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世界の中心

かつて、世界の中心は「恋愛」だった。

若い頃、たまに会う友人たちとお酒を飲みながら尋ね合う「どう?幸せ?」という言葉は、「恋愛がうまくいってるか?」という意味だった。好きな人がいて、その人と恋人としてきちんとつきあえていて、相手の気持ちにも自分の気持ちにも、それから二人でいる未来を望む気持ちにも揺らぎがない状態かどうか、という意味だった。

たとえそれ以外のことが二重丸だったとしても、仕事が順調だとしても、温かい家族に囲まれていても、心通い合う友人がいたとしても、「恋愛」の欄にバツ印がつけば幸せではないのだった。その頃の私にとって、恋愛がほとんど全てだったのだ。

そんな風だったので、考えることも恋愛のことばかりだった。仕事中も食事中も目が覚めて寝る直前まで、下手したら夢の中でも、好きな相手のことを考えた。相手の顔、声、性格、今の気持ち。そんなことばかりを。

そして、それだけでは飽き足らず、「恋愛」そのものについても、よく考えた。好きってなんなのか、その相手のことを本当に愛するってどういうことなのか、私の今抱いている感情は本当に「恋愛」なのか。そんな答えの出ないことを、ただ、ぐるぐると考えた。

たとえば。

私は、今、あの人ことが好きで、本当に大好きだと思ってるけれど、それは果たして本当の本当なんだろうか。好きというのは、その人の「全部」が好きだということだろうか。だとしたら、「全部」というのは何だろうか。顔も性格も体も思考も思想も、声だとかセンスだとか能力だとか、そういうのを全てひっくるめてということだろうか。でも、そうしたら、もしその人の顔が変わってしまったら、体型が変わってしまったら、性格が変わってしまったら、どうなるんだろうか。全てが好きということは、その人の何が欠けてもいけないということではないだろうか。だから、全部が好きということは、今その人を構成する要素の何かひとつでも変わってしまえば、その人へと向かう感情も変わってしまうということではないだろうか。では、逆に、その人の何が変わっても気持ちは変わらないというのが、本当の愛なのだろうか。顔が変わっても、性格が変わっても、考え方が、気持ちが、変わっても。でも、そしたら、その人だからこそ好きだという時の「その人」とはどこにあるんだろう。

そんな問いにたった一つの答えなんてないこと。それはその時からちゃんとわかっていた。だけど、わかっていても考えずにはいられなかった。何しろそれが中心だったから。重力みたいに、どんな思考もそこに引き寄せられてしまう。

でも、気がつけば、いつの間にか、私はその重力から自由になっていた。あんなに暇があれば、暇がなくても、「恋愛」について考えてばかりいたのに。今は、そんなことはほとんど考えない。もちろん、答えが出たからじゃない。恋愛について、わからないことばかりなのは、結婚して子どもを持った今でもほとんど変わらないけれど、でも、とにかく、今の私の中心に「恋愛」はいない。

その代わりにそこにいるのは、さまざまな物事だ。家のこと、家族のこと、お金のこと、仕事のこと、将来のこと、趣味のこと、社会のこと。そうしたものが、次々と私の中心にやってきては去っていく。去っていったと思えば、また現れ、数を増やし、膨れ上がり、そうやって元々そこにいたはずの「恋愛」を圧し避けていく。圧し避けられた「恋愛」は、世界の端へと追いやられ、薄く引き伸ばされ、そのまま世界を包み込んでいる。地球の表面をおおう大気のように、当たり前のようにそこにあって、だから私は、もうほとんど「恋愛」について考えない。空気について、考えることがないように。

今のこの世界は、とても平和で、とても居心地がいい。
だけど、世界の中心に寝ても覚めても「恋愛」がいてくれた時のことを、時々、ひどく懐かしく感じたりもする。

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