カーラと福祉
カーラにとって福祉の仕事は、選択の余地もなく始めたところがあり、自ら進んでそれを選んだわけではなかった。
一般企業に勤めていたころ、不倫をして、相手の奥さんに会社に乗り込まれ、カーラは破滅した。その状況は、カーラがnoteに書いた小説『来る!』のなかで書いた。あそこで書いたような激しい罵倒も暴力も現実の場ではなかったが、それに近いことはあった。
自主退職の形を取っていたが、実質的に会社を解雇され、故郷に戻り、2年間の引きこもりの末に、福祉の仕事を始めた。どんなに落ち込んでいるときでも人は働かねばならない。食べて行かなければならない。
結局、追い詰められて始めたのが、福祉の仕事だ。困っている人のためや、社会を変える一助になればと思って始めた仕事ではなかった。食べるために仕方なく始めた仕事であり、成り行きに任せて始めた仕事だった。
それまで華やかな場所にいて、華やかに仕事をしていたカーラが、高齢者の食事介助をして、排泄物の処理をして、風呂に入れ、ときに理不尽に叱られ、汗まみれになって働くことになったのである。ギャップは大きかった。給料も安かった。何度も辞めようかとおもった。だが、ここで辞めれば、一生外に出て行くことはできないかもしれないという不安が、カーラを、そう言ってよければ支えた。
カーラの苦痛は、なれない仕事をしているということだけではなかった。他人の目もあった。カーラが都会でしでかしたことを、知っている人は知っている、そんな不安は常にカーラにつきまとった。
もちろん、家族もそんなことを話したりしない。だが、それでも誰かがカーラがかつて勤務していた会社でしでかしたことを知っていて、隣近所に吹聴している。まさかそんなことはないと思いつつも、その不安は消えず、カーラとしては身のすくむ思いで働いた。
しかしそれもこれも身から出た錆。それこそ自己責任だった。耐えるしかなかった。
気がつけば福祉の仕事について十数年が過ぎていた。
カーラもベテランといわれるようになっていた。カーラの福士人生も紆余曲折があり、いつか介護福祉士となり介護支援専門員となり、いまはとある社会福祉法人の居宅介護支援事業所に勤務していた。
前回、長編第2作完成応募報告のつもりで書いた『果たして、何がなんでも新人賞は獲れるのか』の中で、カーラは自分が勤務する法人内でおきたパワハラについてちらりと触れた。
詳細な物語はいつか書くとして、福祉という世界についてカーラは語りたいと思っていたし、いまも思っている。
一度は諦めた小説をまた書きはじめた動機のひとつがそれだった。福祉業界とはどんな世界なのか、カーラ自身が感じたことをみんなに伝えたいと思ったこと、それは、決して小さくない動機のひとつだった。
福士の世界は美しくない。上司も同僚も根性が悪く、結局好みで選ばれる世界だった。嘘ではない。人間性がむき出しになる世界なのだ。
noteに最初に書いた短編『エロス+福祉 支配と妄想』はずいぶんどぎつく福祉施設の管理者の性欲を書いた。カーラは彼を知っている。もちろん彼の性癖までは知らないが、そのえげつないまでの支配欲は、カーラにとって不快極まりないものだった。
彼は自分の理想を、職員に押し付けようとした。それも当然のように。そのやり方は、ある種の強姦であるように思え、カーラは復帰第一作を書いた。エロ話なら耳目を集められるだろうという下心は、残念ながらカーラにはなかった。あの管理者の醜い支配欲を表現するにはあれが一番だと思ったのだ。
『エロス+福祉』というタイトルだが、(冗談でいえば)もちろん奇を衒ったものだ。エロスと福祉。福祉そのものを汚すようなタイトル。ATGという映画で『エロス+虐殺』というものがあり、そこからタイトルをいただいた。あのタイトルをつけたときは、あれが一番のように思えた。ひどいセンスと言われれば、反論はしない。
しかし、奇を衒っただけはない。アイデアを生み出す場合、異質なものを組み合わせろという鉄則に従ったとカーラ本人は思っていた。
例えば『点と線』『天国と地獄』『水の炎』、ベルイマンの『叫びとささやき』もある。ほかにもいっぱいある。これらはタイトルだが、内容的にも異質なものを組み合わせたものは多々ある。
例えば平井和正氏の『ウルフガイシリーズ』は現代に伝説の狼男をよみがえらせたものだったし、矢作俊彦・司城志朗両氏の『暗闇にノーサイド』は最後に赤穂浪士の討ち入りのような復讐劇を配置している。S・キングの『呪われた町』は現代アメリカの田舎町と吸血鬼の合体だった。最近瞠目した大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、鎌倉武士団と『ゴッドファーザー』もしくは『仁義なき戦』の、さらに美しい合体だ。
カーラは福祉の世界にあるある種の暴力性をどぎつく描きたかった。
だから福祉の世界で時々(あるいは頻繁に)見かけるタイプ、支配欲と独善が細胞の隅々にまでいきわたっているような、実に不愉快な人物をどぎつく描くために、グロテスクで滑稽な性的描写を書いた。
あれは、誰に読ませるというよりも、カーラ自身が読みたい小説だった。あの小説が普遍性を持ちえないことはわかっていた。誰に読ませたいかが明確ではなかったからだ。
もちろん年相応にスケベなカーラではあるが、自らの性欲を散じるために書いたものでもなかった。福祉業界で支配的な立場に立ったものの、歪んだ支配欲を書きたかった。極めて個人的な体験ながら、そういう連中をカーラは数限りなく見てきた。
どろどろの人間性がむき出しの世界。カーラの小説における再始動は、自分の知っている世界を描くことからはじまった。
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