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私の戦争 釈行信「常々無常流々流転」No,004 『西念寺だより』平成21年6月号掲載

  南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)ということを、昔の人は「阿弥陀さんに任す」と言う表現をしたようです。それがどうも現代の私にはしっくり来ません。しかしながら、学生の時、その「任す」ということをもっと攻撃的に表現した言葉に出会いました。誰に聞いたか、どこで読んだか覚えてないのですが、印象深かったのでしょうか、まだ覚えています。

 それは「私というものが如来によって全く占領される」というような言葉でした。「占領される」という表現に「あー、なるほど、本願力(ほんがんりき)という力なんだなあ」と、当時は表現のダイナミックさになんとなく納得してしまいました。

 そう思うと、「占領される」私は随分前から阿弥陀さんに対して負(ま)け戦(いくさ)を挑んでるような気がします。降伏勧告(こうふくかんこく)であり、降伏宣言(こうふくせんげん)でもある南無阿弥陀仏の旗印は戦争終結の願いを起こさせますが、私はアフガニスタンかイラクかと言った状況でなぜだか抵抗をやめません。

 


我等(われら)の大迷(たいめい)は如来を知らざるにあり。

如来を知れば始めて我等の分限(ぶんげん)あることを知る。

すなわち我等の如意(にょい)なるものと、如意ならざるものとあるはこの分限内(ぶんげんない)のものと分限外(ぶんげんがい)のものとあるが為也(ためなり)。

然るに我等は始めより何が分限内のものにして何が分限外のものたるや知らず。

此(これ)によりて苦楽(くらく)の感情なるものあり。

大谷大学 初代学監 清沢満之
『清沢満之全集』第8巻 岩波書店 453頁

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