二人四脚で軽やかに
ずいぶん前の話だけど、Codependent No More(「共依存症 いつも他人に振り回される人たち」)という本がベストセラーになった。
dependentは「依存・頼ること」だから、それに co がつくと、「依存し合う、頼り合うこと」という意味になる。人間だれでも助け合い、頼り合える人がいてこそ生きていけるものではあるけれど、特定の人にあまりにも依存しすぎたり、その人への愛着心が強すぎると、「その人なしでは生きていけない」という不健康な関係を作り上げてしまう。
こういう関係は親子・友達・先輩後輩などでもありうるけど、一番多いのは恋愛関係。
いつも一緒にいて、一見すごく仲のいい幸せそうな二人の心の中が、不安や不満でいっぱいということがある。相手の言動が信用できなくて、お互いを縛り合い、ケンカの後は、泣き、謝り、ベタベタ、うやむやの繰り返し。
codependentな関係にある人たちがよく口にするのは "But, I still love you." 日本語だったら、「お前だけだよ」「やっぱり一番好き」とか?
この魔力に満ちたセリフは、万能薬的効果を奏する。(この love が曲者で、実は love ではなくneed だという説もあるけど、それについてはまた別の機会に❤)
とにかく、必死で「お前・きみ・あなたがいないと、俺・ぼく・私は生きていけない」と訴える。
これって、何かに似てる。そう、運動会でやった二人三脚だ!
片足を相棒の足にくくって、一緒に走る。足の速い相手だと、自分の足は宙を浮き、連れて行ってもらえる。でも、相手がつまずけばこっちも終わり。遅い人は引っぱって行かなきゃならない。
一緒に進むために、無理に相手に合わせ、我慢を続け、様々な操作(マニピュレーション)で努力を重ねるものの、結ばれた片足のヒモをほどくつもりは毛頭ない。
相手に対する執着は、酒タバコ麻薬中毒と同じぐらいの引力を持つという。その引力の素は、相手の収入や地位かもしれないし、感情的、性的な愛着か。または、二人の間にできたかけがいのない子どもへの思いや壊したくない生活の安定かもしれない。
あるいは「自分が必要とされている」という自己肯定感を高めるための必要不可欠な条件か。
私の結婚もcodependentだった。幸せな時間もいっぱいあったけど、お互いに相手への無言の期待があって、それが裏切られるたびにへこんでた。そのうち、縛られた二本足がもつれてきて、足並みがずれ始め、ヒモをほどかないことにはどうにもならないという事態に陥った。
もちろん「ヒモをほどいて自分の二本足で立ちたい」なんて、かっこよく思ったわけじゃ全然なくて、ほどかざるをえない所へ押しやられたという感じだった。
それからは、びくびくヒヤヒヤしながら、一年以上かけて、もつれたヒモの解きほどきをやっていった。あのままほっといたら、どっちかに不倫相手とかが現われて、無理やりヒモを引っ張られ、いきなり足元をすくわれるなんてことになってたかも。
お互い頼り合ってたら大助かりだし、自分で考えたり、やらなくてもいいことがいっぱい。しかも、いろんな悩みはあっても「自分をこれほど必要としてくれる人なんて他にいないよ」というササヤキが愛着を強める。
それでも、このままでは共倒れしかないというところまで来てしまったら、前に進むしかない。ヨロヨロだけど、自分の足で歩くしかない。怖いけど、一歩一歩踏み出すしかない。
私も自分が離婚するなんて夢にも思っていなかったけど、ヒモがほどかれた足たちは二本足の歩行に戻ったのを喜ぶかのように、確実な足取りでそれぞれの方向へと歩み始めていた。
この段階で、たまたま別の相手に出会って支えてもらうというシナリオは理想ではないけど、それもあり。でも、相手が違っても、片足を縛られてる限りは同じことの繰り返しとわかったら、今度こそはがんばって、自分の足をだれかに委ねるあり方を断ち切る努力をする。
たばこやお酒や麻薬の誘惑を断ち切るみたいに。
Codependent No More!
初めはヨチヨチでも、そのうち、きっとそのうち、すごい開放感に満たされる時が来る。
あの「相手次第」だった日常が、すっかり「自分次第」になってる。
こういうのを本当の意味での「縛られない関係」って言うのかも。
親子でも、友達でも、恋人でも、夫婦でも、「二人四脚」でいけるといいなあ。好きなペースで歩める関係。スキップしたり、立ち止まったり、ちょっと戻ってみたり、ステップの決まってない自由なダンスみたいに💃
メロディーにのって、軽やかに踊りたいね~