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ボツ原稿の行方

 ボツ原稿をどうするか。いまはもう解決済みだが、以前のカーラにとって、それは悩ましい問題だった。
 まだプロの物書きではないカーラのことだ。ボツ原稿というのは、編集者にダメを出されたものではなく、何らかの賞に応募して選外になった原稿のことである。一次予選も通らなかった原稿をどうするか。それはそのままにして、次の作品に取り掛かる。悩むこともないように思われるが、これが結構悩みの種になることがある。いまではない、以前の話である。
 松下幸之助ではないが、「こけたら立ちなはれ」ということで、ボツになったから次を書く。聴けば簡単なことのように思われるかもしれない。
 とはいえ、例えば原稿用紙で400枚の文章を書くということは、結構な労力である。その前の準備段階、推敲などを含めると、なんだかんだで1000枚かそれ以上書く場合もある。パソコンでほぼすべてをまかなっているから見えていないだけで、これを紙でやっていれば部屋には、反故にした原稿用紙やら切り貼りした原稿用紙の断片、果てはメモやノート類が散らばり、一作完成するごとに後片付けが大変だということになっていたはずだ。
 カーラが言いたいことは、それだけの労力を費やした長編だ。出来不出来はともかくとして愛着があるに決まっている。そして執着もある。
「これはそんなにできが悪い作品じゃないかもしれない」
 と、執着は囁きかけてくるのである。「ここはひとつ書き直して、別の賞に出してみたらどうだろう。大幅な改稿は必要かもしれないが、それでも0から始めるよりもよほど早く一本書きあげることができる。そうじゃないか?」
 確かに0から始めることは大変ではある。別に小説に限ったことではない。カーラの住まう福祉の世界でも、初めての利用者の支援計画を作ることは労力がいる。無から有を産むことは大変なのだ。だったら今ある材料を元手に、書き直すことも悪くはない。そんな気分になってくるではないか。この誘惑はかなり強力だ。
 しかし、カーラが実際にそれをすることはなかった。理由は、小説家を目指す人のための参考書(小説を書くための参考書ではない)の中に、
「うんこは磨いてもうんこだ」
 と、やや尾籠ながら、初心者に向けた助言を目にしたからである。もっともこの参考書の著者は、過去に使いまわしを結構やったらしい。自分がやったのに? と思いたいところだが、取あえず先達の言葉にカーラは従うことにした。理由は判然としなくても、その道の先輩のいうことには、一度は従ってみようと考えたからだ。それに最近の懸賞小説の応募規定は使いまわし禁止である。今回、あれこれ書いているのは、使いまわしではなく、加筆訂正についてである。
 ボツ原稿の使いまわしについて、世間には別にいいじゃないかという意見もある。あるいは、有名作家がそれをしているということも知った。セックス・アンド・バイオレンスを描く元純文学作家、勝目梓氏。勝目梓氏の『獣たちの熱い眠り』は、新聞連載小説だったが、そのときは評判が悪く、ラスト一回を残して打ち切りになったらしい。勝目氏はそのリベンジのために、評判が悪かった連載小説を改稿、改題した『獣たちの熱い眠り』を発表した。その作品はベストセラーとなり、確か三浦友和さん主演で映画化もされたはずだ。ほかにもそう言った話は聞く。なぜ旧作を改稿するのはだめなのか。その問題について納得できる理由を、カーラは三作目の長編を書くまで見つけることができなかった。
 カーラが今まで過去作品を書き直すことをしなかったのは、運によるところも大きかった。ひとつの作品が完成に近づくと、次の作品についてアイデアというかヒントのようなものが浮かんでくるのである。この場合の完成というのは、第一稿を書きあげるということではない。推敲をして送ることができる状態になるということだ。次の作品についてヒントのようなものが浮かび、そちらの方が面白そうに感じて、過去作の書き直しに手を出すことなく済んだのである。運がよかったというのは、実力ではないということである。それが実力なら、とっくに何らかの賞に引っかかっているはずだ。
 それはともかく、今回、三作目の長編をある賞に送ったあと、ふと思いついて、過去に書いたものを読み返してみた。新人賞に送ったものではなく、それはnoteにも送っていない作品だ。カーラのパソコンとSSDの中で深く眠っている作品たち。ちなみにカーラにはそういった作品が10本ほどある。50枚くらいの短編から、150枚前後の中編、それと長編が1本。長編は、絶対に自分のカラーではないと思える駄作の400枚。その400枚は、長編3本を書く間に思いつきで書き上げた。一応推敲はしてあるが、とても読めたものではない。
 それらを読み返して思ったことは、
「これは無理だ」
 と、いうことである。お話にならない。カーラが書き上げた作品は、賞に送った長編が3本、おもいつきの400枚が一本、中短編が10本、それからnoteで発表したものなど、合計30本に満たない。その程度の経験を経た目で見ても、下手とわかるほど下手である。多少手を加えたところでどうなるものでもないことがよくわかった。
 ボツになった作品を書き直すという作業は、ある一定の水準に達していないと意味がない。確かに、うんこは磨いてもうんこだ。
 それらを書いたときは、いわば書き上げるだけで精いっぱいだった。自分で評価するまでに至らなかった。評価できるほどの実力も経験もなかった。だが作品をひとつひとつ積み上げていく過程で、ほんのわずかでも、自分の中に積みあがっていくものがあったのだろう。自分の下手さが、より具体的にわかるようになってきたのである。
 自分が書いた作品をどこかの賞に送って、ボツになった。だから書き直して、別の賞に送る。あるいはそのまま送る。確かに合理的な考え方ではあると思う。だが、青息吐息で書き上げた作品である。いまでも長編一本を完成させるのは青息吐息だとすれば、多少は体が慣れてきているとはいえ、その程度では、目の覚めるようなものに生まれ変わらせることはできない。作品がだめなのではない。そもそも書いている本人がだめなのである。
 確かにある賞で落ちて別の賞に送ったら、賞がとれたという人もいる。しかしそれはもともと高い実力があってのことで、カーラのような駆け出しが真似をしたところでうまくいくようなものではない。不人気だった作品を『獣たちの熱い眠り』として復活させた勝目梓氏は、その前にすでに十分な実力を蓄えていた。北方謙三氏には、ボツ原稿を積み上げたら自分の背丈になったという苦闘話がある。赤川次郎氏は3000枚、高校時代にすでに書いていたという。無駄を惜しんではものにならないと先達は教えてくれている。一見無駄のように見えても、真剣に取り組み、ひとつひとつ完成させていけば、それは実力として自分の中に蓄積される。ボツ作品を再生させるのは、確かな実力がついてからの話だ。ボツ原稿は、実力がついた日のためのストックだと思えばいい。
 黒澤明の言葉で、カーラの印象に残っているものがある。
 日々稽古を重ねる。そのときは進歩がわからない。それは紙を一枚一枚重ねていくようなものだ。だがある日、とてつもなくうまくなっていることに気がつくはずだ。

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