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秘湯北温泉の浮世絵 〜後編

テルマエ・ロマエ

この広々とした露天風呂は、後に『テルマエ・ロマエ』という映画のワンシーンに登場してきて、びっくりすると同時に懐かしさがこみあげてきた。阿部寛のデカい背中が蓮佛の白い背中と重なって、あのときの光景がありありと時間旅行の向こうに蘇った。

雪合戦

野郎どもは、しばしの間、寒気にさらされた肌を湯であたためて、「ぶえぇぇぇ」とか「あったけー」とか「けど顔さみい」とか口々に言って、湯を楽しんでいたのだが、露天風呂の水面から半身をのぞかせている、蓮佛の白い背中があまりにも雪景色になじみすぎていて、僕は、これをぶち壊してやりたい衝動にかられた。

露天風呂の縁に積もった上等なかき氷のような雪を両手ですくいあげると、そーっと蓮佛に近づいて、それから、ヤツの首筋から背中にこすりつけてやった。「うわっ! なにするんすか!」低い声でうめく蓮佛。

「雪合戦しようぜ!」

立ち上がるとちょうど腰から下が湯に浸かるほどの水深、僕らはザバザバと湯をかき分けては、雪をとりに行き、固めては、投げあった。冷たい雪とカツンと冷えた空気、そして露天風呂の暖かさに交互に肌をさらしていると、もうなにがなんだかわからなくなってきて、野郎一同、嬌声や怒号をあげながら、少し日の傾くまで、雪を投げあった。

天狗風呂

男ばかりの全裸雪合戦に疲れた僕らは、内風呂に向かった。混浴らしいが、客は僕らきりだから、変な期待はない。いや、ちょっとは期待した。

波打った木の廊下を、薄っぺらいスリッパでパタパタと歩いていくと、向こうにランタンの明かりが見えてきた。

少し白濁した湯に浸かって上を見上げると、大きな真っ赤な天狗の面がこちらを意味ありげに睨んでいる。その真下、湯気の向こう、ランタンの明かりに照らされて「子宝の湯」の文字が見える。なるほどな。

と、廊下の方からスリッパの音が聞こえてきた。さっきの従業員の姐さんだろうか。少し身構えて、近づいてくるスリッパの音に耳をそばだてていると、ガラス扉がガラリと開いた。

「えー!なんでー?」

若い二人の女性が不満げに声をあげている。
いやいや、「えー なんで?」は、こっちが言いたいくらいだけれど、どうやら向こうも混浴風呂に先客などいないと思っていたようだ。
巨大な天狗の面の下、見ず知らずの野郎どもと同じ湯に浸かる気は、流石にないとみえて、ガラス扉をピシャリと閉め、再びスリッパをパタパタさせながら、そそくさと去っていった。

たぶん、僕らの後から、この宿にやって来たのだろう。北温泉は、僕らの独占ではなくなったわけだ。

いや、それよりも、待てよ、もしかすると、先刻の全裸雪合戦は無観客ではなかったのか?

不自然な浮世絵

ま、いいか。そろそろ、お腹も空いてきたことだし、部屋に戻って風呂上がりのビールといきますか。

さっきは、外の雪景色があまりに眩しかったせいで、誰も気づかなかったのだけれど、部屋の壁に一枚の浮世絵が飾ってある。それはいいとして、絵のかかった位置がどうにも中途半端なのだ。しかも少し傾いている。

「変なのー」佐々木が声をあげた。佐々木は美術学校で徹底的に平面構成を学んでいるから、なおさら違和感を感じるのだろうが、こちとら四人集皆、曲がりなりにもグラフィックを生業にしている。さっきの天狗風呂の女性とおんなじセリフを一同声に出した。「えー なんでー?」

風呂上がりの火照った身体にキッチリ冷えたビールがしみる。気の置けない仲間達との会話もはずむ。だけど、談笑しながらも例の浮世絵が気になってしょうがない。誰かがずっとチラチラ絵を見ている。

言わないでおこうと思っていたのだけど、もう言っちゃおう。
「あのさ、旅館とかに絵が飾ってある不自然な絵ってさ、何かを隠してることがあるんだってさ」
蓮佛がよせばいいのに付け足した。「ああ、隠してますね、絵の裏におふだが貼ってあるんですよ、出るんですよ、この部屋」

「え?なに? 何が出るの?」と呑気に佐々木。

四人目の登場人物、渡辺氏が答えを言ってしまった。「決まってるじゃないですか、幽霊ですよ、この部屋で昔…」

もうやめてくれ。僕は渡辺氏の言葉を遮って言った。「でもさ、おふだが貼ってあればいいんじゃないの? 魔除けなんだからさ、きっとおふだ貼ってあるよ、だから大丈夫だよ」

はい。僕、おかしな理屈言ってます。正気を失ってます。

「で、だれが外すんですか? その絵」
提案と同時に、その役目から逃れようとする渡辺氏。

「外したら天狗のお面があったりしてさ、はは」僕は、言ってはみたものの、だれも笑わないし、何の解決にもなっていない。

あれ? みんなの目線が浮世絵から僕に移っているんですけど?

「わかったよもう、はずすよもう、斜めってるのも気になるしさ」
半笑いで額縁に手をかけて、ゆっくりと外…… 外れない。びくともしない。

「なにやってんの? 早く外そうよ、おふだ見してよ」
『気の置けない仲間』は撤回する。気が気じゃない。

「は、外れないの、微動だに、しないの」

僕ら、入れ替わり立ち替わり、額縁に手をかけたが誰も外せない。

「微動だに、しませんね」
と、蓮佛。おんなじこと言ってんじゃないよ!

二十年の時をこえて

秘湯北温泉 二階のいちばん奥の部屋。
薄いベニヤ板のドア、真鍮の引き手を引けば、眩しい雪。
入口のすぐ横に一枚の浮世絵。
あれから二十年が経った今も、きっと外れないままなのだろう。

もしもあなたがあの絵を外せたのなら、コメント欄でいいから、おふだの有無を教えてほしい。その時、僕の心にかかったままのあの絵は、きっと外れる。

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