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GEZANのアルバム「狂(KLUE)」から感じた“個になる”ということ

※2020年2月1日に別ブログで書いた記事を持ってきてます。

僕はTwitterのTLで誰かが話題にしているミュージシャンはできるだけ聴くようにしています。

そもそも知らない音楽を発見するのが趣味みたいなところがあるし、そのためにフォローさせていただいている方も多数いるので、そりゃそうなんですが。
その中で2018年くらいから「GEZAN」というバンドの話題がちょいちょい耳に入ってきてました。
あとから答え合わせしたんすけど、「全音楽祭」というイベントを主催したりフジロックに出演したことでファンの方は熱が入ってたみたいですね。
中心人物の「マヒトゥ・ザ・ピーポー」という人はSIMI LABのOMSB氏とかとなんかやってるみたいなニュースを見た気もしてたので(実際してた)「ラッパーなのかな?」くらいのしょぼい理解でございました。
んで聴いてみたら荒々しいバンドサウンドで、ボーカルもシャウト気味。しかもその声も何とも独特で幼児のようなアニメキャラクターのような…。
ロックのジャンル分けは正直よくわかってないですが「ハードコア?ってやつなんかね?」と。
当時も、というか今も激しいバンドの音に苦手意識があるので僕の趣味じゃないなというところで聴くことを止めてしまってたんです。


2020年、GEZANの「東京」という曲のMVがリリース。
https://youtu.be/kqm-84TF9MQ
これが先述のGEZANのハードなイメージを、消してはいないのですが、何か、「違和感」を持つ内容だったんですね。
「この1曲で完成していない」ような感じで。
「アルバムがそろそろリリースされる」という話が入り、何となく聴いてみたいなと思わされる内容でした。


で、1月29日GEZANのアルバム「狂(KLUE)」がリリース。


正直初めは聴いててよくわからなかった。
「なんか荒っぽい音響だな…ダブっぽいのか?」つって、耳に合わないし聴くのやめようかと思ってたらいつの間にかアルバムが一周してるんですよ。
「え?結構トラック数あったよね?」と思って再度聴いてみたらほとんどの曲がシームレスに繋がっており、しかもBPMが全て同じ。
そして曲中に使われるシャウトのループやリフレインが別々の曲に跨って使われているので、長い1曲を聴いているみたいな感覚になってたんですよね。
その流れや繰り返し方が絶妙で、サブリミナル的に頭にこびりついて盛り上がっていき、先述の「東京」という曲に帰結するカタルシス。ラストにくる「I」はそれでも人を信じることを歌い優しく包んでくれる。
「東京」をMVで聴いた通りの違和感は正しかったようで、あれはパズルの1ピースでしかなった。これアルバム通して聴いた時のパワーが半端じゃないわ。
声が合わないとか音響が好みじゃないとかそういうレベルじゃないんすよね。
作品としての完成度の高さ。
ジョジョ読んだ後に「絵柄がちょっと…」って言う人あんまりいないみたいな話ですかね。
いつのまにか3周目を聴き始めながらマヒトゥ・ザ・ピーポー氏のインタビューを読んでみました。

『踊るときって自分自身でしかなくなる。その果てには自分自身ですらなくなるっていう次元があって。』

『俺なんかもマヒトゥ・ザ・ピーポーというふざけた名前で24時間生きているような気持ちになってるけど、たとえば盆踊りで櫓(やぐら)の周りをずっと回っていると、自分も含めたおのおのの人格が溶けていくような感覚になってきて、「マヒトゥ・ザ・ピーポーなんてどこにもいない」ということを知るんです。』

『全部に通じているのは、人間っていうものを解体して孤独でいるってところ。集団に運ばれてるときって疲れないから楽だけど、ひとりぼっちになることは自分が周りのことを考えられる状態だと思う。みんなで掛け合わせてる間は思いやりなんて成立しない。』

『〈誰のことも信用しない〉ところから関係性を始めたいってすごく思う。友達っていう枠組み、恋人っていう言葉、○○クルーみたいな言葉を先に作って、わかりやすく自分の居場所を得てしまうと、安心はするんだけど、たぶん安心なんかしちゃいけないんですよ。』


ここ数年(10年近く?)音楽市場において「踊る」ということがトレンドになってたと思います。
それは「フェス受け」するだったり「今のトレンドだから」とか、「シンプルにそういう音楽好きな人が増えた」と様々な要因があると思うのですが。(そして僕もそういう音楽が好き)
このアルバムに関しては全く違う次元のテーマ、「個人を浮き彫りにするための踊り」というプリミティブな部分が見え隠れしていて、それは自分自身よく感じるところでもあります。特にクラブで。
暗い空間で酒に酩酊しながら、振り付けがあるわけでもなくユラユラと揺れているといつのまにか普段の自分からは想像できない動きや気持ちの高揚感が生まれてきて、足腰いわしたりするんですよね。
改めて考えると普段の生活や集団、ストレスから解放された「踊る自分」だけがいる感覚が確かにあるような気がします。


話はガラッと変わりますが、最近、世の中に辟易することが多くて。
僕は基本的に差別的な思想・相手を尊重しない振る舞いが嫌いです。
性別や人種や生まれや貴賎によって虐げられたり中傷されることは絶対に許されないと思ってます。

思ってる。けど、そんなことをする人達を同じようにレッテル貼って攻撃することが果たして正しいのかということが最近考えてることでして。

ある政策に関して現政権を擁護する人を「ネトウヨ」と一言で片付けるのは簡単なんですけど、けどその一言にまとめた人の中には普段は野党支持だけどその政策に関してだけは肯定する人がいるかもしれない。
もしくは強烈な野党批判してる人も実は別の話では与党についても批判的な話をしているのかもしれない。
そういう人々のグラデーションを一言でまとめめてしまっていいのかなと。


多様性の時代に生きる僕らだからこそ、無闇に主語を大きくしてはいけないと思うんです。
沢山の人がいるからこそ、雑に一つにまとめてはいけない。
個人として対峙しないといけないし、自分も個人として意見を表明しないといけない。
じゃないと分かり合えるわけないと思うんすよね。
僕らは嫌なこと言う奴らを屈服させたいんじゃなくてきちんとわかってもらいたいわけですよ。(そうですよね?)  


マヒトゥ氏の言葉を引用すると「ひとりぼっちになることは自分が周りのことを考えられる状態だと思う。」なんじゃないでしょうか。
所属することは確かに安心だけど、逆にそうでないものに対して攻撃的になってしまう。
でもそれでは優しい世の中っていつまで経っても生まれないんじゃないかってのが最近の個人的肌感覚です。


そのために我々は踊る必要があるのかも。
我を忘れて所属を忘れてしがらみを忘れるために踊り狂う必要が。
2020年、そのためのミュージックがGEZANによって与えられた「狂(KLUE)」なのかしらと思ったりしました。

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