ガチメンヘラの母との20年
1.書く事に至った経緯
まず最初は私について。
現在23歳、来年の4月で24歳。
諸事情で今年の2月からつい先日まで実家でニート生活を謳歌していた私だが、人生で最も母との時間を過ごした10ヵ月でもあった。
タイトル通りではあるけれども、母は私が幼少期の頃から現在も進行形でうつ病を患っている。後で色々書くが、入退院を繰り返した時期もあれば自殺未遂なんてこともあったくらいといった感じ。
依然として実家暮らしではあるが職に就いてしまったため母と関わる時間は減ったが、忘れてはいけない様々な事を改めて書き留めようと思った次第。
周りの知人がnoteを書いてたのに触発された、っていうのも大きいけど。
人間、アウトプットをする際には記憶を整理したり必要な情報を絞ったり、とにかく一度アウトプットする事で記憶がより強固なものになるらしい。
これは受験生の時に知りたかった、最近知ったライフワークだ。
話が大きく逸れる前に、本題に入ろう。
2.母とその家族たち
わざわざ見出し一個使って書く内容でもない気がするけど、ざっと。
母:44歳くらい。若いんだ。大学3回生→4回生の3月に俺をこの世に産み落とした張本人。ちなみに国立大で、単位を落とす事すらなかったらしい。その頭脳をもうちょっと受け継ぎたかったな。遺伝するか知らんけど。
父:母の2個上。同じ大学の同じ研究室だった母となんやかんやあって俺をこの世に産み落とした。父から生まれた訳ではない。院に進んだ修士マン。
母をずっと守り続けてる聖人。背中がでかすぎるんよ・・・
俺:最初に書いたから割愛。
妹:あんまりこの話に関わらないから割愛。俺より3歳下。
3.母とその家族の闘病生活
闘病生活、って書くと抗がん剤治療とかそっち系がどうにも浮かぶからタイトルにすごい悩んだけど、しっくり来るのはこの言葉だった。
正直な話、20年って大見得切ったけど小学校に入ってからの事くらいしか覚えてない。だから、俺にとってはせいぜい17年ってところか。
時期によって生活が変わってたから、ここからは小見出しもつけて。
3-1.小学校時代(低学年)
新しい事ほど記憶に残っているものだが、一番思い出深いのは低学年。
具体的には1年生の夏。
元々母が体調を崩しやすい事くらいは察してたが、まだまだクソガキ。うつ病なんて知らない俺にとって、母が療養の為に遠く離れた実家に帰った事はあまりにも大きなイベントだった。
母と、まだ小さな妹と、犬2匹。父と見送りに向かった空港から帰る電車の中で、ずっと号泣をしていた事を忘れる事はなさそう。
それから丸2年間、母とは父が用意してくれたPCを使ってSkypeを使ってビデオ通話をするか、夏休みなどの長期休みで会うくらいのものだった。
下校した後の家では父が帰ってくるまで1人。お腹が空けば父の帰りを待つしかない、寂しさで泣いてそのまま寝てることだってあった。懐かしい。
・・・なんて書くとすごい悲しい過去にも思えるけど、救いだってたくさんあった。むしろ楽しい思い出の方がめちゃくちゃに多い。
学童保育に通うことになった。これがもう本当に楽しくて。紙ヒコーキ選手権、ドッジボール、キックベース、卓球、缶ゴマ、遊びを挙げるとキリがない。父が家にいる土曜日でも行きたくて行ってた。
これは余談だけど、学童保育で”おにたく”なるおやつが出た。おにぎりとたくあん。初めてたくあんを食べ、吐いた。それ以来漬物が食べれない。
楽しい楽しい学童保育も8時まで。父が帰るにはまだ時間があるから、俺は仲良くしてくれている友達の親と帰る事もあった。
恰幅良くて懐も器も広いゆーぱぱ。「飯食いに来る?トンカツ」っていっぱい誘ってもらえた。今思えばあの家族はトンカツを食いすぎである。
隣の家のななちゃん家。1つ下の女の子。一緒にお風呂はいったり、ご飯を食べたり、宿題をしたり。当時の俺のもう1つの家だったんだと思う。
これまた余談だが、ななの家には黒いデカい犬がいた。噛まれた。ギャン泣きしてすごい心配されたけど、甘噛み。それ以来大型犬が苦手である。
そんなこんなで、父と俺の2人暮らしはあまりつらくなかった。
父が話題に殆ど出てないけど、帰ってきたら持ち帰った仕事をしながら宿題を見てくれていたし、休日はキャッチボールをしに公園に行ったり、他の誰よりも父と過ごす時間が大好きだった。20を過ぎたくらいの時に父本人に酒の勢いで伝えたら泣いた。俺もなんか泣いた気がする。
3-2.小学校高学年
正直この頃の母の話題って殆ど覚えてないんだよね。
父方の祖父が亡くなった事が大イベントすぎて他の記憶が損なわれてる気がする。それくらい、俺は祖父ちゃん子だった。
それはそれとして、書くべき事を書こう。母の思い出が少ないもう1つの理由。母は入退院を繰り返してたんだ。車で1時間半くらいの病院。
でも俺は大好きな祖父を失って、母は閉じ込められているように見えてしまって、病院っていうものが大嫌いだった。正しくは、お見舞いが大嫌い。
今でも親戚が倒れても極力お見舞いに行きたくないくらい。ちなみに霊感体質とかは一切ない。単純に嫌いなんだと思う。それか薄情者なだけかも。
流石にこの頃には母が家にいなくてもコンビニに行って飯買うくらいは出来たし、簡単な料理くらいは出来るようにもなった。
何より、母が帰ってきたことで妹が家にいるようになったから、兄なりに頑張ってたような記憶が・・・盛ったわ、そんな出来た兄ではない。
あ、忘れちゃいけない・・・というか、忘れられないスーパービッグイベントがあったんだ。
俺の目の前で、母が自殺未遂をした。父と喧嘩をしたらしく、1階から2階に駆け上がって子供部屋に入ってきて、机からカッターを取り出した。
そのままそれを首にあてがって、慌てて駆け付けた父が止めた。
これから高校に入ってしばらく経つまで、カッターが使えなくなった。
父が本気で怒ってるのを見たのはこれが最初で最後だし、こういう場面で本気怒って止める父で良かったと今でも思う。
3-3.中学生時代
当時でも今でも、ここが大きな家族全体の転換期だったと断言できる。
東京から、母の実家のある福岡に引っ越した。母の実家まで車で1時間程、父と母の大学も福岡で縁のある土地で、これまた縁ある父の友人から転職のお誘いが来たからだ。
俺個人の話をすると、中学校の校区的な問題もあって小学生から引き続きの友人が減って、中学はマジで全然馴染めてなかった。イジメなんて大げさなものではなかったけれど、行く事が億劫でよく父を困らせたものだ。
中2の夏、諸々を引越し業者に渡し、家族4人は車で福岡に。ワクワク。
そんなこんなで新たな中学校に転入した訳だが、楽しかった。ここでも俺個人の大きな転換期はあった。高専というものを知った。
母はというと、実家が近いからか東京が気分的に合ってなかったのか、調子のいい日、言い方が悪いけど普通の人だった時間が多かったように思う。
俺の記憶にヒステリックな母がいないから、きっとそう。
ちなみに、パニックを起こして食器を乾燥させておく台から全部ひっくり返したのをヒステリックな母と認識しなくなったのもこれくらいの時期。
父がなだめて、俺と妹が後片付けをして、なんて事はたまーにある震度3の地震くらいの認識だった。
なんて言ったけど、こんな出来事は本当にたまーーーーーーにあるだけ。
強いて言うなら、受験生なのに勉強をしない息子に対する心配とかストレスも悪影響だったんだろうな。ごめんな。
あと。これを書くか、最後まで悩んだんだけど。俺もこの頃に一回、自殺未遂とも言えない自殺未遂未遂をしたことがある。6階建てのマンションの、通路にある塀に上った所でメガネがズリ落ちて、その落下音すら聞こえない事にビビって辞めたんだ。それに至った経緯は覚えてないんだけど、母の調子がずっと悪かった時だったのは覚えてる。
メガネが壊れた事を聞かれて、父にだけ正直に話した。命を粗末にするな、って怒られて、初めて頬を叩かれた時だった。母の件があったからこそ、
愛情なんだって強く感じた。それ以来、父になんでも相談するようになった。
3-4.高専時代
高専って何かってのが関わってくるのでざっくりいうと、5年制の工業高校。で、俺は家から約100km離れた場所で寮生活を始めた。
父と離れる初めての生活だった。不安しかなかった。
母と離れる事には慣れていた、むしろ気楽だなとすら思った。
寮生活をしていた頃、母は殆ど調子が良かった様で、一時期はパートに出るくらいだった。長くは続かなかったけど、俺や家族にとってこれ以上ないハッピーなニュースだった。
もしかして調子が悪かったのは俺のせいだった?って考えも出た。悩んだ。極力、実家に帰る事も減らしてた。
蓋を開けてみればそんなことはなくて、母と主治医が変わった事と新しく飲み始めた薬が相性が良かっただけらしい。
帰省を渋る俺を心配してか知らんけど父が教えてくれた。
そんなこんなで、この頃からしばらくは、ある程度抑えられた波で母の調子は安定して、今日に至るまでヒステリックな母を見る機会はほぼ消えた。
ちなみにこの頃、授業をサボったり、お菓子を食べに行ったり、後はちょっとした諸事情もあって養護室で過ごす時間も長くて。
母の事情も相まって、そこにあった心理学の本を読む事が多かった。
この本が、俺から母に対する心境の変化に大きく役立ったんだと思う。
ここまでが、昔ばなし。
4.人生で一番長く母と過ごした日々
所謂、現代編である。過去パートが長すぎたけど、父の人間性と母の症状は十二分に伝えられたんじゃないかな。
直近の10ヵ月間、たくさんの事を母と話した。
母の病気についてではなく、他愛のない話。
お昼何食べたい?夜ご飯どうする?おとん帰ってくるの遅いね。そんな事。
ニュースを見れば、それに対するちょっとした意見交換をしたり。
その中で、というより、そんな話題だったからこそ分かった事があって。
このnoteで書き留めたい話はここから始まる。
俺自身、ここまでの文章量に驚いている。
まず初めに、気まぐれに読んでいた本から学んだことがある。
母は物凄く、物凄ーーく拡大解釈と思い込みが激しい。
Aがダメなら、BもCもDもダメだと思い込む。
俺が、それは違くない?と伝えても、なかなか折れない。
しょうもないニュースで若干喧嘩みたいになった事すらある。
俺も負けず嫌いなんよ・・・
以前の俺なら流してたんだけど、母にそれは拡大解釈といって、良くない思考回路なんだよ。っていうのを伝えたかった。思い込みなんだよ。って。
その甲斐あってか、はたまた調子がいいだけなのかは分からないが、少なくとも必要以上に母が自分自身をダメだ・・・という事は減った気がする。
気がするだけかもしれないけれど、俺はそう感じた。
そもそも拡大解釈って何?ってちょっと触れると、特にマイナス方面の思考が止まらなくなるような状態。だと勝手に思ってる。
もしこんなことで荒れてもしょうがないから、一応補足。俺は心理学をきっちり学んだ訳でもないただの素人である。ただ人よりも精神的な病を患った人間と関わる機会が長いだけであり、専門的な知識はない。
これから話す事は根拠もなにもない、ただのチラシの裏の落書きだと思って欲しい。チラ裏って死語だよね。
木を見て森を見ず。っていう言葉がある。拡大解釈の激しい人間は、木を見て、見れもしない森を勝手に想像する。
ただ想像するだけではなく、なかなかに酷い環境の森を想像してしまう。結果としてそれを正しいと思い込むものだからなまじ難しい問題になるんだ。
世の中には、こういった人はたくさんいると思う。いわゆるネガティブ思考とはまた少し違うと個人的に思っている。
この文章を読んだ人が、少しでも、「もしかしたらこれって拡大解釈してるだけかもな・・・」って思ってくれて、思い込みが減ってくれると嬉しい。
これは余談ね。メンヘラと呼ばれる人って共通して拡大解釈と思い込みが激しいと思う。ここで話すには憚れるけど、元カノはそうだった。該当する2名の元カノにだけはこの文章が届かない事を祈ることにした。
余計な談義と書いて余談。それは置いといて(というか深く触れにくい)。
今、母はかつてないくらい調子が安定している。
俺と過ごした時間が良かったのか、たまたまなのか、こればっかりは主治医と言えども、母本人ですら、分からないと思う。
願わくば、この状態が長く長く続いて欲しい。完治して欲しいなんて高望みはとっくに捨てた。
5.伝えたい事
この伝えたい事は、ここまで読んでくれた皆さんに向けてではない。
いつか、この記事に書いた様な内容を忘れるかもしれない自分に伝えたい。
母の病気は完治こそせずとも、安定はさせられるんだ。
俺が手を尽くしたって、父がどれだけ頑張ったって、母の調子が一向に良くならないなんて事は無かった。
調子が良い状態から、何かのきっかけに悪くなる事はあっても、悪い状態のままずーーーーーーーーっと続く事はなかった。
家族は、調子が良くなるきっかけに、なれるんだ。
そして、もう1つ、自分に伝えたい事がある。
これは本当に経験則でしかなく、医学的な根拠なんて欠片もない。妄言かもしれない。
うつ病は伝染する。
明るくて朗らかを体現したような父だって一時期は安定剤を飲んでたんだ。
俺がこれから先、うつ病になる時もあるかもしれない。
その時は、まず自衛として思い込みを辞めよう。
そして、周りにしっかり目を向けよう。少なくとも両親は、俺を愛してくれてる。それさえ分かれば、ひとまずいいんだと思う。
それこそ、人生の伴侶が見つかってるかもしれない。誇張的な表現になったけど、父と母を見てるとこの言葉がしっくりくるんだよね。
そんなこんなで、この話は終わり。柄にもなくこんな話をしてしまった。
今でもついったーに載せるか悩むけど、承認欲求というか目立ちたがりというか、そんな性格の俺はこの記事を投稿した1分後に載せるんだろうな。
おわり