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憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~3 戦闘前の唐揚げ

 戦いの前には、「肉」である。
 「肉」には、人間の闘争本能を活性化させる効果があると言う。
 元来、人間は「狩猟」をしていた種族である。
 「肉」を食べることで、狩猟本能が疼くのは、自明の理かもしれない。
 ゆえに、人は「肉」を食べ、己の戦闘意欲を燃え上がらせるのかもしれない。
 そう。
 本日は、闘いの場へと赴く日なのだ。
『真中ちゃん。理事長が、私達に話があるから、三人が午前中に揃う日を教えろっですって』
 今から十日前のこと。春休みも終わり、新一年生も給食が始まった日、明里は安部さんにそう言われた。
 それを聞いたとたん、明里は嫌な予感しかしなかった。
『説教ですか』
『と言うより、嫌味の嵐でしょうね』
 そのことをわかりきっているから、もうそんな会話しか、明里達はできない。
 できればぶっちぎりたい説教へのお誘いだったが、「理事長」の「業務命令」だ。
『できるだけ、早めにしましょう。嫌なことは、さっさと済ませるに限るわ』
 そんなことを話しながら、掃除をして、子ども達を迎える準備をしている時に、
『聞いた? 松浦(まつうら)さん、辞めるらしいわ!』
 と、谷さんが来て、重大発言をしてくれた。
 松浦さんは、南さんが勤めている児童養護施設の園長さんだ。
 まだ二十代後半なのに、「園長」をしている。
 ちなみに、明里が働き始めた四年前も彼女は園長だった。
 つまり、二十代の前半という若さだったのにも関わらず、「園長」という重大な役目の職務に就いていた、ということになるのだ。
 それだけ聞くなら、彼女はさぞ仕事ができるのではないか、と誰もが思うだろう。
 だが、良い意味でも悪い意味でも、松浦さんは「普通」だった。
 「普通」の二十代女子が、「園長」という役割を背負っていて、今は「副理事長」も兼任していた。それは何故なのか。
『えっ? 理事長の大のお気に入りじゃない』
 谷さんの言葉を聞いて、明里もそうだが、安部さんもびっくりした表情になった。
 彼女が若くして、「園長」になった一番の理由は、それだった。
 もちろん、「お気に入り」になった理由は、ある。
『前に、児童養護施設でトラブルがあってね。その時に、児童養護施設の職員がほとんど退職したのに、松浦さんだけは辞めなかったのよ。それで、平ちゃんが気に入ったらしくてね、あっという間に大出世ってわけ』
 とは、七年間勤めている、この社会福祉法人に精通した谷さんの弁である。
 とにもかくにも、その「お気に入り」である松浦さんが辞める、と言う。それはちょっとした、とは言えないほどの青天の霹靂ってヤツだった。
『それは、自主退職ってヤツですか?』
 結婚とかのおめでたい理由で辞める時だってあるし、自分で違う職場を探して転職する時だってある。
『鷹(たか)ちゃんの口調からすると、違うわ』
 事務長を「鷹ちゃん」呼ばわりできるぐらい勤めている谷さんは、明里の言葉を一蹴した。
 谷さんは以前、パートで児童養護施設の夜勤に入っていたこと時期もある。
  けれど、ずっとこの学童で働いて来た明里は、松浦さんと一緒に働いていない。
 それは、安部さんも同じだった。
 ただ、安部さんは、明里と違って「管理者会議」(通称平ちゃん劇場)で松浦さんとは接している。
 だから、
『そう言えば、最近『会議』に、松浦さん出ていらっしゃらなかったような気がするわ。出張か別の仕事があるからだと思っていたけど……。そういうことになっていたなんてね』
 と、安部さんの口調も重々しい。
『「園」からは、誰も出てなかった?』
『いいえ。康子(やすこ)さんが出ていたわよ』
 と、児童養護施設の副園長をしている、理事長の妹の名前を、安部さんが言った瞬間。
『それよ、それ。多分、追い出したわけよ!』
 と、得心が言ったように、谷さんは叫んだ。
 平八郎理事長の妹さんは、最近実家に戻って来ていて、児童養護施設の方に「職員」として顔を出すようになっていた。
 明里もタイムカードを押す時、児童養護の入り口にある機械の所まで行くので、彼女の姿を見かけたことがあった。
「おはようございます」と明里が言うと、穏やかな笑顔で「おはようございます」と返してくれる彼女の印象は、温和なおばさん、という感じではあった。
 だが。
 極めつけのことが起こった。
 それは、南(みなみ)さんが老人介護の方に異動させられる、と言うものだった。
           ★
 南さんは、エリートブラック企業のこの社会福祉法人の中でも、長期に渡って働いている人だった。
 その間の勤務数何と十年。
 本当にすごいな、と明里は思う。
 谷さんも七年だけど、南さんの場合、正社員としてその間勤務しているのだ。
 あの平八郎理事長のパワハラを華麗に交わし、与えられた仕事は確実にこなし、若手の職員を気にかけ、子ども達にも温かい心で接している。
 学童に一時いたこともあり、明里は最初の一年間、南さんと一緒に働いた。お世辞にもスレンダーとは言えない体型をしているのに、フットワークも軽く、大型車の運転もこなし、子ども達にも温かく接し、手先も器用で物づくりが上手い。
 男の子が喜ぶ割り箸鉄砲も、女の子達が喜ぶビーズも、本当に上手だった。
「まあ、介護の手伝いもちょくちょくはしていたけどね」
 谷さんは、コンビニで買って来たお弁当を開けながら言った。
「結局、南さんとは連絡取れたの?」
 安部さんは、持ってきたお弁当を開けながら聞く。
 こちらは、タッパーにご飯を詰めて、焼いたシャケ、海苔、野菜炒めを載せている、自家製ののり弁だ。
「ラインでだけどね。南ちゃん、当日に、いきなり言われたらしいわよ。阿曽島(あそしま)さんに」
 阿曽島さんとは、今から三カ月前に、児童養護の方に入って来た新しい職員だ。
 前は、障碍者の施設にいたらしい。
「何か、古参の人を追い出して、自分の取り巻きを残して行っているって感じだわ」
 谷さんの言葉を聞きながら、明里はぱかっと、自分の持ってきた弁当を開けた。
 弁当のおかずは、今朝作った唐揚げとほうれん草のお浸しである。
 本日のお迎え時刻は、早い学校の子達で十四時である。
 なので、明里達は平八郎理事長に呼び出される前に、ご飯をちゃっちゃと食べることにしたのだ。
「真中ちゃんは、さっきから大人しいけれど、やっばり怖いの?」
 お弁当を食べ始めた明里に、谷さんがそう声をかけてくる。
「いえ、何を言ってくるかは、だいたい想像がつきますから。この美味しい唐揚げ弁当を、今は味わって食べようと思っています」
 闘いの前に、食事は必須である。
「そう言えば、今日はおかずに唐揚げが、ドーンと入っているのね」
 最近は、毎日一緒にお昼ご飯を食べている安部さんは、明里のお弁当を見て言った。
「夕飯も唐揚げです。ビールもしっかり冷やして来ました。闘いの前に肉を摂取して、闘いの後も、肉でその疲れを癒そうと思います」
 ふふふっと笑いながら、明里は言った。
 唐揚げには、様々なレシピがあるが、「唐揚げ」と言われると大抵の人が思い出すのは、「鳥の唐揚げ」だろう。 
 明里もそうだった。
 給食の時に、唐揚げが出ると男子の目が違ったし、運動会の時に必ず入っているのは、この鳥の唐揚げだった。
 母が明里の誕生日の時に作ってくれたのも、鶏の唐揚げだ。
 唐揚げは、外食のお店に行けば必ずあるメニューだし、コンビニでも人気メニューで、お弁当屋さんでも絶対に置いてあるおかずの一つだ。
 昔からある中国から来た料理と思っている人達もいるが、どうしてどうして、日本発祥の料理である。
 今のように食卓に並ぶようになったのは戦後からで、鶏をブロイラーで飼育するようになってからよく作られるようになったらしい。
 それでも、鶏の唐揚げが出始めたばかりの頃は、ご馳走感は半端なかったろう。
 だけど、今でも明里はこの「唐揚げ」が御飯に出て来ると、特別感がある。
 そんな明里の母親が作るのは、しょうゆとにんにくで味付けをした、「竜田揚げ」と言われる物だった。
 鶏肉の胸肉を一口大に切り、塩コショウをすると、ビニール袋に入れた。味は好みだが、明里は母の直伝レシピである、みりん大さじ二、しょうゆは大さじ一強入れる。
 にんにくチューブ適量、しょうがチューブ適量。だいたい、一片ぐらいだろうか。
 まあ、そのへんは適当だ。
 調味料を入れると、ビニール袋を結んで、材料をよく揉み込んだ。
 冷蔵庫に入れていたそれを出して、とき卵をまぶして、片栗粉を付けて油で揚げる。
この揚げている時の、パチパチという油の跳ねている音を聞くだけで、憂鬱な気分が吹き飛びそうだった。
 そして、揚げた唐揚げの一部は、お弁当になる。
 普段、明里は家で揚げ物はしない。
 揚げ物は一人暮らしの明里には、買った方が手間もお金も掛からないからだ。
 だが、今回は別だった。
「その『闘い』は『黙っている』ことよね?」
 と、その時。
 突っ込むように、谷さんが口を挟んで来た。
「わかっていると思うけれど、平八郎理事長が何を言っても、黙っていて。真中ちゃんが言ったことでも、責められるのは、安部ちゃんなんだからね?」
「大丈夫です、そのための手段もちゃんと考えています!」
 取りあえず、明里は自分の気質を理解はしているつもりだった。
「でも、呼び出しって何?」
 それにしても、と谷さんは言った。
「『農場』の人にお迎え頼んだのが、まずかったみたいなのよね」
 それに対して、ため息を吐きながら安部さんは答える。
 「農場」と言うのは、平八郎理事長が経営する「農場」のことである。「農場」と言うと、馬がいて、牛がいて、牧場があって、と言うのを想像するかもしれないが、ようは「農家」の企業化みたいなものだ。
 お米を作ったり、野菜を作ったりしている。
 烏骨鶏も、この農場で飼っている。……表向きは。
 実体は「何でも屋」に近い。
 何せ、農場の従業員の人の中には、書類上は児童養護施設の職員になっている人がいる。
 高齢者デイサービスの送迎をやっている時もある。
「でもあれは、仕方ないじゃないですか。開田小学校の迎えに、南さんが行けなくなったのに、何の手立てもしてくれなかったのは、あっちですよ」
 安部さんの言葉に、明里は反論したくなった。
 明里達の勤める学童は、子ども達を学校まで迎えに行っている。
 これは、学校のすぐ傍にある父母会経営の学童とは違って、明里の勤める学童は市内の小学生達を対象にしているからだ。
 遠い学校だと、車で三十分以上かかる所もある。
 それを、安部さんと谷さんと、手伝ってくれる人達で手分けをして迎えに行っているのだ。
 そして、開田小学校はこの学童からは一番近い小学校で、児童養護施設にいる子ども達も通っている。
 なので、児童養護施設の職員である南さんが主に迎えに行ってくれていたのである。
 ところが、つい先日から南さんは児童養護施設の子ども達の迎えができなくなった。
 今思えば、それは介護に異動させるための前段階だったのかもしれない。
 だけど、そんな事情はさておいても、開田小学校の迎えに行く人がいない、と言うだけでも明里達には大問題だった。
 結局、事務長を「鷹ちゃん」と呼べる谷さんが彼に連絡を取ってくれて、農場の人がお迎えに行ってくれたから良かったのだが、それから数回、送迎を手伝ってくれる人がいなくて、農場の人にお手伝いを頼んだのだ。
「子ども達の学校からは、『まだですか』って苦情の電話もかかってきているんですよ」
 学童で子どもの受け入れを担当している明里は、安部さんや谷さんが送迎に行っている間は、電話番も兼ねている。
 そして、学校からの苦情の電話も受け取っているのだ。
「平八郎理事長は、そんなことは関係ないの。自分の知らないところで、勝手に話を進められたのが、面白くないのよ」
さらに深いため息を吐きながら、安部さんは言った。
「壮馬君以下ですね!」
 安部さんの言葉に、二年生のヤンチャ坊主の名前を明里は出してしまった。
「その壮馬君以下のことをする人が、私たちの勤める会社の『経営者』なの」
 そんな明里に、どこか悟ったように谷さんは言うのだった。
          ★
「そもそも、何で俺に黙って送迎を農場の職員に頼むんだ」
 平八郎理事長の、尊大な声が響く。
 その言葉に、心の中で膨大な突っ込みを入れながら、明里は広げたノートに、「送迎」と書き入れた。
 顔を上げずに、ノートの紙だけを見る。
 そうすれば、顔の表情を隠すこともできる。
 これが、明里の「黙っている」対策だった。
「俺を馬鹿にしているのか!」
 馬鹿にする以前に、当てにできないのだ。
 幾度となく、安部さんは、平八郎理事長に送迎の件で、連絡を取ろうとしていた。
 けれど、「出かけている」だの、「忙しい」だのと言い、電話にまったく出なかったのは、平八郎理事長の方だった。
 どうも、どこか海外に出かけていたらしい。
「はい、すいません」
 明里の前の席に座る安部さんは、さっきからその言葉を繰り返している。
 安部さんが初の二年目管理者になれたのは、この「見せかけ」の従順な態度を咄嗟に取れるだからだ。
 この所業は、明里にはどうしてもできないことだった。
『いい? 真中ちゃん。今日の私は、壊れたレコードよ。「すいません」しか言わないから。真中ちゃんも、がんばって黙っているのよ』
 と、安部さんに事前に言われていたので、明里はとにかく何か言いそうになったら、ペンを握りしめて、ノートに文字を書いた。
 本音は、「文句を言うなら、お前が段取り組めよ!」である。
 いつも、平八郎理事長はこうだ。
 いかに自分が正しいか、それだけしか言わない。
 まるで、叱られた小学生が、自分がいかに悪くないか、言い訳をしているようにも思える。
「―何をしているの?」
 と、その時だった。
 ずっと喋っている平八郎理事長の隣に座っているだけだった康子さんが、ふいにそう言った。
 明里は、えっ?と思い、ノートから顔を上げる。
 康子さんは椅子から立ち上がると、つかつかと明里が座っている席に近づいて来た。
「あなた、何をしているの?」
「……言われたことを、記録しています」
 明里は、素直にそう言った。
「ノート見せてくれる?」
「あ、はい」
 特に抵抗する理由もなかったので、明里は素直にノートを見せた。
 日付と、「送迎」「適切」と言った言葉以外は書かれていないので、躊躇う必要もない。
「書いていた物はそれ?」
 次に、康子さんは明里が使っていたペンを見た。明里お気に入りの、ゲルペンだ。
「あ、はい」
 康子さんはそれも持ち上げて、じっと見た。
「持っているのはそれだけ?」
「そうです」
 明里は、こくんと頷いた。他にも持っているが、それは言う必要はない。
「そう……」
 康子さんはじっと明里を見ていたが、踵を返すと、席へと戻った。
「兄さん、もう時間がないわ。兄さんが言わないなら、私が言うわ」
「え、お前……」
「今度から、私が児童部門を管轄します。私の指示に従ってください。学童の表の責任者は今まで通り、安部さんがしてください」
 康子さんは、きっばりとそう宣言した。
               ★
「あれって……結局、都合の悪いことが起きたら、安部ちゃんに押し付けて、自分達はトンズラする気よっ」
 学童に帰って来てから。谷さんが、硬い声でそう言った。
「谷さん……」
「……その時は、その時よ」
 でも。安部さんは、冷静にそう言った。
「安部ちゃん!」
「だって、私達がどう騒いだところで、康子さんが児童部門のトップになることには変わりはないわ。だったら、とにかく、今は様子を見るしかないわよ」
 と、安部さんは冷静に「事実」を指摘した。
 それには、ヒートアップしていた谷さんも、何も言えなくなった。
「取りあえず、今私達が考えなければならないのは、開田小学校の送迎よ。康子さんが児童部門のトップになることで、送迎の段取りが良くなるなら後のことは何とでもするわ」
 と、安部さんは谷さんにはそう言っていたけれど。
 夜に明里と二人っきりになった時。
「正直、平八郎先生よりも厄介かもね」
 と、言った。
「そうなんですか?」
「あの人、一度も働いたことないのよ」
 溜息を吐きながら、安部さんは言った。
「私は、あの人とは同じ高校の出身だけど。高校を出た後、短大に進学して、そのまま結婚しちゃったの。そして、今は娘さんを連れて帰って着ているのだけど、旦那さんは、亡くなったんですって」
「それならお子さんはもう大きいですよね」
「そう。でも、手元にいるの。娘さん、ダウン症だから」
 その言葉に。
 明里は、目をぱちくりとさせた。
 ダウン症とは、遺伝子疾患で起こる障害だ。
 見た目にも特徴があり、精神発達の遅れなどが見られる。
「じゃあ、娘さんのために、働きに出られなかったんですね」
 つまり、一度も社会で「働く」ことをしたことがない人が、いきなり明里達の上の役職になった、ということである。
「確かに、ちょっと厄介ですね」
 「働く」ことには、理想事じゃすまない部分もある。
 簡単に言えば、「正しい」ことが、そのまま通用するわけではないのだ。
 「正しい」ことも、伝え方を考えなければ、伝わることは難しい。
 特に人間関係などは、その典型だ。
 明里も、そのことは働き出してから実感し、実践で学んでいった。
「谷さんはもう、反発状態だしね。康子さんはああ見えて、プライドが高い人だから。多分、取り巻きで自分の周囲を固めて、それでやっていくつもりなんでしょう」
「……何か、理事長と同じことしていますね」
「そうね。ただ、これは真中ちゃんだから言うけれど。私は、自分の信じるものを曲げてまで、働く気はないわ。もちろん、すぐに結論は出さないわよ。息子もまだ学生だし、私の年齢になると、正社員で採用され難いっていう現状もあるしね。……でも状況は、悪くなると思うわ」
「どうして、そう思うんですか?」
 言っている内容(こと)が、いつもの安部さんらしくなくて、明里はそちらの方が気になった。
「わかるわよ。だって、私が康子さんの立場だったら、きっと同じことするもの」
 だけど。
 固い表情のまま、安部さんはそう言った。
 それは、明里が知らない「思い」を抱えている表情でもあった。
          ★
 プシュ!と、缶ビールの蓋が開く。
 明里は缶ビールを片手に、溜息を吐いた。
 あんな安部さんの表情を見たのは、初めてだった。
 明里の知る安部さんは、南さんとは違う意味で、柔軟な人だった。
 不満を抱いていても、必要があれば頭を下げる。
 あの平八郎理事長の「平ちゃん劇場」に出席して、二年目に入ることができた人なのだ。
 けれど。
 そんな安部さんが、康子さんには、「耐えられないかもしれない」と言っている。
 明里は、ぐびりとピールを一口飲むと、鶏肉の唐揚げを口に運んだ。
 明里は、取りあえず、食堂で不味い物を食べさせられないようにして、子ども達のおやつがちゃんとした物が出るようになれば、それで良いつもりだった。
 でも、それだけでは、もう済まないのかもしれない。
 つい昨日までは、「平ちゃん劇場」が終われば、闘いは終わりだと思っていた。
 だから、「闘いの前には肉!」と思って鶏の唐揚げを作ったけれど、本当の闘いは、今日、始まったのかもしれない。
 明里は、もう一口ビールを飲んだ。そして唐揚げを食べようとした時。
 バックの中のスマホが、着信を告げた。
 バックの中からスマホを出し、着信画面を見る。
 すると、それは友人の携帯番号だった。
「もしもし、栞奈(かんな)ちゃん?」
「あ、明里さん。久しぶり!」
 明るい声が、スマホ越しから耳に届いた。
 黒木栞奈ちゃんは、二年前までは児童養護施設で働いていた、同期だった。
 三年前の春に同時期に働き出し、二年前に―要するに、働き始めてからちょうど一年後に、退職したのだ。
 退職の表向きの理由は、「彼氏と結婚するから」だったが、本音は「馬鹿馬鹿しくなってね」とのことだった。
 明里より七つ年下の彼女は、その時まだ三十歳になったばかりなので、転職先は選べる余裕があった。
 保育士としての仕事ぶりは優秀だったけれど、平八郎理事長は、そんな彼女にパワハラを繰り返していた。
 児童養護施設長は松浦さんだったけれど、松浦さんも、平八郎理事長には、刃向かえないのだ。
 そもそも、何故に、児童養護施設の車で、子ども達と一緒に中学生達の運動会に行ったことを、責められなければならないのか。
 それも、栞奈ちゃんは勝手に判断したのではなくて、毎年中学生達の運動会に、児童養護施設の子ども達が行くのは、毎年の恒例行事だった。
「家族だったら、家族の行事に参加するのは当たり前だろう!」と、「部活動があるから、毎年恒例の会社上げてのクリスマス会に参加できない」、と高校生の子が言った時、平八郎理事長は、そう言い放っていたらしい。
 それなのに、「外出届けも出さず、勝手に出かけてどういうことか!」と平八郎理事長は言い放ち、始末書を栞奈ちゃんに書かせたのだ。
 確かに、旅行とか園で「お出かけ」する時は、「外出届け」を出していたらしいのだけど、ちょっとした―「家族」の用事や関連した外出は、そんなものは出したことはなかったらしい。
 松浦さんも、「外出届けを出してね」とは言ってなかったそうだ。
 ようは、平八郎理事長の気分に触ったのだ。
 それが何なのかは、わからないけれど。
 そんなことが、何回もあって。
「馬鹿馬鹿しくて、やってられないわ」
 栞奈ちゃんは一年耐えた後、そんなことを言って、退職を決めた。
 今は隣の県で、元気に児童養護施設で働いている。
「明里さん、来週の土曜日、お時間ありますか? 私、そちらに研修で行くことになって、久しぶりに、お会いしたいなって思ったんです」
 スマホ越しの栞奈ちゃんの声は、明るくて弾んでいた。どうやら今の職場では、元気に働いている様子だった。
「あ、良いね。でも、私土曜日仕事だよ」
 その様子に安堵しつつ、明里も明るく返事をする。
 栞奈ちゃんは、退職する時は口ではサバサバしていたけれど、元気がなかった。
『明里さんは、辞めないんですか?』
 どこかすがるように言われたことは、今でも忘れることができない。
「じゃあ、明里さんのお仕事が終わった、八時くらいですね。待ち合わせは、いつものファミレスで良いですか?」
「え? 良いの?」
「はい。久々に、明里さんともお話したいです」
 せっかくなら、と言う思いもあるけれど、明里は栞奈ちゃんの言葉に頷くことにした。
 研修は夕方まであるだろうし、明里が住む街までわざわざ移動してくれる時間も考えると、ファミレスの方が気軽で良いのかもしれない。
「じゃあ、そうしよう」
「はい、会えるのを楽しみにしていますね」
 嬉しそうに弾んだ声に、明里も心のテンションが上がるのを感じた。

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