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愚癡(ぐち)蒙昧(もうまい)を生きる 釈行信「常々無常流々流転」No,001『西念寺だより』平成21年3月号掲載


 国会の迷走。定額給付金をめぐる朝令暮改(ちょうれいぼかい)。補正予算をめぐる駆け引き。庶民の苦しみに向き合うわけでも、問題に取り組むわけでもなく、同座(どうざ)する姿勢を失っているようです。

 そして迷走しながら迷走ではないと、身を立てようと力んで言うことになります。迷いながら迷いに気付けない、それが最大の私の迷いです。

〔『同朋新聞』一月号「時言」 四衢(よつつじ)亮氏〕

他人事では済ませられないものがあります。

 自分が仏教について話そうとした後、非常にイヤな気分になることがあります。それは何か立派なことをしているわけでもない自分が立派なことを語った(又は語ろうとした)という事実を思うからです。それは坊さんらしくあろう、という計(はか)らいに気付くからでしょう。それはまさしく「身を立てようと力んで」でのことです。

 自分の理想の僧侶は人間社会のルールを越えた、仏法というルールによって生きる勇ましい存在でした。しかし、どうやら「越えた」という言葉を勘違いしているようです。実際には社会の中で生きようと、職業として坊さんをしようとする自分が浮き彫りになります。自分の理想の仏教を語ることで、その理想の仏教を生きていない自分が明らかになり、イヤな気分になるのでしょう。しかし、そのイヤな気分はあなたが求めている仏教は本当に迷いを越えていながら迷いの衆生と共にありつづける南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)の教えですか、という自分を照らす智慧(ちえ)の光明(こうみょう)ではないだろうか、と思っています。しかし、照らされてイヤな思いとは、…おかしい?。

 〔愚癡(ぐち) 言っても仕方がない事を言っては嘆くこと。もと、理非(りひ)の見分けがつかない愚かさのこと。/蒙昧(もうまい) 知識が低く道理に暗いこと。『岩波国語辞典』〕


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