聴講メモ 令和4年2月17日 春期講座 講師 元同朋大学学長 尾畑文正師 「この地上に確かに人として生きる」
本日は富士松地域浄土真宗8カ寺で毎年行われる春期講座を執り行いました。普段は一般参詣を中心とした法話を頂きますが、今回はオミクロン株の状況から僧侶のみの勉強会として開催しました。
尾畑先生が同朋大学で学生をされていたころから、上田義文先生が近所にお住まいで、毎月勉強会にお招きして『唯識三十頌』の講義を受けたこと。当時は「摂大乗論」と「宗教の諸問題」という2つの講義ゼミをお持ちで、その「宗教の諸問題」では学生たちからの様々な質問に宗教的立場から応え、ティリッヒの組織神学なども、その内容の優しい「究極を求めて」などを紹介して広範な知識と仏教者としての姿勢を感じさせて頂いた話を頂きました。
また上田義文先生は鈴木大拙先生とウィスコンシン大学で教鞭をとられ、その帰りに大拙先生がハワイ、オアフ島で本願寺派開教師に講義を行われた話を頂戴しました。
大拙師はその講義の最後に質問の時間を設けるも、質問者がいなかったので、聴講者たちに逆に質問を投げかけたそうです。
「なぜ浄土に往生するのですか?
なぜ浄土に往生しなければならないのですか?」
答える者がいなかったので、大拙師は自らその答えを述べたそうです。
「浄土に往生するのは、穢土に還るためです。」
これを尾畑先生は還相回向の表現として「この地上に確かに人として生きる」という言葉で語りたいとのことでした。「浄土を根拠として、娑婆世界を生きる」。
(これは私が「無仏の国土において仏事を施作す‐仏なき暮らしが仏に遇う‐」という地域の教化テーマに応えて頂いたことと思っております。)
一般家庭から坊主になりたくて、寺に入った尾畑先生ですが、寺は思うような世界ではなく、いつでも寺を出たい出たいと思って過ごしておられたそうです。
しかしながらそれを変えてくれたお檀家さんがおられたそうで。それはその地域で中学校の校長先生をされていた方で、区長さんとしてお寺に深くかかわって下さった方でした。またその中学校地域は古くから差別をされてきた地域と隣接しており、差別問題に深くかかわっておられた方でした。
その方との出会いでもって、寺でも差別や社会問題を語り合う相手ができ、お寺というのを考え直されたそうです。
もう一人、お寺で大きな出会いが軍人として南京から転戦し、フィリピンでつかまり、日本に帰ってこられた方でした。必ず祝日には国旗を掲げ、戦後は農協の役などをされたバリバリの保守で村のリーダー役の方でした。
しかしこの方は戦争反対を叫ぶ方でした。
「住職、戦争は人を変えてしまう。戦争が始まったら仏心なんぞ、どっかいってしまう。だから戦争だけは絶対にやってはならんのだ」と
そういうことで、お寺で戦争を振り返る講演会をして頂き、地域のリーダーのお墨付きを頂いたようなもので、尾畑先生のお寺は戦争反対を堂々と掲げるお寺として活動できたのだそうです。
そんな方々と飲むのが尾畑先生は好きで、その元校長先生の不良でも校長先生には心を開いていた教え子の人たちとカラオケに行ったりしたそうです。そして現役の先生と元先生に歌を送りたいと言って歌ってくれたのが尾崎豊の『卒業』だったそうです。しかし尾崎豊が26歳の若さで亡くなったのは、歌の中にあるように「本当の自分」を求めて、今の自分を否定し続けなければならない苦しさ、今現在の自分を受け止めれない苦しさ、それこそが尾崎豊が若者のまま死なねばならなかった苦しみではないかと思う、とお話頂きました。
それは、他者の支配を「卒業」という言葉で拒絶するだけでなく、その純粋さは自らが自らをしばっていることを許せない、自分を嫌い続けていく人生の苦しみであり、そういう自分を自分の意識では受け止めきれない苦しさです。
尾畑先生はそれこそ『浄土論』にある「不虚作住持功徳」が応えようとするものである。『浄土論註』には「ただ自力にして、他力のたもつことなし」とある。誰も自分を引き受ける者はいない、自らでもって、自らを引き受けようとする、それこそ尾崎豊の苦しみでないかと感じたそうです。
嫌だったお寺の意識を変えてくれた方が、肝硬変、肝臓がんでの意識不明の中、病室に見舞って手を握った時、その存在の尊さを感じた。
「見失っていた世界を見出させる」「不虚作住持功徳」、「本願力に遇いぬれば、空しく過ぐる人ぞなし」と謳われるそれは、何らの価値づけ、所属も必要としない、ただそこに生きているだけで尊い世界。それが阿弥陀仏の国土のはたらきである。阿弥陀仏の国土の発見は、空想への逃避でなく、むしろ現実の私を受け止めて生きていく「この地上に確かに人として生きる」そのような在り方を示して下さっている。
多少、メモをつなげるために話を前後させましたが、上記のごとく私は聞かせて頂きました。