浄土の迷失 釈行信「常々無常流々流転」No,007 『西念寺だより』平成21年9月号掲載
(くる年くる年 花は相似(おなじ)くわかわかしいが、めぐる歳めぐる歳 人は不同(さまがわ)りとしよっていく。寄言(きいてく)れ、全盛(いまはさかり)の紅顔子(わかいきみたち)、この半死(しにかけ)の白頭(しらが)翁(じじい)を応(ふさわ)しく憐れんでくれ。)
言(ごん)走り心(しん)跳びて 菩提(ぼだい)荒ぶる、作(さ)心(しん)盛りにして 卑下(ひげ)慢心(まんしん)に浮沈(ふちん)す、紅顔(こうがん)いよいよ赫(あか)く 白頭(はくとう)をしらずして 身の崩落(ほうらく)をゆるさず。
以(もっ)ていまだ仏願に乗ずるを能(あた)はず。唯(た)だ、首(こうべ)を垂(た)れ、大地に伏(ふ)して礼拝せんと望む事(じ)を欲す。
釈行信
先日、『漢詩百選』という中公新書を読みましたら、非常に心打たれる感がありまして、自分も漢詩を作ってみました。漢詩を作ってみて気付いたことがあります。
最初に挙げた龍希夷の前半は中国の詩に多く見られる悠久(ゆうきゅう)な世界観が表れています。後半で語られる白頭翁の悲しみはこの世界観と並べて歌うところに救いがあるような気がします。
自分のは何と言いましょうか、世界の広がりがない。具体的には龍希夷の詩の後半しか歌っていない。だから救いがない感じがします。私の詩で、龍希夷の前半に当る内容を入れるのであれば、「浄土」という世界の広がりでしょう。しかし、それが言葉になってこない。だから懺悔(さんげ)ではなく反省へと流れる、礼拝(らいはい)ではなく努力へと流れる、仏(ぶつ)と凡夫(ぼんぶ)という関係を見失う。「仏教」ではなく「私教」になっていく。「浄土」という広がりを失って孤独に自我を研ぎ澄ましていく。その研ぎ澄ました刃で人を痛烈に批判する。批判されたものもいよいよ心を固くして沈黙し孤独の連鎖が増していく。
生きるために「浄土」の回復が危急の課題と思われます。人はパンのみに生きるにあらずです。
この違いは、単に私だけが自分の内面描写に熱心であるということではなく、表現方法の違いなのだろうと思いました。
つまり、故人の彼らとて自分と無関係に情景を描写するわけではないでしょう。むしろ、感動した情景の根底には、感動する故人その人の視点があるはずです。その視点はやはり故人の心情をもとに出来上がってきたものでしょう。私は直接、抽象的に表現しましたが、彼らは情景を描写するところに間接的ですが、本来何とも言葉にならない内面の表現に見出しているのではないでしょうか。彼らは自分の感じたことが、単に悲しいとか嬉しいとかいう言葉でザックリと表現されるのでは満足できないものがあったのではないでしょうか。日本でも「はつはつはつはつ時計いき」や「わけいっても、わけいっても青い山」等はそういう世界があるようにおもわれます。
これは内面を単に内面として表現しない、外面を描写すことで内面を浮き彫りにしていく、ここに感動の共感の源があると思います。内面は単なる個人的な感情ですが、それが外面によって浮き彫りにされることによって、単なる個人感情だったものが、社会性を持って他者との共感へと展開されていく。
それは凡夫(迷いの存在)と仏(真実)の間でも同じようなことが言えるでしょう。凡夫によって凡夫を自覚しようとすれば、個人の苦悩が増大していき孤独に陥っていきます。特に、それは反省という形で始められ、その反省点を改善しようとするでしょう。個人の関心が内に向かえば向かうほど、自己関心が増大する一方で、他者への関心が減少していく、他者との関係も自分の反省の材料とした自己関心として消化されていく。反省することもまた自我を肥大化することになっていってしまう。
反省というと、そこから改善しなければならないというのが一般的な考え方ですが、仏教はそこから礼拝に至り浄土へと展開していく。それが仏教と世間の違いでしょう。人間の本質は凡夫、迷いであるので改善できないという立場に立って、我が身を仏に預けて生きる、それが「帰命無量寿如来」「量りしれ無い寿が群がる中から真実を要求する心が溢れ出ている、その要求を如来のよびかけとして頼りにしていきます。」という礼拝、つまり念仏に生きることに展開されていく。