽な方に行きたいとも思うわ。それ以外にも、やることは日々たくさんあるからね」
 確かに、安部さんの言う通りだった。
 「子ども」の立場で考えれば、もう少し「親」には子ども達の気持ちを考えて欲しい、とは思う。
 だが、その「親」にも、高学年になってもこの学童に子どもを預ける「理由」はあるのだ。
「ところで、真中ちゃん。話変わるけど、このストラチは、厳しいわね」「やっぱりそうですか……」
「味は良いんだけど、舌触りがね。シナモンも、子どもは苦手な子達が多いし」
 やれやれと言った感じで、安部さんは残りのストラチを食べ終える。
「おかわりされます?」
「それは勘弁。真中ちゃんはおかわりしたの?」
「はい、三杯ほど」
 安部さんの問いかけに、明里は頷いた。
「美味しかったの?」
「食べられないほどではないですけど、自分で作るほどではないです」
「なるほどね。それでも食べたんだ」
 苦笑しながら、安部さんは頷く。
「でも、どうしましょう。この残り」
 そんな安部さんに、明里は巨大な銀のボウルに残ったストラチを見せた。
 子ども達が手も付けずに残すので、ボウルに戻したのだ。
 ストラチはそのボウルに半分以上残っていた。
「こちらで処分しても子ども達が気に入ったと思われるかもしれないしね。それは困るし」
「じゃあ、そのまま厨房に持って行きます」
「そうしてください」
 そう言って、安部さんが使っていたお皿を明里に渡した時だった。
「ごめんなさい、誰かいないの?」
 一階から康子さんの声が聞こえた。
「あ、はい。います」
 安部さんは「多分、それよ」とでも言うように、明里が持つボウルを指さすと、バタバタと階段を降りて行った。
「どうしたんですか?」
「ボウルを取りに来たのよ」
 いつもおやつの入った容器を返すのは、午後七時過ぎぐらいにしている。あまり早めに返すと、老人ホームの夕飯の時間帯にかかって、迷惑そうにされるからだ。
 階下の会話を聞いて、明里はボウルを持って行こうと、サランラップをボウルにかけて持ち上げようとした、その時。
 明里は、ポケットに入れているICレコーダーのスイッチを入れた。
 何故、そんなことをしたのか。
 後から考えても、不思議だった。
 ICレコーダーを持ち歩くのは、美里に「姉ちゃんはどうしたいの」と聞かれた後からだった。
 けれど、元々は、四月に「平ちゃん劇場」に呼び出された時、対策のために買った物だった。
 後々、平八郎理事が「俺が話したことをまとめろ」などと言いそうだな、と思った明里は、家電量販店でICレコーダーを購入して、ポケットに入れていたのである。
 そして、今。
 明里はICレコーダーのスイッチを入れて、ストラチが入ったボウルを手に、階下へと降りて行った。
             ★

『何でこんなに残っているの⁉』
 神経質な声が、イヤホンを通して聞こえた。
『ちゃんと子ども達に出したの⁉』
『あ、はい』
 ヒステリックと言って良い口調に気圧された自分は、慌てて頷いている。『子ども達には、出したんですけど、「食べない」と言う子も多くて……』『多分、物珍しかったのね』
 安部さんもフォローするように、言葉を捻り出している。
 けれど。
 康子さんの声は、それを打ち消すように響いた。
『子ども達に、出された物はきちんと食べるように、指導してください。食べられる物を捨てるのは仏様も禁じているし、作ってくれた人にも失礼です』
 正論、である。
 だけど。そう、だけど。
 そう思いながら、明里はイヤホンを耳から外した。
 今日おやつとして出た「ストラチ」も、きちんとワードで写真と一緒にレポート形式にまとめている。
 この一か月出たおやつは、ご飯と玉子のお焼き、ご飯のお焼きお好み焼きバージョン、味付けがほとんどない蒸しパン、パンの耳を使った揚げパンや、パンプティングのなりそこないみたいなもの……。
 季節感や子ども達の気持ちは無視なメニューばかりだ。
 ゆで卵や干し柿の連発の頃よりもマシだが、それでも、子ども達への配慮は欠片もない。
 でも、今の会社の現状は、これが精いっぱいなのかもしれなかった。
「姉ちゃん良か?」
 台所で何かをしていたらしい美里が、引き戸を開けて、入ってきた。
「どきせゃんしたと?」
「ライスプリン。作ってみたけん、食べてくれん? 作りたてだから温かいばってん、冷やしても温かくても大丈夫らしいとよ」
 確かに、今日の出来事のことは美里に話していた。
 労働基準監督署で言われたことも、児童養護施設の職員が皆辞めたことも、ライスプリンがおやつとして出たことも。
 でも、さすがに母親からの電話の内容は言わなかった。
 夕ご飯の後に何か作っているな、と思っていたけれど、そんなことをしていたのだ。
 何故、美里がライスプリンを作ったのか。
 そこにどんな思いがあったのか、明里にはわからない。
 けれど、美里は何か「救い」を求めて、ライスプリンを作って、自分に「食べて欲しい」と言っていると明里は思った。
「あ、美味しい」
 ちょっと変わった食感ではあったが、もちっとして、優しい甘さだった。 
「これ、ライスプリンと?」 
「卵と砂糖と温かいご飯をミキサーにかけて、蒸し器で蒸したとよ。上にカルメラがかけてあるけん、私達がいつも食べているプリンぽかっでしょ?」
「うん。こんならご飯の食感もなくて良かね」
「でしょ? ミキサーにかけることで、ご飯の食感がなくなるとよ」
 おそらく。
 こういう手間(こと)が、必要なのだ。
 確かに、今の会社にはお金も人手もない。
 けれど、それは子ども達には関係ない。
 ご飯を使ったおやつしか出せないのならば、最大限に子ども達が好むおやつを考えなければならないのだ。
 ストラチだって、美里がやったようにミキサーにかければ、ご飯の触感はなくなる。
 美里が作ったライスプリンだったら、子ども達もまた違った反応を見せたのかもしれない。
 食べてくれない子どもを責めて、それで終わりと言うのは、違うのだ。求めるのであれば、与えなければならない。
「美里は、工夫してご飯を作っとったんね」
 ライスプリンを食べ終わった明里は、「ごちそう様」と言った後、そう美里に声をかけた。
「和孝の食の好みは細かかったし、私も料理は好きだったけんね」
 美里はあっさりとした口調でそう言って、それ以上のことは言わなかった。
 その口調からは、美里にとって、「子ども」も「夫」も、既に「過去」のものになりつつあるのかもしれない、と明里は思った。

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