幸せのかたち

私は子供の頃の記憶があまりない。

高校に入学して同じ部活になった子に「幼稚園の裏消防署やなかった??」って言われて、そういえばアルバムに幼稚園の運動会のあったけど、消防署写ってたなぁって思い出し、その子は当時幼稚園でよく遊んでた子だったらしい。

3歳上の私の兄は、私が生まれた日の事をよく覚えていて、私が生まれる間に父親とウルトラマンの映画を見に行って私が生まれたときにはもちろん間に合わなかった。

小学校から高校まで一緒だった親友と、高校で同じクラスになった子二人を加えた4人で今でもメッセーするのだが、高校時代の話をされても私だけピンと来ず、そうやったかなぁ・・・で終わる。私が覚えているのは、男子バスケ部の後輩の後ろから「ケツ蹴り」して遊んでた位だ。

そんな私は両親に「30歳まで結婚せえへん」って言ってたくせに、21で妊娠し嫁に行き、父親に「裏切られた」と言われた。そんな結婚も今年で28年になるんやから、ま、ええやろ、って思える。

結婚した頃は尼崎に住み、実家の三重にもちょこちょこ帰れてたが、結婚して1年半の時、急に旦那に帰りたいと言われ、まんまと北の大地に越してくることとなる。

最初の冬に、2歳の長男を連れてスキー場に行きソリすべりをさせたのだが、誤って駐車場の車の方に行ってしまい、ホイルに激突して流血。初めて救急車に乗る羽目となる・・・

この長男は私を一番成長させてくれた息子なのだが、小さい頃から発育が遅く、関西労災病院に通う日々。とりあえず様子を見ていいと言う事で、引越しを機に病院卒業となったが、小学校1年生から見事に登校拒否。生まれたばかりの娘をベビーカーに乗せて、3歳の次男に押させ、長男を引っ張って毎日学校に連れて行っていた。

そのうち一人で行かせる様になったがなかなか行かない。当時住んでいたマンションの下でうろうろし、10時頃にあきらめてとぼとぼ歩いていく。そんな毎日を窓から泣きながら見送っていた。この頃はまだ、『行かせない』選択が出来なかった。そんな長男も5~6年生の2年だけは楽しかったと後から聞いた。それは今でも感謝している担任の先生のおかげだ。授業は遅れるし、すぐ中断するし、授業中子供たちと唄って踊るし、頭のよかったお子さんの親御さんは嫌がっていたようだが、先生は誰一人として子供たちを置いていかなかった。下を向いている長男の顔をあげさせ、笑顔を引き出してくれた。友達と呼べる子達と休みの日に出かける事を経験できた。

その後中学でいじめをきっかけに不登校になり、自分より体の大きい息子を家から追い出す事も出来ず、スクールカウンセラーの先生に3年間お世話になった。私は長男の気持ちも分かる面もあったが、いじめられた経験のない父親は「やられたらやりかえせ」と言う。「そんな事出来ないよ」と言う長男を私は大好きだった。

結局長男は普通高校に進学できなかった。その事で私の腹がすわった。とことん付き合おう。20歳までになんとか世間になじめたらそれでいいじゃないか。この願いはもろくも崩れるのだが。

そんな長男も、国と病院のお世話になりながら一人暮らしが出来るようになった。私達親が死んだ時に生きていけるだろうか。という心配が、少し薄れてきた。あと少しかな。うん。

そして次男。彼は生まれたときからマイペース。ことごとく手のかかる長男のおかげでか、よく寝てよく食べ、よく遊び、周りにかわいがられいじられキャラを確立し育ってくれた。2~3歳の時はよく脱走された。マンションから1個上の友達と遊びにいき、いつも行かない方向の公園で遊んできたり、スーパーで自主的に迷子になったり・・・

唯一申し訳ないと思ってしまったのが、6年生の卒業式にもらった手紙に「ぼくはお兄ちゃんのようにならないようにがんばって中学校に通います」と書いてあった事。ぼろぼろ泣いてしまった。無意識のうちに次男にプレッシャーを与えてしまっていたのだろうか。

そんな次男も人に美味しい物を提供する仕事に就き(今はこのご時勢で店は休業中だが)一人暮らしを満喫中。たまにふらっと帰ってきては夕飯を食べて帰っていく。急におかずの分け前が減るので慌てて増やす母親の苦労をまったく気にしていないようだ。そんな次男が大好きなのだが。

そして末娘。男二人続いたので、妊娠が分かって母親に電話したときに「あんた、男の子やったらどうするん!!」ってあきれられたが、出産の時、先生の「女の子ですよ~」の声で隣の部屋から「きゃー!」と拍手が聞こえてきて驚いた。3人目ともなると、私も産後1時間半で寿司の折り詰めを貪り食う事もできた。図太くなるもんだ。

そんな娘は女の子が好きなものが大好き。小さい頃から自分の服は自分でコーディネート。『その柄にそれあわす??』事も多々あり。人の化粧品で顔に塗ったくる日も多く、そのまんま成長して自分の好きな事を仕事にする為に日々努力中だ。唯一の女の子なので、もちろん大好きに決まっている。

一番下で女の子というのもあって、甘やかされて育ったところもあり(兄達からは全く甘やかされていなかったが)自由奔放な面もあるかもしれないが、ちょっとうらやましくもある。父親はきっと目に入れても痛くないであろう。「私よりも娘の方が大事何やな??」って言ったとき、「当たり前でしょ」と言われた事は一生忘れない。ちなみに一生忘れないって思ってる事はなんぼでもある。夫婦と言うものはそんなものです、所詮。

そういえば、子供たちが小さい頃、よく「3人の中で誰が一番好き??」って聞かれた。最初は「みんな大好き」って言ってたけど、もちろん納得してくれない。そういう時は「○○だよ(その時聞いてきた子供の名前)」って小声で言ってあげると、めっちゃ喜ぶ。3人全員に同じ事を言っていた。子供たちは大満足。後、ほかの子がいない時、「二人に内緒やで」って言って、美味しいものを食べたりするとめっちゃ喜んでくれる。私は3人分美味しいものが食べられて一番得をする。いいの、母親やから。

長い結婚生活の、この28年のなかでも離婚の危機はたくさんあっただろう。こっちに引っ越してきて、友達もいなくて親戚は旦那の方だけ、頼る人もいない。何年かはしんどかった。ノイローゼ(今で言う鬱?)になって長男の怪我(↑参照)の後に流産で精神がボロボロになった。実家に帰りたいと電話をしたら母親に「帰ってきたらあかん。帰ってくるな」と言われてショックだった。代わりに父親が1週間長男と遊ぶ為に来てくれた。徐々に私のストレスも軽減された。

結婚10年くらいからは空気みたいな夫婦関係。周りもそんな夫婦が多く、喧嘩もしないが会話も少ない。旦那は仕事、私は子育てとパートで一杯だった。そして結婚20年を迎える頃転機が来た。

自分と同じ頃に結婚していた親友のご主人が急病で他界されたのだ。

夜中の電話で知り、次の日の朝から旅行センターに行き、午後からの便をとりまっすぐ空港へ。すぐ行けと言ってくれた旦那に感謝をしつつ、お通夜に間に合わなかったが、終わった頃斎場に着いた。親友のご主人も昔の遊び仲間だったので、当時の面子にも再会・・・なんでこういうときに会うんやろね。斎場を出たらちょうどサーキットの花火の音。あいつこの花火好きやったなって皆で思いを馳せた。

親友はその後、日本にいるのは辛いと、夫婦の思い出の地、バンクーバーに住んでいる。英語を勉強し、医療も勉強し、少しでも病気の人の手助けがしたいと、日本にはない資格RMT(医療マッサージ)を取得。クリニックで働いているのだが、コロナの影響でクリニックも休業。このまま仕事がなかったら就労ビザが切れてしまう。その前に復帰できますように・・・

その親友がいつも言っている言葉「そばにいたい、話したい時にそばにおれやんのは辛い。ぜひ、夫婦は仲良くしてほしい。後悔しないように」と。

その頃から私の考えが変わった。なるべくあたりまえと思わず、ありがとうを言おう。思いやりを持とう。会話をしよう。それから子供を置いて二人で旅行に行くようになった。結婚記念日にはふたりで食事したりするようになった。

子供たちがみんな独立し、夫婦ふたりになってもきっと大丈夫。周りに感謝して、主人にも感謝を伝えられる。主人は言ってくれないけど(笑)

それが私の幸せのかたちだ

#キナリ杯

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