真宗の帰敬(ききょう)式(しき)と遠藤(えんどう)周作(しゅうさく)のキリスト教洗礼(せんれい) 釈行信「常々無常流々流転」No,003 『西念寺だより』平成21年5月号掲載
遠藤周作は前にコーヒーのCMにCGで出てた人で作家さんです。その著作の『イエスの生涯』には人間としての弱者イエスが描かれています。どうやら遠藤さんの素直に頂けるイエス像を書いたようです。今回はそのあとがきに遠藤さんの洗礼について書いてあったので、それについて書こうと思います。
遠藤さんは熱心なキリスト教徒の母によって11歳で洗礼を受け、それを「合わない洋服」と評しています。しかしながら、母が自らを愛する故に着せたその服に違和感を持ちながらも、自らに確信した生き方がないのに脱ぐことができなかったそうで、また若い時はそれが自らを支えることがあったのも事実だそうです。やがて、その服で一生を生きようと決心します。それは、人間はいろいろなことはできないから、一生でひとつのことを生きるべきと知ったからだそうです。
遠藤さんの洗礼に対する態度は、真宗の帰敬式を私には意識させます。例えば、与えられた服で生きる決心は親鸞の唯だ弥陀をたのみ、念仏申すしかないという凡夫(ぼんぶ)の身の確信を私に想い起させます。また、洗礼によってキリスト教徒として生きることを通して遠藤さんは自らの生き方に試行錯誤(しこうさくご)をしたようです。
帰敬式というのは、今までの生き方以外の生き方が提示されているように見えるかもしれません。しかし、本当は単にどちらかの生き方の否定し、どちらかを肯定するというものではなく、私の生き方自体についての問いと支えをもらうというのが帰敬式の大事なことかな、と私は模索(もさく)しています。
「帰敬式」
真宗大谷派において、僧侶でない一般人が法名(ブッディスト・ネーム)を受ける儀式。