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憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~4 憂鬱なメロンコンポート&アイスクリーム添えトースト

 栄養士の子が退職する、と明里が聞いたのは、栞奈ちゃんから電話があった三日後のことだった。ちなみに、この日は給料日ではあったが、給料はもちろん振り込まれていなかった。想定内のことなので問題はない。
『前からわかっていたんですかね?』
 いきなりのような感じもしたので、明里はそのことを教えてくれた安部さんに、聞いてみた。
 ほんの数日前では、相変わらずの無表情ではあったけれど、そんな様子は欠片も感じられなかった。
『わからないわ。ただ、突然辞めたって康子さんは言っていたわ。無責任だって』
『痴情のもつれとか?』
 谷さんは、ちょっと意地悪な口調で言った。
『何ですか? それ』
『どうもね、栄養士の子が、篤弘君と付き合っているみたいよ』
 ここだけの話だけど、という感じで谷さんが言葉を続ける。
『谷さん、どうして知っているの?』
 不思議に思ったのは安部さんも同じらしく、谷さんに聞いてきた。
『見たから、私。篤弘(あつひろ)君と栄養士の子が車に乗って、どっか出掛けて行くところ』
 その言葉を聞いて、明里はうーんと思った。
 確かに、農場で唯一の二十代男子である篤弘君は、そこそこイケる顔立ちをしている。
 でも、それが理由と言うのは、あまりにも定番過ぎると言うか、単純すぎるような気がした。
 まあ、そうは言っても。
 栄養士の子が一人辞めた、と言うのは、おやつのことを考えれば大問題だった。
 そのせいか、ここ最近のおやつは、ずっと「干し柿」が続いている。
 今日のおやつも「干し柿」だった。
 この干し柿は、去年農場の人達が収穫した柿で作った物だ。
 干し柿は買えば確かに「高い」のだろう。
 まして「国産」は今や高級菓子の一つである。
 だが、子ども達には馴染のないおやつなのだ。
 卵の次は干し柿ですかと、明里は、心の中で突っ込む。
 おやつを取りに行った帰り道。何度こんな突っ込みをやっただろうか。
「あ、こんにちは」
 と、その時だった。
 ふいにそう声をかけられて、明里は我に返った。
 声のした方を見ると、そこには、先日「退職した」と聞いた、栄養士の女の子が立っていた。
 長い茶色の髪を一つに束ねている印象だったけど、今日はその髪を降ろしている。
「こんにちは……」
 江原(えはら)さんという名前だったかな、と明里は彼女の名前を頭の中の記憶から引っ張り出しながら、挨拶をする。
「おやつを取りに行った帰りですか?」
 そして、次にそう話しかけられた。
「はい」
 特に隠すこともないので明里は素直に頷く。
「私、真中さんに聞きたいことがあるんです」
 そうして。
 いきなりそんなことを言われた。
「私がパンとアイスクリームをおやつに出した日、どんな風に子ども達に出しました?」
 意外な問いかけに、明里は目をぱちくりとさせた。
 あの時は、パンとアイスクリームと言う、あまりにも接点のない物でこれを平等に分けるということはできない、と明里は判断した。
 そうして次に思い付いたのは、一緒に出す、ということだった。
 卵のオープンサンドを作った時のように、アイスクリームを載せることにしたのだ。
 けれど、それだけでは美味しくない。
 だから、たまたま谷さんが持って来てくれた小ぶりのメロンをいちょう切りにして、砂糖六十グラムと水一カップと一緒に器に入れて、電子レンジで六分温めて、メロンのコンポートを作った。
 コンポートは、果物を水や薄い砂糖水で煮て作る物だ。
 ジャムに比べ、果実自体の食感や風味が残っているから、そのまま食べることもできるのだ。
 パンは、斜め三角に切ってマーガリンを塗った後、砂糖を振りかけてトースターで焼いた。
 その上にアイクリームとメロンのコンポートを載せて、子ども達には出したのだ。
 メロンのコンポートは、ほぼぶっつけ本番で作ったが、正直「飾り」の意味合いが強かったので、とりあえず、そこそこ食べられたら良し、とした。
『真中ちゃん、メロンは切って、そのまま乗せれば良かったんじゃない?』
 疲労困憊になった明里に、冷静に谷さんが突っ込んで来たが、
『おしゃれだけど、アイスクリーム少ない!』
『もっとアイスクリーム載せてよ!』
 と子ども達には文句も言われつつも、久々に全員が完食したおやつとなった。
 望海も、嬉しそうに食べていた。
「パンを切って、マーガリンを塗った後に、砂糖を振って焼いて、その後にアイスクリームを載せました」
 メロンのコンポートは、黙秘である。
「そうですか」
 栄養士の女の子は、明里の言葉を聞いて、あっさりとそう言った。
 その表情からは、どんな思いを抱いているのか、読み取れない。
「大変ですよね、これから」
 けれど。
 この言葉には、何らかの含みが感じられた。
 明里は、江原さんを見た。
「何か、私に聞きたいことありますか?」
 何故か優越感のようなものをありありと出しながら、彼女は明里に話しかける。
 退職した理由を聞いて欲しいのかな、とは思った。
 けれど、退職した理由なんて人それぞれだし、「大変ですよね、これから」と言う言葉も、明里にとっては、今さら何を言っているんだの類のものでしかない。
 しかし、多分、彼女は「何もないです」と言う言葉は、待っていない。
 だから。
 とりあえず、彼女が「栄養士」であれば知っているかもしれないことを、聞いてみることにした。
「あ、じゃあ。干し柿を使った美味しいお菓子の作り方、ご存じありませんか?」
 その瞬間。栄養士の女の子は、あんぐりと口を開けた表情で、明里を見るのだった。
          ★
 料理というものは、材料を組み合わせ、調味料を加えて作り上げる物である。
 「料理が上手」と言う人は、その「組み合わせ」が上手くできる人なのだ。
 「ご馳走」と言う物は、料理が先に来て、材料を「揃える」ことが次に来る。
 レストランとか、ホテルでの料理とかは、このパターンである。
 でも、毎日する「ご飯」と言われるものは、そうはいかない。
 冷蔵庫の中にある、手持ちの「材料」で、どれだけ「美味しい物」を作り出せるのか。
 それが、重大になってくる。
 まして、学童クソガキ三十人分のおやつで。
 材料が、「どう考えても硬いんですけど、この干柿」と言いたくなる物があって。
 それを生かしながら、材料費が安くて、早くできて、美味しいおやつができるのか。
 是非とも、プロの意見が聞きたい、と明里は思っていた。
 だから、江原さんが「何か聞きたいことはないですか?」と言った時、「渡りに船だ」と判断したのだ。
「江原さんが、びっくりしていましたよ?」
 ファミレスで、向かい合わせに座った松浦さんは、肩で切り揃えた黒髪を揺らしながら、そう言って笑った。
 その笑い方は、「二十代の健全女子」な女の子そのものだった。
 しかし、明里としては、何故この人が栞奈ちゃんと待ち合わせしたファミレスにいるのか、そこが疑問だった。
「今日の研修で、偶然お会いして……」
 松浦さんの隣に座った栞奈ちゃんは、申し訳なさそうに、小さくなっている。
 なるどな、と明里はその様子で何となく察してしまった。
「こんにちは」
 とりあえず、退職するという噂はあるが、会社の立場的には、松浦さんの方が立場は上だ。
 明里はぺこりと頭を下げて、松浦さんの正面に座った。
「干し柿を使ったお菓子の作り方を聞かれて、江原さん、開いた口が塞がなかったそうです」
 そうして。
 挨拶もそこそこ、この話展開。
 明里は、それにどう答えて良いか、わからなかった。
「私に、どんなご用件ですか?」
 だから。
 率直に、聞いてみることにした。
 松浦さんとは、今までほとんど接触がなかった。
 そもそも働いている場所が違うし、立場も違う。
 言ってみれば、相手は役員クラスの待遇で、明里はヒラ社員の立場だ。
 明里が今の学童で働きだした頃は、もうすでに児童養護施設の施設長で、部門のリーダーと副理事長も兼任していた。
 年上の職員を呼び捨てにしていたり、特定の職員の悪口を平気で皆の前に言ったりしていたので、明里は、正直良い印象は抱いていなかった。
「相変わらず、見事な切込みですね」
 そんな明里に、苦笑を浮かべながら松浦さんは言った。
「正直、何故栞奈ちゃんと一緒にいるのか、わからないんです」
「真中さんと話がしたいなと思っていたら、今日の研修で、偶然黒木さんと再会して、そう言えば黒木さん、真中さんと同期だったなって思い出して、連絡先を聞こうと思ったんですよ。けれど、今日研修の後、会うことになっているって聞いて、同伴させてもらったんです」
「さすがに、明里さんの許可なく連絡先をお伝えするのは、ちょっと……と、思って」
 松浦さんの言葉に、付け加えるように栞奈ちゃんが言った。
 その時の様子は、簡単に想像できた。
 松浦さんに明里の連絡先を教えて欲しいと言われた栞奈ちゃんは、今日会う事になっているから、その時に明里に聞いてみる、と言ってくれたのだろう。で、松浦さんは、
『じゃあ、私も付いて行くわ』という風な発言をしたに違いない。
 松浦さんには、あまり周りを気遣うスキルはない。
 と言うか、ないまま来てしまったのだろう。
「私、今月末で退職するんです」
 そして、次に言われた言葉は。
「あ、そうですか」
 しかし。
 明里としては、そう返すしかない。
「……それだけですか?」
 だが、明里の反応に松浦さんは不満げた。
「他に、どう返せと?」
 なので。
 明里も、自分の気持ちを正直に出してみることにした。
 実際、松浦さんが「辞める」と言っても、明里にはどうしようもない。
 明里にとって大切なのは、松浦さんがいなくなった後のことだ。
 康子さんが、学童に対してどういった対応で出てくるのか。
 そちらの方が、重要だと思うのだ。
 それに、松浦さんが他の従業員にしてきたことを実際に見たり聞いたりしている。
 正直、とうとう、自分が辞めさせられる立場になったか、と言う思いの方が強くなってしまう。
「自分的には、けっこう重大ニュースだと思うんですけど……」
「辞めたくないんですか?」
「子ども達のことを考えたら、そうです」
 顔を伏せて、松浦さんは言った。
「でも、康子さんがいるあの職場では、私は邪魔になるだけです」
「……そうでしょうね」
 確かに、平八郎理事長に呼び出された時の康子さんの様子を見る限り、前の児童養護施設長だった松浦さんは、「邪魔」だろう。
「康子さんは、根本的にうちの会社を変えるつもりです。だから、自分より古い職員は理由を付けて、解雇したり他の部署に異動させたりしているんです」
 松浦さんの言葉を聞いて、なるほど、と明里は思った。
 谷さんが言った通りのことが起こっているのだ。
 まずは児童養護施設から、という所だろう。
 ならば、明里達の働く学童にも、何れ口を出してくる、と言うことだ。
 学童は、変わって行くだろう。
 おそらくは、明里達が望まない方向に。
 どうするか。
 明里がまず思ったのは、それだった。
 独身の明里にとって、会社を首になるのは死活問題だ。
 三十八歳という自分の年齢を考えても、次を見つけることは容易ではない。
 だが、それだけではない。
 おそらく安部さんと康子さんとでは、考え方が「合わない」
 それから何よりも、「経験」が康子さんにはない。
 明里は今の会社に勤めるまでは、臨時の教員として働いて来たし、その年数も合わせると、十六年「子ども」を相手に仕事をしてきた。
 安部さんに至っては、学童で十二年働いていた経験がある。
 「学童」の経験は、明里よりも長いのだ。
 それは谷さんも同じで、今の会社で働きだしてからは、七年以上子ども達の相手をしてきたし、結婚するまでは、幼稚園の先生をしていたのだ。
 「素人」の康子さんに。
 明里達が「当然」としていることを、どこまで理解できるのか。
「焦りますか?」
 考え込む表情になった明里に、松浦さんが声をかけてきた。
「それは、それです」
 けれど。
 明里は、あっさりとそう返した。
「松浦さんは、どうしたいのですか?」
「真中さんは、どう思われますか?」
「辞めた方が良いと思います」
 少し、躊躇いがちに聞かれた問いに、明里はすっぱりと答えた。
 松浦さんの隣に座った栞奈ちゃんは、大きく目を見開いている。
「あそこにずっと務めていても、大切なことは学べません。本来であれば、松浦さんは栞奈ちゃんの言葉に納得して、私からの連絡を待つべきでした。私と栞奈ちゃんが約束した場所に現れたのは、気持ちはわかりますが、配慮がないです。会社にいる時であれば、あなたが「上」の立場ですから、それは少しもおかしくありません。ですが、今は「私」の場所であり、私はあなたよりも年上です。せめて私が現れた時に、『ご無礼しますが、ご一緒させていただいてもよろしいですか?』と言うのが、礼儀です」
 明里の言葉に、松浦さんは目を丸くした。
 明里が松浦さんと同じ年齢の頃には、教頭先生や校長先生、年上の先生達から、そんなことを繰り返し指導されてきた。
 けれど。
 そういった、「当たり前」とされていることを、松浦さんは学べていない。
 それはそうだろう。
 平八郎理事長も、八重子理事長も、たぶんそんなことは学んでいない。
 ようするに、彼らは「知らない」のだ。
 知らないから、威圧的に振る舞うことしか、できない。
 でもそれが許されるのは、それが彼らの会社(ばしょ)だからだ。
 世間一般に出た時に、そんな態度の人間は、すぐに弾かれる。
「容赦なし、ですね」
「あの会社は、そういう場所です。若いうちから働く場所ではないと思います」
 明里の言葉に、松浦さんは顔を顰めた。
「ご自分は大丈夫だと思われるんですか? 今、平八郎理事長が目の敵にしているのは、学童の職員ですよ」
「それは、前からですよ」
 意趣返しのつもりなのか、松浦さんはそう告げるが、明里にはわかりきった事実だった。
「……そういう所が、平八郎理事長のカンに触るのかもしれませんね」
けれど、と松浦さんは言葉を続ける。
「前に、私聞いたことがあります。『どうして、真中さんは子ども達を呼び捨てにしないのか』って。そうしたら、真中さん、こう言われたんですよ。覚えていらっしゃいますか?」
 そんな会話など、したのか。明里は覚えていなかったので、首を振った。
「『どうして、呼び捨てにする必要があるんですか?』って、不思議そうに言われたんです」
 基本的に。
 家族や友達以外では、名前は呼び捨てにするものではない、と明里は思っている。
 だから。
 いつだって、明里は子ども達の名前には「さん」「くん」付けだ。
 小さい子相手でも、家族や友達でない以上、「ちゃん」付けや呼び捨てはするべきではないのだ。
 どんなに小さい子だって、ちゃんと「人格」があるのだ。
 勝手に呼び捨てにはしてはいけないと、学校で働いている頃から思っていた。
「今は学校でも「さん」付けですから」
 けれど。
 とりあえず、わかりやすい理由を返してみる。
「違いますよ」
 だが、明里の言葉に松浦さんは首を振った。
「私は、辞めたくはありません。でも、もうあそこにはいられません。私の居場所はないんです」
 そうですね、とは頷けなかった。
 自業自得、と言う面がないわけではない。
 松浦さんだって、平八郎理事長の指示に従って、今までの人達を退職へと追いやっていたのだ。
 ただ。
 それを直接口にすることも、明里にはできなかった。
「何をなされたいんですか?」
「康子さんは、すべて私の責任にして事を済ませようとしています。でも、それは私の本意ではありません」
「叩けば出る埃を、明らかにするつもりで?」
「ええ」
 強い眼差して、松浦さんは頷いた。
「何故、それを私に言われるのですか?」
「私と同じ立場になった時、真中さんなら、きっと同じことをされると思ったからです」
 その眼差しは、覚悟を決めていた。
「私に情報提供者になれ、と?」
 松浦さんの、読みは当たっていた。
 確かに、明里が松浦さんと同じ立場になれば、きっと思うだろう。
 このまま辞めるのであれば、ただ、大人しく辞めることはない。
 辞めることに、意味を持たせたい、と。
 少しでも、現状を変えられるように。
 そのために、何ができるのか、と。
 明里の問いかけに、松浦さんは答えなかった。
 でも、そういうことなのだ。
「今すぐ、答えを出さなくても良いです。でも、考えてくださると嬉しいです」
「……少し、考えさせてもらって良いですか?」
 明里としても。即答できるものではない。
 「関係ない」と突っぱねるには、明里の立場も不安定なのだ。
 けれど、すぐに即答するほど、松浦さんに情があるわけでもない。
「わかりました。ただ、連絡先は教えてもらえますか?」
「はい」
 ただ。
 助けを求められた手を、拒絶することもできなかった。
 松浦さんと二人っきりだったらそれもできたかもしれないが、ここには今、栞奈ちゃんがいる。
 栞奈ちゃんは「悪い」と思いながらも、ここに松浦さんを連れて来ているのだ。
 そこには、彼女なりの理由があるからだ。
「それでは、私はここで帰ります。お邪魔して、申し訳ありませんでした。あ、それと、これを江原さんから預かって来ました」
 目的を果たしたらしい松浦さんは、明里にそう声をかけて、紙袋を差し出してくる。
 小ぶりの茶色の紙袋には、何か包まれた物が入っていた。
「尋ねられた、干し柿を使ったお菓子だそうです。レシピも入っているそうですよ」
 どうやら、江原さんは明里の思い付きで聞いた明里の問いかけに、きちんと答えてくれたようだった。
          ★
 栞奈ちゃんとファミレスの駐車場で別れてから、明里は自宅のアパートへと戻った。
 時刻は、夜の十時近くだろうか。
 車をアパートの駐車場に置いて、バッグから鍵を出して、自分の部屋の前へと歩いて行く。
 バッグの中には、松浦さんから渡された紙袋が入っている。
 江原さんは、明里達にはあまり好意的な人ではなかった。
 彼女は、料理長の下で働いていた人だ。
 彼の影響を受けるのは無理もない。
 だけど、松浦さんとは違って、明里に接触して来たのは、あの時だけだった。
 彼女が、『何か、私に聞きたいことありますか?』と聞いて来た時、本当はどんなことを聞いて欲しかったのか。
『私、実は理事長からセクハラ受けていたんです』
 松浦さんが帰った後。
 栞奈ちゃんは、松浦さんを連れて来たことを謝りながらも、そんなことを明里に言った。
『え? そうだったの⁉』
『はい。その時に、松浦さんに相談したら、すごく心配してくれていたんです』
 明里にとっては。
 松浦さんは、明里の上司を故意に退職へと追いやった人だけれど。
 栞奈ちゃんにとっては、辛い時期に助けてくれた、恩人でもあったのだ。
『もしかしたら、退職された栄養士さんも、理事長のセクハラにあっていたのかもしれません』
 栞奈ちゃんの言葉が、頭の中で再生された。
「姉ちゃん」
 と、その時だった。
 そう呼びかけられて、明里は目をぱちくりとさせた。
 自分の部屋の前に、人が立っていた。
 茶色の髪は、綺麗に巻かれている。
 けれど、真っ直ぐな黒髪を後ろで纏めた自分とよく似た顔立ち。
 だが、ここにはいないはずの人物だった。
「美里(みさと)!?」
 東京にいるはずの、二つ違いの妹だった。
 旦那と子ども一人を持つ専業主婦である。
「久しぶり、姉ちゃん」
 美里は、呆気にとられる明里を見ても、あっけらかんと笑ってそう言った。
「あんた、何で……」
「とりあえず、中に入れてよ」
 そうして、もっともなことを言ってくる。
 確かに、美里の言う通りではあった。
 もう真夜中にも近くて、玄関先で騒いで良い時刻ではない。
 明里はため息を吐くと、鍵をドアノブに刺した。
「どれくらい、待っとったと。電話してくれりゃいいのに」
 そう言いながらドアを開けると、
「姉ちゃん、こんな遅くまで仕事と?」
 逆に美里はそう問い返して来た。
「今日は、たまたま。でも、早くても八時過ぎるたい、帰ってくるのは」
 美里の問いに答えながら、明里はカバンを三段ボックスの上に置き洗面所で手を洗った。
「姉ちゃん、私お腹空いた。何かなかと?」
「なかよ。私、食べて来たけん」
「えー」
 ほぼ一年ぶりだと言うのに、実家にいた時と変わらない会話をしている。
「あ、そーだ。貰ったとは、あるとよ」
 明里はヤカンに水を入れて、コンロの上に置くと、カバンの中から、松浦さんに渡された包みを出した。
 それを台所に持って行き、紙袋から中身を出してみる。
 それは、パウンドケーキだった。
 ラッピングされたパウンドケーキと一緒、そのパウンドケーキのレシピも入っていた。
 「干し柿のパウンドケーキ」と言うお菓子の名前と、作り方が順番に書いてある。
 江原さんが、明里の問いかけに答えてくれたのだ。
 そこには、自分の仕事へのプライドがあるように明里は感じた。
 栄養士として、今まで仕事をしてきたプライドが、込められている。
 明里は、それをカッティングボードに置いて、切り分けた。
 切り分けた瞬間、洋酒の匂いがふわっと広がる。
 どうやら、干し柿はお酒に漬けてあるらしい。
「うーん」
 コーヒーと一緒に、美里の前にそのパウンドケーキを載せた皿を出しながら、明里は顔をしかめた。
「何、これ」
「干し柿のパウンドケーキ。働いている学童で、干し柿ばっかり出さすとよ。で、栄養士の人に干し柿を使ったお菓子がないか聞いたと。そしたら、これば作ってくれたとばってんね、洋酒ば使っているみたいなのよ」
 完全に地元の言葉に戻った明里は、美里にそう言った。
「はあ?」
 明里の言葉に、美里は素っ頓狂な声を出す。
「今時の子にね?」
「前は、ゆで卵ばっかり出しとらしたとよ」
「どんな学童なんよ、それは。って言うか、保護者の人から、苦情こんと?」
 完全に故郷の言葉に戻った美里も、あきれたように言った。
「来ても、無視しとらすとかもしれんね」
「で、姉ちゃんは、どうする気と?」
「干し柿ば使って、何かお菓子ば作れんかな、と思ったとよ」
「何、それ。干し柿以外の材料はどうすると」
「うーんと、提供?」
「馬鹿じゃなかと?」
 すぱっと美里は切り込んで来た。
「姉ちゃんが材料ば提供して、おやつ作って。そん学童の人達は、全然良かけど、何かあった時は、姉ちゃんのせいになるたい」
 厳しい妹の言葉に、明里は返す言葉がなかった。
 一方美里は、皿に手を伸ばし、干し柿のパウンドケーキを口に運ぶ。
「あ、やっばり。干し柿が固かとよ。だけん、洋酒ばかけなかったとね」
「固いの?」
「まあ、『これぐらいなら大丈夫』、ぐらいだけどね。でも、かなり細かく切ってあるよ。に洋酒に漬けて柔らかくして、さらに細かく切ったんだね。私は大丈夫ばってん、子どもはどぎゃんかな? 和孝(かずたか)なら、吐き出すばい」
 最後は、自分の子どもの名前を口にした妹は、どこか吐き捨てるように言った。
「美里?」
 美里には、小学三年生の息子がいる。
 明里にとっては、唯一の甥っ子だ。
 その甥っ子の名を、実の母である美里は吐き捨てるように言ったことに、明里は目を見張った。
 今までの美里ならば、考えられないことだった。
「これ、ホットケーキミックスとサラダ油を使っているけど、卵四個必要たい」
 次の瞬間には、いつもの美里の口調だった。
「えっ!? そんなに使うの?」
「うん。ほら」
 美里から渡されたレシピを、明里は確認する。
 干し柿のパウンドケーキの材料は、干し柿は好みの量、ホットケーキミックス一袋、卵四個、油六十CC、牛乳四十CCだった。
 干し柿は細かく刻んで、ホットケーキミックスと卵、油、牛乳をボウルに入れて、干し柿も入れて、よく混ぜる。炊飯器の窯に油を塗って、ボウルでよく混ぜた生地を流し入れて、炊飯器のスイッチを入れる。
 その後、四十分ほど様子を見て、竹串を刺して、何も付いてこなければ完成、と書かれていた。
 「干し柿は固かったのでラム酒をかけています。ケーキを焼く時は、自宅から持って来やすい炊飯器を使いました」という文が最後にあった。
「プロだな……」
 とその文を見て、明里は呟いた。
 そこには、明里の問いかけに、プライドをかけて答えようとした、江原さんの姿が見えるようだった。
「でも、詰めが甘か」
 そんな明里に、美里が容赦なく突っ込む。
「ラム酒は、子どもには使えんよ」
「横からチャチャ入れんでくれる!?」
 美里の突っ込みに、明里はそう返すのだった。
          ★
「ああ、確かに子どもには向いていないわね」
 次の日。
 明里が差し出した干し柿のパウンドケーキを食べながら、安部さんは言った。
「そうですよね」
 それに、明里はため息を吐いた。
「上手くやればドライフルーツケーキみたいになるけれど、ドライフルーツケーキって、そもそもが子ども向けじゃないものね。これは、栄養士の人が作った物なの?」
 安部さんの問いかけに、明里は頷く。
「しかし、何で栄養士の人がこれを作ってくれたの」
「聞いたんですよ、退職する栄養士さん……江原さんに」
「どういうこと?」
 明里の言葉に、安部さんは首を傾げた。栄養士の人達は、料理長と共に働いている人達だ。そのせいかあまり明里達とは接点がない。それなのに、明里は江原さんに干し柿のパウンドケーキを作ってもらっているから、不思議に思ったのだろう。
「いえ。この間用事があったみたいで、退職された江原さんが、来ていたんですよ。で、その時に『何か私に聞きたいことありませんか?』って言われるから、『干し柿を使ったお菓子はありませんか?』って尋ねたんです」
「それ……本当は、『どうして辞めるんですか』って、聞いて欲しかったんじゃないの?」
「まあ、そうかもしれませんけど」
 江原さんの退職理由など、あの時の明里は知りたいとも思わなかった。
 明里が知りたいのは、子ども達の状況の改善策だった。
 どう考えても、今のこの学童の子ども達の提供されるおやつの内容は酷過ぎた。
 それにおやつだけではない。
 壊れても、修繕されない建物。
 子ども達の遊びに必要な物品も、頼んでも提供されない。
「 『別にないです』と言っても良かったんですけど、それはできない雰囲気だったんです」
「一応、場の空気は読んだのね……」
 やれやれ、と言った感じで安部さんはため息を吐いた。
「ただ、江原さん。何か、セクハラ受けていたのかもしれないんですよ」
 けれど、今さらながら、明里も聞いておけば良かった、と思った。
 もしかしたら、退職の事実を、本音全開で聞けたかもしれないのだ。
 望海のことを考えると、知っていても損はなかった。
「そうなの?」
「はい。ちゃんと聞いておけば、良かったです」
 明里が「パワハラを受けていたのかもしれない」と予想しても、本人が事実を口にしない限り、それは「予想」でしかない。
「まあ……そうじゃないことを、ずっと話続けられたかもよ?」
「そうかもしれませんね。でも、このレシピも、せっかく教えてもらったのに、使えなさそうですね」
「だからね、真中ちゃん。そんなにバッサバッサと切るのは止めなさい」
 明里の言葉に、安部さんは突っ込んでくる。
「切っているつもりはないんですが……」
「理事長に反感を持つのはわかるけれど、もう辞めた人にまで持つことは駄目よ。栄養士さん達は、平八郎理事長に可愛がられていたから、情が深い真中ちゃんがそうなるのはわかるんだけどね」
「すいません……」
 明里としては、そんなつもりはなかった。
 江原さんがせっかく考えてくれたのだ。
 ただ、ラム酒が使われている以上、子どものおやつとしては適当ではない、と判断するしかなかった。
 うーんと思いつつ、明里は美里が作ってくれたお弁当に箸を伸ばした。
「何か、いつもとお弁当が違うわね」
「美里が……妹が作ってくれたんてす」
『当分お世話になるし、私がご飯を作るよ。家のこともさせてもらうね』
朝起きた時には、お弁当が作ってあったのだ。用意された朝食と回る洗濯機の音が、今の自分は一人ではないと実感させられる。
「あら。妹さんが来ているの」
「はい。東京に住んでいて、結婚しているんですけどね」
「何か訳あり?」
「……多分そうだと思います」
 ただ、まだ理由は聞いていない。
 まるで実家にいる時のような態度の美里に、かえって聞いてはいけない雰囲気を感じるのだ。
「でも、聞けないんですよね」
「長期戦になりそうなの?」
「わからないです」
 そう言いながら明里はおかずを口に運ぶ。
「だったら、生活費はもらった方が良いわよ。姉さんぶっていても、私達は給料すらちゃんとでるかどうかわからない立場なんだから」
「そう言えば、給料入っていました?」
「来る前に確認してきたけど、まだだったわ」
 明里の問いかけに、肩をすくめて安部さんは言った。
 明里達の出勤時刻は十一時からだから、出勤前に銀行に寄って来られるのだ。
「安部さんもそうなんですね」
 これまた、明里も同様だった。
 毎日銀行に寄って残高照会をしているが、給料はまだ入金されていなかった。
「今すぐ請求する必要はないけれど、一か月以上いるみたいだったら、生活費は請求した方が、お互いのためよ」
 人生の先輩である安部さんに、そう言われて。
 それはそうかもしれないな、と明里は素直にそう思った。
 だから。
「わかりました」と、頷いたのだった。
「それと、江原さんがセクハラ受けていたのはともかくとして、望海さんのことも、気をつけてみておきましょう。何か言ってきたら、話を聞くようにしてね。これは、谷さんにも共有しておきましょう」
 そうして。
 続けて言われた言葉にも、納得することしかなかったので、「わかりました」と、明里は頷いた。
          ★
『夜勤の時に、時々理事長が尋ねて来てはいたんです』
 昨日。
 栞奈ちゃんは、松浦さんが帰った後、食事をしながら明里に、あの頃に何があったか教えてくれた。
『ただ、夜勤って二人でするから、初めはそんなに気にしていなかったんですけど。でも、なんかそのうち、一緒に夜勤していた男性スタッフに仕事言い付けて、理事長と二人っきりになることが多くなって』
 そうして。
 あからさまに、体に触れられることも多くなってきたから、松浦さんに相談したらしい。
 そうしたら、松浦さんが「体調が悪いから」と言う理由を付けて、栞奈ちゃんを夜勤から外すようにしてくれたのだ。
『でも、その頃から、私のやることに何かイチャモンを付けるようになってきたんですよ。退職した栄養士の子も、同じようなめにあってきたのかなあって思っちゃって……』
「お帰り、姉ちゃん」
 部屋に帰るなり、美里がそう言って声をかけてくる。
 それに、考え事をしていた明里は、はっとなった。
 今の自分は一人ではないんだ、と実感させられる。
「……ただいま」
 一拍遅れて返事をした明里に、美里は怪訝そうな表情になった。
「どうしたの?」
「あ、久々だったから。このやり取り」
 そんな美里に手を振りながら、明里は靴を脱いだ。
 一人暮らしは、もう二十年近くもやっている。
 途中実家に戻って暮らしたこともあったけれど、臨時の教員をしていた時も、完全に辞めて今の職場に転職した時も、ずっと一人で暮らしてきた。
 その間、「ただいま」という言葉に、「お帰り」と返す相手は、いなかった。
 恋人との結婚話があった時は、同棲まがいのことをしていたけれど、それは一年前の話だから、;本当に久々のやり取りだった。
「私も、久々だよ」
 でも。思ってもいないことを美里は言った。
「たいぎゃ、久々。『ただいま』って言ってもらえるなんてね」
 その言葉に。
 明里は、美里を見た。
「ご飯、できとるよ」
「わあ、ありがとう」
 けれど、気分を変えるように、美里が言った。
 明里は、思わず笑顔になって礼を言う。
「お礼言ってくれると?」
「だって、手間たい」
 一人暮らしが長い明里は、基本的に自炊である。
 家族がいない分の気楽さはあるが、それでも食事作りは手間だ。
「世話になるとだけん、家事はするって」
「まあ、そぎゃんばってん、嬉しかたい」
「そう言えばね」
 照れくさいのか、美里は話を変えた。
「私、思い付いたとばってん、干し柿を柔らかくする方法って、ヨーグルトに漬けたらよかとじゃなか?」
「ヨーグルト?」
 その意外さに、明里は目を見張った。
「干し大根をヨーグルトに入れて戻すと、水で戻すよりまろやかになって、美味しいらしいとよ。栄養的にも良いらしいわ。だから、干し柿だって、似たようなものじゃなか?」
「そぎゃんねぇ……」
 それは考えもしなかったアイディアだった。
「あ、もう作ってみたとよ」
「え!?」
 妹は、さらに不意打ちをしてくださった。
「干し柿とかヨーグルトとか冷蔵庫にあったから、作ってみたと。味見もしてみたけれど、まあ、悪くはなかったたい」
「そぎゃんね。手早かね」
 つまりは。
 一汁三菜のご飯に加えて、デザートもある夕ご飯となったのだ。
「ありがとね、美里」
 一人で暮らしていた時は考えられない贅沢さに、明里は素直に礼を言った。
 そんな明里の言葉に。
 美里は、嬉しそうに笑うのだった。
「あ、これなら良いかも」
 夕食後。美里が作った干し柿のパウンドケーキは、確かに悪くなかった。
 お酒も使っていないから、子どもも食べることができる。
「でもさあ、なんで干し柿で作るとよ。どうせ、姉ちゃん達の持ち出しだったら、使わないで、チョコチップでも使えば良かとに」
 嬉しさのあまり、声が弾んでいる明里に、不思議そうに美里は言った。
「そういうわけにはいかんとよ。使わんかったらかったで、干し柿が減らんでしょ」
「何で? 減らすなら持って帰ったり捨てたりすれば良かたいね。何か、ヘンたい。そもそも、何で子どもが食べんようなおやつば出すとね」
「支給されるおやつが干し柿だけんたい。前はおやつ代は出とったばってん、最近は直接調理の人達が用意しなはっと」
「何で?」
「お金がなかけんだろ」
「よう、保護者が文句言わっさんね」
「おやつは無料だけんね」
「それ、変じゃ?」
 美里は、明里の返事を聞いて、もう一度そう言った。
「お金がないから、ちゃんとしたおやつが出せない。それだったら、保護者の人達から集めれば良かたい」
 その言葉に。
 明里は、はっとなった。
「そもそも、姉ちゃんの勤めている会社って、結構なブラック企業だろ? 保護者の人達が払っているお金って、ちゃんと使われておると?」
「使われているって……」
「『利用料』って、項目ごとに分かれて料金が記載されてない? 基本利用料の他に、おやつ代とか教材費とかあるはずたい。ちゃんとその目的に合った物に使われとっと?」
 その言葉を聞いた瞬間。
 明里は、何かしらの「衝撃」を受けた。
 考えもしなかったことを、指摘されたような気がした。

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