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「常々無常流々流転」No,150 世の不安と死にざま 釈行信 『西念寺だより』令和4年2月号掲載    

 これは昨日、今日に思うことではございませんが、生きていくにたくさんのことが必要と言われる一方で、かつてのような豊かさのない未来を生きねばならないことに漠然とした不安を覚えることがあります。

 そのような未来に対する漠然とした不安の中で、改めて親鸞聖人の死にざまを思うことが多くなりました。ひ孫に当たる覚如上人が関東を旅して聞き集めた親鸞聖人の生涯をまとめた『御伝鈔(ごでんしょう)』には下記のようにあります。

仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします。自爾以来、口に世事をまじえず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言あらわさず、もっぱら称名たゆることなし。しこうして同第八日午時、頭北面西右脇に臥し給いて、ついに念仏の息たえましましおわりぬ。

 11月21日頃から、少し普段とご様子が変わられました。世の中のことをおっしゃらず、ただナンマンダブツばかりが口よりあふれていらっしゃいます。11月28日正午にはお釈迦様と同じような姿でナンマンダブツの声が聞こえなくなり、亡くなられました。

ここには阿弥陀仏がお迎えに来る奇跡が一切描かれません。平安時代からの浄土教では、阿弥陀仏が来迎した証として、紫や五色の雲が現れると語られていました。そのような奇跡が一切ないので、介護していた末娘が親鸞聖人の浄土往生を不安に思って母親に手紙を出すほどです。

しかしながら、これが親鸞聖人の頂いていたお念仏の姿かと思います。特別の奇跡もなく、ただ普通の人として、わが身も、わが心も、わが力も、わが善根(善いことをする環境)も、みな衰え失われてゆき、ただ阿弥陀仏の呼び名だけが、何も持たぬ普通の人のところにあるばかりである。

煩悩の凡人が生きる未来は足らぬばかりですが、何もなくとも如来が私にお声掛け下さっているナンマンダブツがなおある。そうやって不安の中で何度も確認するばかりです。

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