カルルス温泉文化祭「ジャズと民謡」に行く前に読んでおきたい/カルルス温泉物語/第3話「カルルス温泉の発展と想い」
こんにちは。
カルルス温泉文化祭 歴史担当のKです。
カルルス温泉文化祭「ジャズと民謡」をもっと楽しんでいただくための
特別コラム「カルルス温泉物語」の第3話。
最終回はカルルス温泉の発展のあゆみ、
そして日野久橘(きゅうきつ)の
カルルス温泉に対する想いをご紹介します。
1 [知名度] 全国的に名が知られるように
カルルス温泉の開業当初は共同事業でしたが、
日野久橘は大正5年(1916)には
市田重太郎から全ての所有権を買い取り、
その後も温泉地の整備を進めていきます。
しかし、ここは山奥の小さな温泉地。
今のようにSNSがあるわけでもなく、カルルス温泉の名前を全国に広げるのはとても難しいことでしたが、ある出来事により多くの人々が訪れるようになります。
それは明治38年(1905)の日露戦争です。
傷病兵の療養地として、登別温泉とともに指定されたことがきっかけとなり、全国的に名前が知られるようになりました。
この前後には新たな旅館も開業し、
カルルス温泉はたいへん活気づいてきます。
久橘は温泉への利便性を高めるために次の手を打ちます。
2 [開発] スキー場や道路の開通など次々と
昭和はじめには登別温泉まで電車で行けましたが、そこからカルルス温泉まではまだ馬車でした。
そこで昭和2年(1927)に、全国的にも珍しい乗合いの小型自動車サービスを登別温泉とカルルスの間ではじめます。
さらに、昭和7年(1932)にはスキー場がオープン。
そして、今も私たちが利用するオロフレ道路が昭和10年(1935)に開通します。洞爺湖温泉、壮瞥町とカルルス温泉をつなぐ道路です。
当時は「胆振アルプス縦貫道」と呼んでいました。なんかワクワクする呼び名ですよね。オロフレ峠(標高930m)からの展望、そしてオロフレ山の中腹にある高山植物のお花畑も人気を博しました。
大正10年(1921)から日野久橘らが中心となって運動していたものが形になったのです。
その後もカルルス温泉は、温泉地を訪れるお客様に楽しんでもらえるように様々な取組みをしていきます。
昭和32年(1957)には北海道初の国民保養温泉地の指定。
その2年後には国民宿舎オロフレ荘が開業します。
そして、屋外温泉プール、国設スキー場、渓楓園、サンスポーツランドと次々に観光施設がオープンします。
3 [変化] 共同浴場から内風呂へ
カルルス温泉は、開場以来これまでは共同浴場のみでした。
そこで湯量を増やすためにボーリングを実施し見事に成功します。
昭和34年(1959)からは各旅館へ配湯して、
待望の内風呂のある現在の温泉旅館スタイル
に変化させました。
そして昭和50年には、新たに山静館も開業しました。
賑わいの登別温泉とは一線を画す、閑静な湯治場の雰囲気を残しながら、カルルス温泉は活気ある温泉として歩んできました。
4 [エピローグ] カルルス温泉への想い
カルルス温泉が開場して今年で125年。
6館あった旅館は現在3館となりました。
カルルス温泉を開場した一人である日野久橘は、
多くの権利を持ちながら、あえて自ら旅館を経営することはなく、側面からのカルルス温泉全般の発展に尽くしました。
そして、他の観光地にみる歓楽街を作らず、
登別温泉とは違う、
神聖な温泉と湯治場として発展することを願ってきました。
先人が大切にしてきたカルルス温泉。
緑豊かで静かな、そして川の音が心地よい、
ゆったりとした時間を満喫できるカルルス温泉。
カルルス温泉文化祭は
これからも、もっともっとたくさんの人に
カルルス温泉の良さを伝えていきたいです。
実はカルルス温泉では共同浴場時代に
「大演芸大会」というものが催されていました。
長く滞在する湯治客のためにはじめられたもので、
たいへん喜んでもらえ
会場の共同浴場2階は人であふれていました。
しかし内湯になり、テレビの普及とともに姿を消していきました。
お客様に楽しんでもらうための”おもてなし”だった大演芸大会。
初めての試みである「ジャズと民謡」は
その時の想いを大切にして開催します。
当日、カルルス温泉でみなさんとこの素敵な時間を過ごせることをスタッフ一同楽しみにしています。
それでは会場でお会いしましょう!
〈おわり〉
カルルス温泉文化祭「ジャズと民謡」
日時:2024年5月19日(日) 会場:鈴木旅館
☆特別企画☆ カルルス特別弁当登場!
◇ジャズ 「温泉にゃんこカルテット」
◇日本民謡「紀伊なつみ&仲野魁斗」
◇ウポポ(アイヌ民謡)「Kapiw&Apappo(カピウ&アパッポ)」
◆Web