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憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~10 甘いカレーと激辛カレー ①

 甘いカレーと、辛いカレー。
 どちらも、美味しければ問題ないが、ご飯がないのは、大問題。
          ★
「児童養護施設の子ども達を取られた⁉」 
 崩壊は、思ったより速かった。
 明里が正吾さんに内部告発の準備を依頼したその日の夜に、安部さんからスマホに連絡が入ったのだ。 
『平八郎理事長の言葉では、そうね。正確には、「保護」よ。新しい職員は定着しないし、今いる職員は、あらかさまに「専門外」の人もいるじゃない。自相も今が時期と見たのね』
「確か、今日旅行から帰って来たんですよね」
 児童養護施設の子ども達は、そのまま自相に連れて行かれたことになる。
『そこを狙っていたのかもね。旅行のすぐ後なら、「日常」が一度リセットされているから。違う「日常」を入れやすいわ』
 明里に事情を説明してくれる安部さんの声も、疲れ果てている。
『とりあえず、明日は休みだけど、週明けからどうなるのか……』
「来週はお盆に入りますけど、行政は休みになりませんもんね」 
『とにかく、こちらとしても心積もりだけはしとかないとね。余波は、来るわ』
 それは、予想ではなく確信だった。
 明里も、それは否定したくても、できなかった。
「明日は出勤しなくても良いんですか?」
『今日は管理者集めて、急遽「平ちゃん劇場」やっていたけど、自相に対して、怒鳴り散らしただけだしね。結局、何も手がないのよ。ただそうは言っても、「何もしない」ってことはないわ』
「無駄なことはするってことですね」
『そうね。後、真中ちゃん。これは今この電話でだから言えるけど、保ってこの夏まで、と思っていた方が良いわ』
「………安部さん」
『私もこの時期に辞めるのは避けたいとは思っているわ。でも正直うちの学童が、夏が終わるまで持つとも思えない。保護者の方々にも、現状はこの後すぐに伝わるでしょうしね。ただ、今すぐ利用を止めることができる人は良いけど、そうじゃない人もいるからね』
 そう。明里達の学童には、すぐには子ども達を預ける場所を探せない人達もいる。
『でも、だからと言って、自分を犠牲にしてはいけないとも思うの。それは、違うわ』
 安部さんは、きっぱりと明里に言い切った。
「そうですね……」
『この夏の給料は、多分、出ないわよ』
 明里はしんみりとした気持ちになったが、次の言葉で、一気に厳しい現実を突きつけられたような気がした。
「安部さん、それは……」
『憶測でなく、そう思っていた方が良いわ。ボランティアは、自分に余裕があるからこそできるのだし、そうするつもりなら、自分できちんとその「余裕」を作らないとね』
「そうですね」
 明里は、今度は迷いなく頷いた。
 現実的に考えても、無報酬で働くのは、厳しい。
 ため息を吐きながら通話を切ると、
「終わった?姉ちゃん」
 部屋の戸を開けて、美里が台所からそう聞いてきた。
「ごめん、終わったわ」
 と、明里はそう返事をすると、スマホを棚の上に置いているスマホスタンドに置いた。
「じゃあ、夕飯の準備をするけん」
「ありがとう、美里。あ、手伝うわ」
「じゃあ、台拭いてくれる?」
「了解」
 明里は台所に行くと、台拭きを手に取った。
 辺りには、カレーの良い匂いが漂っている。
「今日はカレーなんね」
「出かけることになったけんね。先に作っといたたい。今日の朝。姉ちゃんは寝とった」
「なるほど」
 ちょっと矛先がこちらに来そうだと思った明里は、そそくさと部屋に入って、テーブルを拭いた。
 やはり、美里と一緒に住むのは難しそうだな、と思う。
 今はまだ良いが、明里のこの問題と美里の離婚問題が解決した後は、きちんとこのことについても話し合わないといけないだろう。
「ありがとう、姉ちゃん。サラダも冷蔵庫にあるけん、出してくれん?」「わかった」
 とりあえずは、美里の言う通りに動くことにする。
 明里は冷蔵庫を開けると、小皿に盛りつけしてあるサラダを取り出した。
 クレソンと葉野菜のサラダは、カリカリのオニオンスライスとプチトマトが乗せてある。
「マヨネーズとドレッシングはどっち?」
「カレーがちょっと今回甘めとよ。ついつい、甘口のカレーば買ってしまうけん」
「まあ、子どもがおればそうなるたいね」
 美里の返事に、明里はそう返す。
 サラダをテーブルの上に置いた明里は、冷蔵庫から和風ドレッシングを出した。
「姉ちゃんは、甘かカレーは平気と?」
「まあ、カレーばあんま作らんけんね」
 一人暮らしだと、どうしてもカレーはレトルトや外食の時に食べることになりがちだ。
「あんたが作ってくれるんだけん、食ぶったい。カレーは、たくさん作った方が美味か」
「ありがとう」
 美里は、嬉しそうに微笑んだ。
 美里にとっては、明里にご飯やお弁当を作ることは、あの家族と過ごすことで、ズタズタになった自分の「自尊心」を癒すことになっているのだろう。
 明里が「ありがとう」と言うと、いつも嬉しそうに微笑む。
「で、さっきの電話は何だったと?」
 そして、いつも食べる物よりも甘いカレーを食べながら、美里が聞いてきた。
「うん。児童養護施設の子ども達が、児相の預かりになったらしいのよ」「じそう?」
「あ、児童相談所のこと。職員が新しく来ても続かさっんたい。で、資格のない人ばお手伝いで使っとらしたばってん、多分、バレたったいね」
「児童相談所で働くには、資格がいると?」
「教員か保育士の資格がいるとよ」
 明里は、ため息を吐きながら言った。
「内部告発の準備は、急いでもらった方が良かっじゃ?」
「……やっぱそぎゃん思う?」
「うん。ご飯食べたらメールアドレス教えるけん、送っときなっせ」
「そぎゃんね……」
 ため息を吐きながら、明里は頷いた。
「姉ちゃん、わかっとると思うばってん、自分の身を守るのが一番よ」
「うん、わかっとる」
 美里は念を押すように、明里に言った。
 その言葉に頷き、明里はカレーを口に運んだ。
 やはり、いつもよりは甘い味付けだったけど、「美味しい」と思った。
           ★
 翌々日。
 明里は、朝日を浴びながら駐車場から学童へと向かっていた。
 先週は明里が遅く出勤していたが、今週は早く出勤する番なのだ。
 何せ、学童を開けている時間が長い。
 現在の時刻は七時半。
 八時からの受け入れ開始、閉めるのは夜の八時。
 十二時間、開店営業中状態である。
「おはようございます」
 明里がそう言いながら、児童養護施設の玄関に入ると、事務所には阿曽島さんがパソコンの前に座って事務作業をしていた。
「おはようございます」
 入って来た明里に対して、そう言ってにこやかに頭を下げる。
「おはようごさいます」
 明里もそれに対して、もう一度頭を下げた。
 ピッと、出勤用のカードを機械にかざしている時も、阿曽島さんはいつもと変わりない。
 もちろん、それは気のせいかもしれない。 
 もしかしたら、明里が児童養護施設の子ども達がいなくなったことを、まだ知らないと思っているのかもしれない。
 ただ。
 そうは言っても。
 明里は児童養護施設の職員ではない。
 学童の職員で、これから子ども達を受け入れて、夏休みの一日を無事に過ごすことが仕事なのだ。
 明里は自分にそう心の中で言い聞かせながら、事務所から取ってきた鍵を片手に学童の建物に向かった。
 出入口の鍵穴に鍵を刺し、出入口を開ける。
 とたんに夏特有の湿った熱気が、ねっとりと部屋から漂ってきた。
「あつっ」
 流れ落ちてくる汗を手で拭いながら、明里は部屋の中に入り、窓をバタバタと手早く開けた。
 それから持っていた荷物をカウンターのスペースに置くと、明里はそのまま二階へと上がった。
 そして、手早く窓を開けた。
 とにもかくにも、この熱気は子ども達が来る前に解消しなければならない。
 そのまま、明里は階段沿いにあるクローゼットを開けて、彗を出すと、それを片手に下に降りた。
 ちなみに鍵は、書類等を入れているレターラックに入れている。
 帰る前に掃除はしているが、それでも手短な掃除は欠かせない。
 夏は、どこからか入って来るのか、虫の死骸も部屋に堕ちている。
 これを女子が見たら、大騒ぎなのだ。
 手早く一階の部分を掃くと、今度は彗を片手に二階へと行く。
 子ども達がメインに使うのは一階なので、優先する場所は、一階なのだ。
 ただし。
 二階の掃除は、完全にできるわけではない。
「おはようございます」
 受け入れは朝の八時からになっているが、それより早く来る人は、必ずいる。
「おはようございます」
 明里は、箒を片手に下に降りた。
 今日一番に来たのは、望海だった。
 母親の仕事は看護師で、早番と遅番があるらしく、早番の時は七時四十五分過ぎには来ている。
「おはよう」
 ぶっきらぼうに明里に挨拶する望海は、靴を脱いで靴箱に入れてロッカーの方に行った。
「真中先生、おはようございます」
 望海の母が、苦笑して挨拶をしてきた。
「おはようございます。変わりないですか?」
「ええ。ただ……」
 望海の母はちらっと、ロッカーの方を見ると、明里を手招きした。
 怪訝に思いながらも、望海の母に近寄る。
「児童養護施設の子ども達がいなくなったって本当ですか?」
 耳元に囁かれた言葉に、もう保護者に広がっているのか、と明里は思った。
 児童養護施設の子ども達が自相に保護されたのは、土曜日で望海は来ていない。
 しかし、望海の母はその事実を知っているのだ。
 侮りがたし、ママ友ネットワークである。
 とりあえず、明里は首を振った。
 土曜日は休みだった明里には、詳しいことは知りようがない。
「すいません、わかりません」
「そうですか。すいません、変なことを聞きました」
 望海の母はペコリと頭を下げると、ではお願いします、と言って外へと出て行った。
「知らないって嘘でしょ」
 やれやれと思ってそれを見送っていた明里に、望海が声をかけてくる。「本当に、知らないのよ」
 嘘ではない。
 明里は、詳しいことはまったく知らないのだ。
「ガチの情報よ。菜穂子から聞いたもの」
 なるほど、と思った。
 そういえば、望海の家と菜穂子の家の住所は番地が近かった。
「菜穂子『ちゃん』、でしょ」
 とりあえず、呼び捨てはするな、といつも言っているので、そこを訂正する。
「話しを逸らさないで」
「望海さんは、ここがもしなくなったらどうしたいの?」
 真っ直ぐに自分を見てくる望海に、明里は誤魔化せないな、と思った。「ここ以外の学童に行く気はないわ。どうせ、今更だもの」
「まあ、確かにそうね」
 明里は、望海の言葉に頷いた。
「でも、お母さんは、それは避けたいのね」
「そうよ。私のことを信用していないの」
「じゃあ、とりあえず、お母さんが残り半年、学童に預けなくても大丈夫、と思ってくれるようにしてごらん」
 明里の言葉に、望海はきょとんとした表情になった。
「ごめん、本当に私も詳しいことは知らないの。『大丈夫よ』って言ってあげたいけど、それはできない。ただ、その時の状況で自分ができるベストな行動はしたい、と思っているけどね」
 望海の母にとって、この学童がなくなることは一番避けたい事態だろう。
 それは、明里も同じだ。
 避けられるものであれば、そうであって欲しい。
 でもそのために、自分を「犠牲」にすることはできない。
 その後にも、明里の人生は続いて行くのだ。
「どのみち、中学生になったら一人で留守番することになるんだから、無駄にはならないと思うわよ」
「それは、私の言って欲しい言葉じゃない」
 明里の言葉に、ふいっと部屋の奥の方に行ってしまった。
 その後ろ姿を見て、明里は小さくため息を吐いた。
 望海自身は、ずっと「学童を辞めたい」と思っていたはずだ。
 その不満を母の前で出すわけには行かなくて、明里達に本音を出すことで解消していたふしもある。
 けれど。
 それは、ずっとこの学童が「ある」と思っていたから、なのかもしれなかった。
 子どもは、自分の周りにあるものたちは、「ずっとある」とどこかで信じている。
 家族や、友達や、学校や。そう言った、ものたちは。
 永遠では、ないのだ。
 それは、この学童だって例外ではない。
 望海や歩武が「狭い」と思うようになったことと、同じように。
 「変わっていく」ものなのだ。
 できるだけ長く、この「学童(ばしょ)」を守りたいと思うのは、嘘ではない。
 けれど、明里達の力だけでは、どうにもならないことがあることも事実だった。 
 それからは、いつもの怒涛の朝の風景だった。
 次々に子ども達が来て、明里は谷さんが来るまでそれを一人で対応した。
 何か言いたげな保護者もいたが、忙殺している明里達には言い出しにくい様子で、そのまま仕事に向かって行った。
 十時になると、安部さんが出勤して来て、本格的に子どもの動きは活発になる。
 安部さんとしても、状況は気にはなるが、子ども達が四方八方にいる状況では、聞きたくても聞けないのが本音だろう。
 それは、九時から来ている谷さんも同じだ。
 けれど、不気味なくらい何の連絡もなく、一日は過ぎて行った。
 そう。
 おやつが用意されないこと以外は。
「まあ、念のため用意していたから、その点は大丈夫だけど……」
 やれやれと、安部さんは嘆息する。
「連絡は取った?」
 谷さんは子ども達がDVDを見ているのを確認しながら、安部さんに聞いている。
 それに対して、安部さんは肩をすくめた。
 その表情は、「取りたいけど、取れる状況じゃないでしょ?」と言っている。
 子ども達も聞き耳を立てていることは知っているので、安部さんも必要なこと以外は喋らないようにしているのだ。その様子に、谷さんも頷く。
 明里は、子ども達と一緒にDVDを見つつも、カウンターのスペースで、二人がそんな話をしているのを見ていた。と、その時だった。
「谷さん、まだいるかな?」
 学童の戸を開けて、南さんが入って来た。
「あれ? 南ちゃん」
 久々に、南さんが学童に来たのだ。
「ちょっと、手早く行くわ。谷さん、安部さん、理事長が呼んでいるわ」
 その言葉に、安部さんと谷さんは顔を見合わせた。
「何で?」
 谷さんは南さんにそう聞き返したが、
「わからないわ、本当に。ただ私も言われたのよ、『二人を呼んで来いって』。あなた達が帰ってくるまでは、私がここにいるから」
 そう言って、南さんは頭を振った。
 後から思えば。
 これは、平八郎理事長の、嫌がらせではあった。
 明里達が信頼している南さんを伝言係にすることで、「お前達が信頼しているこの女は、俺の言うことをすぐきくんだぞ」と示そうとし、わざと明里だけ呼ばないことで、「お前は俺に信頼されていないんだぞ」と言いたかったみたいだった。
 ただ。
 この時の明里達全員が思ったことは、「いったい、どんな無茶を言い出す気なんだ!」だった。言葉にしないだけで。
 安部さんはもちろん、谷さん南さんも、児童養護施設はもとより、この学童がもう持たないであろうことは、わかっていた。
「これからどうなるのか」ということだけに意識が向いていて、平八郎理事長の悪意に気付かなかったのだ。
「まあ、ぐずぐずしていてもしょうがないから、谷さん行きましょうか」
 けれど、最初に切り替えてそう言いだしたのは安部さんだった。
 南さんは何となく平八郎理事長の悪意に気付いていたみたいだけど、安部さんと谷さんが「じゃあ行ってくる」と言って部屋を出て行って、子ども達から「南ちゃん、久しぶり!」と声をかけられて、その相手をしているうちに、そんなことも気にする余裕もなくなったらしい。
 実際、南さんは最近の利用している保護者の顔はわからないから、保護者が迎えに来た時の対応は明里がするしかない。
 迎えの対応は明里が、子ども達の相手は南さんがしているうちに、時間はあっと言う間に過ぎた。
 六時近くになると、子ども達の数も減ってやれやれと明里が辺りを見回すと、DVDも見飽きた子ども達が、積み木を引っ張り出してドミノ倒しをやり始めていた。
 そうして、ふと、南さんと望海、歩武がいないことに気付く。
 外に出た様子はなかったから、おそらく二階にいるのだろう。
 あの二人にとっては、南さんは低学年の時にお世話になった職員だ。
 久々に一緒の時間が取れたのだ。
 少しでも濃厚な時間を過ごしたい、と思うのは無理なかった。
 もしかしたら、望海は南さんに今日明里にした話をしているのかもしれない。明里と共に過ごした三年間があるように。望海には、南さんと一緒に過ごした時間もある。
 南さんがどこまでこの学童のー会社の実態を把握しているのかはわからないが、まあ悪いことではないかな、と思い明里は特に声をかけないことにした。
 うん、と一人で頷いていると、ガチャガチャガチャと音を立てて、積み木が倒れる音がした。
「上手くいかないよっ」
 ドミノをしていた男の子の一人が叫んだ。
「真中ちゃん、手伝って」
 一緒にしていた壮馬が明里に言う。
「あ、はいはい」
 明里がそう返事をするのと、学童の戸がガラッと開くのは同時だった。「真中はいるか!」
 そして、平八郎理事長の野太い声が響く。
「お疲れ様です」
 それに対して、明里はいつも通りの挨拶を返した。
 とりあえず、返事代わりのつもりだったのだ。
 平八郎理事長は一緒黙った。
 どうやら、虚を突かれたらしい。
「お前、この紙に名前を書いて、印鑑を押せ」
 だが気を取り直したように、明里にそう言いながら紙を差し出した。
 それは、白紙の紙だった。
 だけど、明里の名前と印鑑を押す欄はある。
 明里は、平八郎理事長を見た。
「お前達は、勝手に子ども達におやつを出しただろう! それに対して、きちんと詫びを書いて、証明しろ」
 いつの間にか、八重子さんと安部さん、谷さんも入口にいた。
 階段の方には南さんがいて、上を見て首を振っている。
 おそらく、その視線の先には望海達がいるのだろう。
「真中ちゃん、まだ⁉」
 そうして、見事に場の空気が読めてない、壮馬の声。
 多分。
 今、この瞬間が美里の言っていた「思ってもいない時」なのだろう。
 何も書いていない書類に、氏名と印鑑を記入させるなど、犯罪以外何物でもない。
 それを、この人は当然のように要求してくるのだ。
「すいません、その話なら、代理人を立てますから、その方と話して貰えますか?」
 気が付くと、明里はそう言っていた。
            ★★★
 その瞬間。
 平八郎は、耳を疑った。
 アラサーの。
 年増の女は、自分に向かってそう言ったのだ。
 臨時の講師崩れで、未婚。
 社会の底辺で生きているくせに、それを拾ってやった自分に対して、「代理人を立てるから、その人と話してください」と言い放ったのだ。
 その後のことは、よく覚えていない。
 ただ気が付くと、自宅にいて。
 児童養護施設の卒園生でもある事務長からの連絡を受けていた。
『どうしましょう、おやっさん』
 その言葉に。
 自分は、苛立ちを感じた。
 どうしましょうとは、どういうことなのか。
『真中さんの代理人と言う弁護士から、電話が入っています』
「俺はいないって言え」
『市への申し開きはどうするんですか⁉』
「お前が何とかしろ」
『無茶ですよ、おやっさん‼』
 事務長は、悲壮な声で言った。
 だが、それを無視して電話を切る。
 そして、後ろからは、母の泣き声が聞こえた。
「もう、うちはお終いよ……!」
 児童養護施設の子ども達を取られてから。
 母は、ずっとこうだった。
 自分の顔を見ては泣き、児童養護施設の建物を見ては泣き、とにかくずっと泣いている。
「奈央子(なおこ)と健也(けんや)が生きていてくれたら、こんなことにならなかったのに」
 そうして。
 死んで生まれた兄と姉の名を呼ぶのだ。
 姉に援助を頼んだが、けんもほろろの対応をされたらしい。
 母は自分の幼い頃から、気に入らないことがあると、死んだ兄姉の名を出して、泣いていた。
 それは、自分にとって、呪縛のようだった。
 幼い頃から。
 自分は、姉や妹と比べると明らかに劣っていた。
 勉強でも、運動でも。周囲は、自分を「お姉ちゃんや妹はできるのに」という目で見ていた。
 父でさえそうだった。
 そんな中、母だけは違った。
「お前はできる子なのにね」と言って、慰めてくれた。
 自分にそう言ってくれるのは、母だけだった。
 母以外の人間は、「そんなことないですよ」と言ってくれたとしても、やがて自分から去って行った。
 特に、女はその傾向が強かった。
 最初こそは親しく口を聞いてくれるが、やがては自分から離れて行く。
 そう……母だけが、自分を認めてくれている。
 その母を失えば、自分はどうなってしまうのか。
「母さん」
 不意に。
 妹が、母に話しかけて来た。
「もう寝ましょう。体が持たないわ」
「お前、説得はどうしたんだ!『ここは私に任せて』と言ったのは、お前だろう!」
 叫ぶ自分を、妹は冷めたような目で見た。
「兄さん、私は手を引かせて貰うわ」
 そうして。
 衝撃的なことを、自分に告げた。
「もちろん、在籍した子ども達の引継ぎはきちんとやります。その後私は東京に戻ります」
「お前まで私達を見捨てるの⁉」
 その言葉を聞いて、母は金切り声で叫んだ。
 それは、自分の思いと同じだった。
 妹まで、自分を見捨てるのか、と。
「お前が持っている財産(もの)を出せば、ここは持ち直すんじゃないの⁉」「もう、その時期は過ぎたわ、母さん」
 発狂しそうになる母に、妹は冷静に告げた。
「私が一生懸命守って来たのよ、あの養護施設を。あそこは、私が一生をかけて……!」
「そうね。母さんが、自分の恋を犠牲にしてまで守って来た場所。それはね、わかっているの。でも、それはもう維持できないの。一度、終わらせないといけないのよ」
「お前、そんな勝手にっ」
 たまらず、自分はそう叫んだ。
「でもね、母さんが守って来たあの場所のおかげで、たくさんの子ども達が救われた。それは、嘘じゃないから。決して、母さんがやってきたことは無駄じゃないから」
 だが、妹は自分を無視して、そう言葉を続けた。
 母は、嗚咽を上げる。
「待て……康子。俺は……俺は、どうなる」
「それは、知らないわ。自分で考えて。母さんは、姉さんと私でどうにかするから」
 そうして。
 妹は母を抱え上げるように立たせると、母の部屋へと向かっていった。
 残された自分は、茫然となった。
 母の視界には、自分はいなかった。
 自分とて。
 あの児童養護施設のために、そしてその後に設立した自分の会社のために、精一杯やってきた。
 「良いな」と思ったことは積極的に取り入れて、会社の発展にも貢献してきたはずなのに。
 何故。
 自分は、こんな目に合うのか。
 誰か、と。
 そう、思った。
 誰か助けてくれ、と。
 伸ばした手を、誰か握り返してくれ、と。
 誰か。自分を、「凄い」と言ってくれ。
「あなたは、凄い人なんですね」と褒め称えてくれ。
 自分を認めて、受け入れてくれ。
 母のように。
 母が、してくれたように。
          ★★★
 平八郎理事長が、児童買春の容疑で逮捕された、という知らせを明里が聞いたのは、次の日の朝だった。
「え?」
 そのことを阿曽島さんから知らされた時、最初何を言われたかわからなかった。
「まだ、どうなるかはわからないんですが、学童の職員にも伝えるようにと、康子さんから言われているんです」
「そう……ですか……」
 明里としては、他にどう言えば良いのかわからなかった。
 はっきりしているのは、これまで通り、この学童で働くのは、もう無理だってことだ。そんな明里に、阿曽島さんは微笑みながら言った。
「大丈夫ですよ、すぐに会社はなくなったりはしません。ただ、見切り時は誤っちゃいけませんよ」
 その言葉を聞いて。
 明里は、阿曽島さんは阿曽島さんなりの目論見があって、ここで働いていたのだと気付いた。
 けれど、その目論見は、違えてしまっていて。
 彼女はもう、ここを去ることを決めているのだ。
 実際。
 明里が阿曽島さんを見たのは、これが最後だった。
 ただ、そうは言っても。
 会社が潰れようがどうしようが、子ども達は学童に来る。
 今この瞬間に明里ができることは、事務室にある鍵で学童を開けて、子ども達を迎える準備をすることだ。
 それに、これは明里にとっては思っていたよりはマシな状況だった。
 昨日。
 明里が「弁護士を通してください」と平八郎理事長に言った後、彼は怒りで顔を真っ赤にして、明里の襟首を掴もうとした。 
『止めて、兄さん』
 それを、康子さんの冷静な声が止めた。
『彼女は、児童部門の職員よ。私の管轄にある職員だわ』
 そのビシリッとした口調に、平八郎理事長は真っ赤な顔をしたまま入口から出て行った。
『ごめんなさいね、真中さん。安部さんも少し時間が取れるかしら』
『すいません、さっきのお話と同じでしたら、弁護士経由でお願いします』
 しかし明里としては、子どもの前でその話をするつもりはなかった。とりあえずは、壮馬達の相手をして、二階で聞き耳を立てているであろう望海と歩武に、要らぬ情報を与えたくなかった。
『わかりました。また、出直します』
 そう言って、康子さんはため息を吐いて、学童を出て行った。
『真中ちゃん、遅い!』
 切れ気味の壮馬には、どうも康子さんや平八郎理事長が見えていなかったらしい。
『大人の話をしていたの。そういう時は、黙って待っていなさい』
 明里は、そう壮馬に声をかけた。
 それを見て、安部さんと谷さんは顔を見合わせて、ふーとため息を吐いた。
『とりあえず、私は帰るわ』
 疲れたような表情で、谷さんは言った。
 まあ、明里としても。
 自分が真正面からケンカを売っていることはわかっていた。
 だから、壮馬達が自分達でドミノ倒しをしたころ合いを見て、トイレから以前から用意していた文面と、『おやつを勝手に出したことに対して、詫び状と名前の記入、捺印を求められました』と付け加えて、正吾さんにメールを送った。
 すぐに、『わかりました。連絡をこちらから入れます』と正吾さんから返事が来て、明里としても、もう引き返せないな、と思った。
 そうして。
 南さんも帰って、望海達も帰った後。
 安部さんが少し語ってくれたことには、要するに、明里に言ったようなことを、安部さんと谷さんにも言ったらしい。
 何も書かれていない紙を差し出されて、そこに名前を書いて印鑑を押せ、と言われたのだ。
 安部さんが、どうしてなのかと平八郎理事長に聞くと、『お前達が勝手におやつを出していたことは知っている。
 そのことに関する書類を作成するから、お前達はここに名前を書いて、印鑑を押せ』そう、平八郎理事長は答えたらしい。
 安部さんは咄嗟の判断で、『それならば、学童に戻って、真中さんにも同じように説明して欲しい。印鑑は学童にある』と言うように応えて、時間を稼ぐつもりだった、とも言っていた。
 なるほどね、と明里が床を彗で掃きながらため息を吐いた時。
『こんばんは。今お時間取れる?』
 康子さんが学童に入って来た。
『お話しがあるの。よろしいかしら』
 口調は穏やかだが、『話をするから聞け』ということだ。
 明里は、康子さんを見た。

 安部さんもカウンターの所から、康子さんを見つめている。

『正直に言って、うちの資金ぶりは良くないの。今回、児童養護施設がこんなことになって、補助金も打ち切られそうでね……。どうにかして、お金を集めたいのよ。今回のことを受けて、学童の存続も危ぶまれているの。あなた達が協力してくれれば、少しは改善されるかもしれないから』

 真っ直ぐに明里を見つめながら、康子さんは言った。明里も視線を逸らさず、康子さんを見つめた。

『お願いだから、協力してくれないかしら』

 真摯な声で、康子さんは言った。内容だけなら、心動かされることもあるのかもしれない。だが明里が思ったのは、(あんたら自宅あるかな。って言うか、人にどんな罪状着せる気かいっ)だった。だが、しかし。明里は正吾さんに、必要以上のことは、何も言うな!とメールで釘を刺されていた。「言った」「言わない」は証拠がないと白黒付かないし、そもそも一番揉めるのがそこなのだ。だから。

『すいません、弁護士から本日連絡が入りますので、そちらで話してください』

 と、明里は本当に普通の業務連絡のように、康子さんに言った。途端に、康子さんの顔が見る見るうちに真っ赤になった。

『ちょっと、めいちゃんっ。この人に何か言ってよ!』

 そうして、安部さんにそう言った。安部さんは、真っ直ぐに康子さんを見た。

『私には、何も言えないわ。本人がそう言っている以上、私にはどうすることもできない』
『何で⁉ あなたは、私の友達でしょっっっ』
『そうね。でも、友達だからと言って、あなたの命令を聞く義理はないし、たとえこの会社の従業員と雇い主という関係であっても、あなたの命令を拒否する権利は、私にも真中さんにもあるわ』
 安部さんは、とても冷たい声でそう言った。
 その言葉を聞いて。康子さんは、信じられないような表情で安部さんを見た。
 それは、明里も同じだった。
 明里も、こんな冷たい表情の安部さんを見たことがなかったのだ。
 康子さんは安部さんの冷たい声を聞いて、だっと学童の外に飛び出して行った。その後ろ姿を、安部さんは冷たい目線で見ていた。
『……あの人は、本当に変わらないわね』
 でも、呟かれた言葉はどこか寂しげで。
 安部さんには、何かしらの「思い」があることは、明里にも見ていてわかった。
『真中ちゃんは、明日も来る?』
『そうしたくて、あんな言い方をしたんです』
 尋ねて来た安部さんに、明里は答えた。
『真中ちゃん、やっぱり肝が据わっているわ』
 そんなことを話して、昨日は帰った。
 そして。
 今日、明里は「帰れ」と言われるかもしれないな、と思いながらも学童に来たのだ。
 だが、思ってもいないことが起きていて。
 明里は、とりあえず子ども達を迎える準備をしながら、安部さんと谷さん、そして正吾さんにメールを送った。
 すぐに反応があったのは、安部さんだった。
『わかったわ。すぐに出勤します』
 即でそんなメッセージが帰って来た。
 正吾さんからは、『市役所への通報はどうしますか?』と帰って来たが、『お願いします』と明里は返事をした。
 その点については、前からセットでと決めていた。
 どのみち、早かれ遅かれ明里はここを去る。
 だったら、平八郎理事長が逮捕されようがどうしようが、身を守るために、そして状況が少しでも改善する可能性があるようにしておきたかった。「おはよう」
 八時近くになっても子ども達は来ず、先に安部さんが来た。
「安部さん、速かったですね!」
「まあ、うち近くじゃない。それに、急いで来たしね」
 安部さんは流れる汗を拭いながら言った。
「子ども達は、まだ来ていないのね」
「あ、はい。そろそろ来る時刻ではあるんですけど」
「平八郎理事長のことを、保護者の方がどこまで知っているか、によるかもね」
「ニュースに流れているんでしょうか?」
「場合よってはね。夜に逮捕されたなら、朝のニュースで流れている可能性はあるわ」
 児童売春の容疑で逮捕される男が経営する学童に、嫌悪感を持つのは親であれば当然だ。
「今は知らなくても、夕方には知っている方も増えるとは思います」
 そんな保護者に対して、自分はどう接していかなければならないのか。
「誠実にお詫びして、できるだけのことはやるしかないわね」
 そんな明里の思いを読み取ったように、安部さんが言った。 
「私達は、この学童の職員よ。保護者の人達にとっては、理事長と同じ立場側の人間だわ。自分達は関係ない、とはできないでしょう」 
「安部さん……」
「できることはしましょう。もちろん、今日は自分からは説明しなくても良いからね」
 しかし、後半の言葉には、え?となった。
「まあ、藪を突いて蛇を出す必要はないでしょ。聞かれたら、答えるようにした方が良いわ。確かな情報は、私達にもまだわからないから。不確かな情報は、提供できないしね」
「平八郎理事長も、何でよりにもよって、児童買春なんか……」

「運が悪かったのかもしれないわね。児童買春と言っても、法律的には『十八歳未満の子』だからね。たまたま、未成年の子が相手になったのかもしれないし。……何とも言えないわ」
 ただ。
 望海の件を考えると、ざわつくものは感じる。
「でも、それを考えるのは私達の仕事じゃないわ」
 安部さんの返答は、現実的なものだった。
「これから、どうなるんでしょうか」
「まあ……どうなるにしても、康子さんが出てくることはもうないと思うわ。あの人、面倒なことは全部人に丸投げする人だから」
 そして、ブラックも全開だった。
 けれど、安部さんのこの言葉は残念なことに正解だった。
 その後、この学童を含めた社会福祉法人全体の後始末をしたのは、代理人となった弁護士さんだった。
 それを明里達が知るのは、もう少し後のことだ。
 この時点では、「平八郎理事長が逮捕された」という以外の情報は、全く入っていなかった。
 保護者の人達も知らない人が多いようで、朝の八時を過ぎた時点で、子ども達はいつも通り来始めた。
 明里達もいつものように対応しながら、とりあえず、保護者の人達もまだ知らないのかもしれないと、淡い期待を抱き始めていた。たが、しかし。
 世の中、そうは問屋が降ろさないもので。
「理事が逮捕されたって本当ですか⁉」 
 子ども達の来所ピーク時に、歩武の母親が、そう言い放ってくださった。
 いつもは足早にこの学童を出て行くのに、何故この子ども達は次々に来る、保護者の方は少しでも時間が惜しいこの状況で、それを聞くかな⁉と、明里は言いたかった。
 せめて聞くにしても、昨日の望海の母のように、こっそりと聞いて欲しかった。ふと視線を感じて振り向くと、歩武が苦い表情をしている。
 しかし、「こちらへ」と案内して話をするにしても、今も「何だろう」という表情をした保護者が、後ろに群がっている。
「それは、本当です」
 カウンターのスペースにいて、子どもを出迎えていた安部さんは、歩武の母親に頷いた。
「ただ、私達もそれ以上のことはわからないんです。その事実ですら、私達が知ったのは今日の朝なんです」
「そんな無責任なこと言わないでください」
「じゃあ、学童は閉所するってことですか⁉」
 歩武の母親は安部さんの返事に叫んだが、別の保護者の母親が、その叫び声に被せるように言った。
 歩武の母の思惑はわからないが、他の保護者が知りたいことはそれだろう。
「今の時点では、何とも言えません。私達も最悪夏休みまでは、と思っていますが、それすらもお約束できないんです」
 そこで、安部さんは言葉を切った。
「なので、他の事業所に移ることもご検討くださるのも、全然かまいません」
「そちらから、他の事業所や行政に何らかの働きかけはしてくださらないんですか?」
「今の時点では、それもお約束できません」
 歩武の母親の後ろにいた、別の保護者の問いかけにも、安部さんは頷いた。
「この学童が、そしてこの社会福祉法人がどうなるのか、私達にもわからないんです」
 そんな中、下手な約束はできない、と。
 ある意味安部さんの態度は「誠実」と言えるものではあった。
「……わかりました」
 何時の間にか、望海の母親が入口にいた。
「私達親子は、この学童に六年間お世話になりました。子どもは文句を言いながらも、ここで楽しく過ごさせて貰っています。そのことを無駄にしないためにも、どうか紙切れ一枚で知らせて終わり、ということだけは止めてください」
 最古参の保護者の意見に、他の保護者は何も言わなかった。
「わかりました、それだけはお約束できます」
 その望海の母の言葉に、安部さんは頷いた。
「じゃあ、皆さん行きましょう。仕事に送れますよ」
 望海の母は、歩武の母に言った。
「有本さん、でも‼」
「詳しいお話をしたければ、帰りの時にしましょう。今は、ご迷惑ですよ」
 最古参の保護者に言われ、歩武の母は唇を噛み締めた。そうして、何も言わず学童を出て行く。明里はふうっとため息を吐きそうになるのを、必死で堪えた。
 今、この学童には歩武がいる。
 ここで明里が―学童の職員までのため息を吐いたら、歩武は本当に救われなくなる。
 少なくとも。
 学童の職員は、「何でもないよ」という風にしなければ、他の子ども達にも影響が出る。
 「大人」の事情に、「子ども」を巻き込んではいけない。
 いつだって、巻き込まれた子どもは、好きでそうなったわけではないのだ。

「真中ちゃん、ちょっとええ?」
 そんなことを明里が考えながら、「宿題するよ」と子ども達に声掛けしていると、歩武がそう声をかけてきた。
「うん、わからないとこあった?」
「いや……」
 明里がそう言いながら歩武の方に近づくと、宿題道具を一セット胸に抱えた歩武は、視線をちらっと階段の方に向けた。
 どうやら、二階で話したいことがあるらしい。
 それに気づいた安部さんも、こくんと、カウンター席から頷いている。
 それに頷き返すと、明里は歩武に手招きをして階段を登って二階に上がった。
 その後を歩武と、そして何故か望海まで付いてきた。
「望海さん、何でいるの?」
「いいじゃない、別に。私は二階で宿題がしたいの。下はうるさいんだもん」
 ある程度人数が増えれば二階で宿題をするのも許可しているが、職員付きが条件で、今はその時間帯ではない。どうしようかな、と思ったが、
「いいよ、真中ちゃん。のんちゃんはいても、別に。昨日南ちゃんに相談した時も、一緒にいたし」
 と歩武が言うので、明里は構わないことにした。
 つまるところ、望海は歩武を心配して付いて来ているのだ。
「ごめん、真中ちゃん」
 そして、机を挟んで座るなり歩武が言った。
「何謝っているのよ」
 それを見て、明里は笑いながら言った。
「いや。母ちゃんがあんなこと言ったの、俺のせいなんだ。どうもあそこの家から子どもがいなくなったって聞いてから、俺に『学童辞めろ、塾に行け‼』ってうるせーの。だから昨日母ちゃんに言ったんだよ。『絶対辞めない、辞めさせられても塾には行かない』って」
 歩武がそう言うのを、望海は隣の席で宿題のノートをしながら聞いている。
 だが、話はしっかりと聞いていることは、一目瞭然だ。 
 歩武が言った「あそこの家」とは、児童養護施設のことだ。
 児童養護施設施設の子ども達が自相に保護されたのが土曜日、開けて月曜日に、平八郎理事長が児童売春容疑で逮捕されている。
 明里が母親でも、辞めさせたくなる状況ではあるのだ。
「歩武君は、ここ辞めたくないの?」
 明里は母親のことは触れずに、そう尋ねた。
「ずっと、『学童に行け』って言っていたのに、いきなり『止めて塾行け!』だぜ⁉ 勝手も良いとこじゃん!」
 歩武の母親としては。
 手のかかる子どもを野放しにはできない、と言う思いがあるのだろう。
 それほどまでに、歩武が低学年の時に起こしてしまった騒動は、彼女に深いダメージを与えてしまったのだ。 けれど、それとは別に考えなきゃいけないことはある。
「でも、歩武君。ここにいても正直、面白くないでしょ」
 明里は、歩武にそう尋ねた。
「真中ちゃん」
「もし、この学童が無事にこのまま続いたとしてね。歩武君、後一年半、この学童に通いたい? 後一年は望海さんもいないんだよ」
 最年長の者として。自分の他は、全て年下の子達だ。
 おそらく、望海は歩武がいるから耐えられている部分があるのだ。
 二人がまだ低学年だった時は、他にも同学年の子達はいた。
 だけど、その子達は大抵高学年になっていったら退所して行った。
 理由は様々で、母親の仕事が変わって家に帰る時間が早くなったとか、塾に行くことになったとか、一人で留守番ができるようになったとか、だった。
 でも、本当の一番の理由は「この学童がつまらなくなった」からだ。
 明里達職員がどれだけ楽しく遊べるようにと心を砕いても、それは、子どもが「生き物」である以上、避けては通れないものだ。
「正直、この学童がどうなるのか、私にもわからない。ただね、それとは別に、良い機会だな、とは思うの。この学童を離れて、違う場所に行くのは、悪いことではないわ」
 明里の言葉に、歩武も望海も、呆気に取られた表情になった。
「それは……俺に塾に行けってこと?」
「考えようによっては、チャンスかもしれないわよ。歩武君だって、友達と遊んだり出かけたりしたいでしょ?塾に行って、勉強をきちんと頑張れば、お母さんも『もう、大丈夫だ』って思ってくれるかもしれない」
「南ちゃんは、嫌なら嫌ってきちんと伝えろって言ったんたけど……」
「うん、それでも良いんだよ。ただチャンスはチャンスかなっても思うの。塾に行けば、違う学校の友達もできるだろうしね」
 明里は、歩武の言葉に頷きながらも言葉を続けた。
「俺は、真中ちゃんは止めてくれると思っていた」
「そうね。私もそう思っていた」
 歩武の隣に座った望海は、ノートから顔を上げながら言った。
「どのみちあなた達は中学生になったら、退所するでしょう?それが少し早くなったって考えることもできるかなっては思ったんだ」
 不満気な二人に、明里は微笑みながら言った。
「服は、小さくなったら大きい物と取り換えるでしょ? 場所もそうかなって、思うの。今のあなた達に、この学童は正直狭すぎる。でもそれは、決して悪いことじゃない。だって、成長したってことだからね」
「そして次の場所は、俺は塾だってこと?」
「それは、歩武君が決めて良いと私は思うよ。ただ、歩武君のお母さんは、歩武君のことが心配なんだよ。『もうこの子は大丈夫』って思えるようになるには、まだ少し時間が必要なのかもしれない。それに、行きたい塾を歩武君が選んでもいいんだよ。今は、たくさん塾があるからね。理科の実験をしてくれるところもあるし、ブロックで動物とか建物を作る塾だってあるんだよ」
「え、そうなんだ……」
「歩武君、ブロック好きでしょ? だったら、そういう塾を選ぶのだってありだよ。もちろん、ここに残る選択もありだけど、自分が『どうしたいのか』ということを、ゆっくり考える良い機会にはなるし、お母さんとも話し合えば良いチャンスでもあると思うよ」
 最後の方は、歩武だけではなく、望海にも向けた言葉だった。
 明里の言葉に、歩武も、そして望海も考え込んだ。望海はその姿を見て、何か言おうとしていたが、
「真中ちゃん、私達もここで勉強して良い?」
 勉強道具を持って二階に上がって来た中学年の子達が、明里にそう声をかけてきた。
「歩武君、良いかな?」
 明里が歩武に尋ねると、顔を上げた歩武は、不安げな顔をしていた。 
「真中ちゃんは俺のこと、嫌いにならない?」
「何で嫌うのよ。どこに行こうと、何をしようと、歩武君は歩武君じゃん。安部さんも、谷さんも、南さんも、本山(もとやま)先生も、みんな同じだと思うよ」
 明里は、もう今は退職していない、職員の名前も出した。
「……真中ちゃんは、何で結婚できんの?」
 だが、しかし。次に歩武から返って来た言葉は、思ってもないものだった。
「余計なお世話じゃ‼」
 その言葉に。
 明里は素で言い返すのだった。

        ★

「真中ちゃんの朝の叫び声を聞いて、ああやっぱり、何かの間違いかなって思った。あまりにも、いつも通りすぎて」
 そう言いながら、谷さんが笑った。本日朝の九時から来た谷さんは、朝の騒動を知らないから、明里の叫び声を聞いて、「何か、いつも通りだな」と思ったらしい。
「まあ、そうね。確かに、いつも通りだわ」
 谷さんの言葉を聞いて、安部さんもそう言って笑う。
 実際、今日の一日は「いつも通り」だった。
 おやつに「取りに来てください」と厨房から連絡がないこと以外は。
「でも、こんな時刻まで三人揃っているってこともなかったしね」
 そう。
 今は夜の七時半である。
 夏休みはいつも夕方五時に帰っていて、通常日でも夕方の六時に帰っている谷さんが、こんな時刻まで残ることは、ほとんどない。
「まあ……子どもの前で、これからの事なんて話せませんしね」
「そうね」
 谷さんの隣に座った明里の言葉に、向かい側に座る安部さんが頷く。

「事務所の方では、何て言っているの?」
 安部さんが、そう谷さんに尋ねる。
「鷹ちゃんは、『康子さんと連絡が取れない』って頭抱えていた。電話にも出ないみたい」
「お家にもいらっしゃらないみたいです」
 明里は、平八郎理事長の家がある方を見ながら言った。実際、今日人気(ひとけ)は感じなかった。
「平ちゃんが逮捕されたんだから、康子さんが理事の代理みたいになるんじゃない?」
「多分、それはないと思うわ」
 谷さんの予想に、安部さんは首を振った。
「あの人は、都合の悪いことが起こると、トンズラするから。昔からそう。上手く行っている時は全面に出てくるけど、上手く行かなくなったらトンズラするの」
「平八郎理事長と、同じ行動パターンですね」
 そう。
 兄である平八郎理事長も、新しいことを始める時は先頭に立ってやるけれど、上手く行かなくなったら人に丸投げして、業績を上げないことを責めていた。
「まあ昔は、そんな主人を忠実に助ける使用人がいたでしょうけど、今は時代が違うから」
 やれやれ、という口調で安部さんは言った。
「でも、康子さんがいないとなると、タイムカード打てませんよね? やっぱり本部の方まで行った方が良いんでしょうか」
「あ、それなら、私鷹ちゃんから鍵を預かっている。今、児童養護施設には誰もいないけど、風は通して欲しいって」
「ああ、暑いからね」
 この暑さである。
 風を通さないと、虫も湧くし、物も痛む。
「子ども達の私物もまだあるから、それもしないとね」「鷹ちゃんの狙いは、それだけじゃないかもしれない」
 訳知り顔で、谷さんは頷いた。
「何か考えでもあるでしょうか?」
「自己破産した時の、資産価値を上げたいんだと思う。農場の人達が、ペンキとか板とか買ってきて、トラックから降ろしていたからね」
「なるほどね……」
 谷さんの言葉を聞いて安部さんは嘆息した。
 どこまで康子さん達の意識が掛かっているかわからないが、「店じまい」の準備は、着々と進んでいるのだ。
「わかったわ。児童養護施設の施錠は、私がします」
「良いんですか?」
 そうなると、安部さんは早出の出勤時刻に来て、遅出の退勤時刻に帰ることになる。
「どうせ、夏休みが終わるまでだからね」
 その言葉に。
 谷さんと明里は、はっとした表情になった。
「保護者の方々に『最悪、夏休みが終わるまで』と言ったのは口任せじゃなくて、私が責任を持てるのは、『夏休みが終わるまで』なのよ。新学期からは、回せないわ」
「まあ、そうね……」
 その言葉に、安部さんは夏休みが終わったら退職することを既に決めているのだと、明里は悟った。
「私だって無理ですよ」
 明里は、肩を竦めながら言う。送迎のことにしても、おやつのことにしても、この学童が保てるのは夏休みが終わるまでだ。
「それ、鷹ちゃんに伝えているわけ?」
「まだよ。とりあえず、二人に伝えてからって思ってね」
「でも、勝手に『夏休みが終わるまで』って決めるのは……」
「『私が責任を持てる』のが、よ。この後に会社が学童を続けたいなら、続けたら良いのよ」
「そんな余力はないと思います。事務長さんも、お隣さんのことは気にしても、学童のことは気にしてないみたいだし」
「真中ちゃんも辞める気?」
 谷さんが、ギロっと明里を睨めつけて来る。
「だって、お金貰えないじゃないですか!」
 それに対して、明里は率直に答えた。
「この仕事は、給料なしじゃやっていけませんよ。それに、一人暮らしの独身女子には生活もかかっていますし、退職した後に、すぐに次が見つかるとも限らないですね」
 「夏休みが終わるまで」は、明里がお給料を貰えないで働けるギリギリのラインなのだ。
「子ども達が、可哀そうとは思わない?」
「谷さん、私達がこの学童を開け続けることは、会社にとっても迷惑なのよ、本当はね」
 声を荒げた谷さんに、安部さんが言った。
「本当は、事務長が―津村(つむら)さんが破産手続きをやろうとしているならば、一刻も早く、この学童を閉めた方が得策なのよ。だって、こうやって私達がこの学童にいるだけでも、冷房も掛かっているし、灯りも付けている。この瞬間にも、『負債』は生まれているのよ。まして、子ども達は毎日来て、あちこちの施設を使うわ。今すぐに閉めた方が、施設の痛みもこれ以上進まないし、得策でしょ。それに、私達の給料も『負債』になるのよ。それに、続けたところで、児童福祉施設を経営する理事長が『児童買春』で逮捕されたのよ? そんな社会福祉法人が経営する学童に子どもを預けたいと、誰が思うかしら。私だったら、嫌だわ」
「安部ちゃん……」
「それから子ども達のことを考えるならば、今のうちの環境は、子ども達が安心して過ごせる場所じゃないわ。おやつの内容にしても、教材の提供にしても、必要備品にしても、よ。ペーパータオルなんて、この夏休みに入ってから一度も提供されていないわ。挙句に、いつ閉所になるかわからない環境なんて、子ども達が『安心して過ごせる場所』って言えるかしら?」
 安部さんの言葉に、谷さんは黙り込んだ。
「それよりは、夏休みの間は頑張って開けて、その間に保護者の方々には他の事業所を探してもらったり、私達が他の事業所や行政に働きかけたりした方が、子ども達のためにはなると思うの」
「私にも退職しろって?」
「それは、谷さんが考えることだわ。でも、学童を続けて行くのは……無理よ」
 最後の安部さんの言葉に、谷さんはがっくりと項垂れた。
 もしかしたら谷さんは、ここまで来ても、あまり実感がなかったのかもしれない。
 だからこそ、「学童を開くのは夏休みいっぱいまで」と安部さんに聞かされて、衝撃を受けたのかもしれなかった。
「誰かの『犠牲』で得られる安穏は、長くは続かないわ」
 そう言った安部さんの言葉には、実感がこもっていた。
「何で……平ちゃんは、あんなことをしたのかな」
 ぽつりと、谷さんが呟く。
 「あんなこと」とは、児童買春のことだろう。
「法律で言うところの『児童』は、十八歳までだから、多分、『成人』に近かったか、本当に不慣れな子を相手したか、ってことかもしれないね。……考えても仕方がないけれど」
「とりあえず……今日出せる結論は、『夏休みまでは頑張って開けたい』ってことを、事務長さんに伝えるってことですね」
「冷静ね、真中ちゃん」
 そんな中、明里が話をまとめると谷さんがそう言った。
「私もここが閉所するのは嫌です」
 そんな谷さんに、明里は言った。

「でも、だからこそ、子ども達にとって良い選択ができるようにしたいんです」
 あの時。
 明里は、何も言わずに職場を去って行った同僚に、何もできなかった。
 もしあの時、何か一言でも声をかけていたら、あの同僚はあんな形で職場を去ることはなかったのかもしれない。
「自分ができることを、きちんと考えてやりたいんです。それ以外のことは、後で考えたいと思います」
 無理しないで、でも子ども達にとって最良の結果を残す選択を、明里はしたかった。
 そのためには、平八郎理事長が、どうして児童買春をしたのか、それを考えるのは無意味だった。
 それは、もう「起こってしまったこと」だからだ。
「自分の働いていた職場がなくなることに、寂しさはないわけ?」
 谷さんは、明里にそう聞いてくる。
「それよりは、学童の子達が次に行ける場所があるのか、の方が心配です」
 だが、明里にとって、今はまだ、そちらの方が最優先事項だった。
「そうね。今は、そちらの方が最優先ね。……多分、なくなる実感が出るのは、その後ね、真中ちゃんは」
 そう言って、安部さんは小さく笑った。
「破産手続きを申請すれば、行政も他の事業所や学校の学童にも引き受けを要請すると思うけど、根回しはしときたいの。谷さんも、協力してくれる?」
「そう……」
 安部さんは谷さんにそう言って、谷さんも深い溜息を吐きながら顔を上げた。
「今は、そちらの方が先か。歩武君は早々に決まりそうだけど、他の子達は未定だし」
 そうして、思い直すように頷く。
「すっきりした顔をしていたわね」
 安部さんも、その言葉に頷いた。
 歩武は、あの後特に普段と変わりなく過ごして、迎えに来た父親と帰って行った。
 帰る直前に明里をちらっと見て頷いていたから、歩武の中ではもう進むべき道は、見えているのだろう。
「それと、事務長さんへの根回しもお願い」
 そして、安部さんのこの言葉で。学童の今後も、決まったようなものだった。

1話目はこちら
憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~ 1 その戦いはうどんから始まった|kaku (note.com)

2話目はこちら
憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~2 有り合わせのオープンサンド(卵乗せ)|kaku (note.com)

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4話目はこちら
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8話目はこちら
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9話目はこちら
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10話目続きはこちら
憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~10 甘いカレーと激辛カレー ②|kaku (note.com)









 


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