御伽怪談第二集・第二話「負けませんわ」
一
江戸時代がはじまって六十年ほど過ぎた寛文三年(1663)の初夏のことであった。
寛文と言えば前年二年の五月に近江若狭大地震があり、多くの人々が亡くなっている。その年の夏、若狭にろくろ首が出て、成敗される代わりに尼僧になった事件があった。その翌年の五月のこと、奧州(山形県)小松に、また、ろくろ首が出た。人の世が乱れれば、化け物たちが跋扈する。これは当然の成りゆきであろう。
奥州小松と言えば、ここには小松姫の悲しい伝説が残されている。
平泉藤原氏が全盛を極めた頃のこと、奥州に〈大すみ長者〉と呼ばれる長者がいた。彼は金山で取れた金を都に運ぶため、年に一度、京へ上っていた。宿は毎年、同じ所に泊まっており、その宿の幼い娘を小松姫と呼んで、たいそう可愛がっていた。長者は小松姫を本当の娘のように思っていたと言う。
「いつか、奥州へ連れて行くであろうぞ」
と口癖のように約束していた。
やがて娘が成長するにしたがって、長者に恋するようになっていた。その頃から長者は姫を避けるようになっていた。
すでに小松姫は十七歳。やがて彼女は、奥州へひとり旅立ち長者に会おうとするのだが、長者は姫に会おうとしなかった。
悲しみにくれた小松姫は、
——恋しさに、はるばる来たる陸奥の、五串の滝に、身をば沈めん。
と辞世の句を残し亡き人となった。
それからと言うもの、長者の家に様々な不幸があり、小松姫の亡霊が現れたと言う。
その時から奥州では、幽霊や化け物に出会うと、〈小松姫を見た〉と申すようになり、たいそう怖れたと言う。
さて、奥州小松城に留主居番をするサムライがいた。この者を平八郎と呼んでおこう。留主居番とは、参勤交代で殿が江戸に行っている間、城の警備や一切を取り仕切る役職である。
平八郎は家督を継いだばかりであった。代々留守居番の家柄であり、老いた母親と若妻と、城の近くに引っ越して来て、すでに半年が過ぎていた。まだ子供はなかった。
妻は名を和喜と言う。生まれながらに霊感が強く、そのことが悩みの種であった。特に五月ともなると、世間の霊的なものたちが動き出す。それを見るのは辛かった。だが、嫌でも見えるものは仕方がなかった。他人に言っても嘘つき呼ばわりされるのがせいぜいで、同じものを見る者はいなかった。そんなことは分かりきっていた。
平八郎は、妻の霊感のことは存じていた。だが、平凡な彼は縁起を担ぐくらいが関の山で、同じものを見ることはなかった。ただ、平八郎の母は霊感が強く、和喜の良き理解者であったと言う。霊能者は一定の人数が生まれて来る。土地によってはかなりいたが、奥州小松には少なかった。
その日の夜のこと、夫はまだ帰っていなかった。屋敷を出る時、そのことは告げていた。
「今夜は遅くなるであろう」
そろそろ五月の満月の頃、世の中では霊的なものたちが活動期に入っていた。この時期は霊感の強い者には辛い時期である。今まで静かだった世の中に、じわじわと霊的なものたちが蔓延るのだ。ちょうどそれは、虫嫌いな者に虫がたかるように、向こうから姿を見せてくると言う。多くの霊的なものは、ただ寂しげで陰気なだけだ。だが、たまに悪さをするものなどもいる。それが煩わしいことは限りなしである。
ニ
夕食の時、たまたま小松姫の伝説を、義母が聞かせた。
和喜は、
「悲しい伝説ですわ」
と感じたままを申した。
「でも、なぜ、祟ったのかしら。恋しい長者さまなら、姿を現すだけで十分かと……」
「さぁ、それでも死んだ者は怖ろしきものじゃから、不幸が起こるのじゃろ」
と義母が笑っていた。
和喜は、屋敷の者たちと夕食を済ませ、その後、自室にこもって義母と縫い物をしていた。
五月の夜は静かであった。時々、雨が降るのか、屋根にパラパラと音がした。夜鳴くカエルの声が響いた。暗闇の中を蛾が飛んで、部屋の行燈の明かりが揺れていた。
しばらくしてからのこと、和喜は廁へ行こうと思い、ローソク片手に長い廊下を歩いていた。廊下の奥は暗くて見えなかった。目的の厠は廊下の先にある。静かな足音と絹づれの音だけがあたりに響いていた。時々、ローソクの芯が、チチチと音を立てて燃えた。それと同時に廊下が暗くなった。
和喜は、
——ローソクが湿気っているのかしら?
と首を傾げ、炎を見つめた。その時、薄暗い廊下の奥の暗闇から、何かが近付いて来る気配がした。ふと、振り向くと、義母のいる座敷の明かりが揺れていた。廊下は広く長かった。暗いと余計に長く感じた。すでに雨は上がったものか、締め切った雨戸の隙間から満月の光がさしていた。夜は明るかった。
——気のせいかしら?
と思ってみたが、まだ、何かが近づく気配だけが続いていた。風もないのに手に持ったローソクの炎が揺れた。屋敷の外堀でカエルが鳴いた。そろそろホタルが飛び交う季節であった。手を伸ばし、ローソクを気配の方へ向けてみても、何ひとつ見えなかった。しかしその時、ふと、明かりが消えたのである。
真っ暗になった。廊下の奥に雨戸の隙間から差し込める月の光りだけが見えた。その奥に何だかぼんやりとした塊が見えた。それは丸く、人の頭ほどの大きさがあった。次第に目が慣れて来ると、お歯黒を黒々と付け、眉を剃った女の首がハッキリと見えた。
首は和喜に向かって飛んで来てニコニコと笑った。それはろくろ首であった。しかも伸びる首などではなく、抜け首として怖れられている化け物の一種である。
和喜は思わず、
「あっ」
と声を出すと目を凝らした。そして、気を取り直して叫んだ。
「おのれ化け物、各々方、出会え出会え」
しかし、暗闇に虚しく響いただけで、誰ひとり答える者はなかった。普段なら家の者が必ず答える筈である。夜は警備のサムライも何人も詰めていたのだが……。
和喜は気付かなかった。いつの間にか、音そのものがなくなっていたのである。静かだった。あまりの静けさと不気味さに背筋が寒くなり鳥肌が立った。歯の根も合わず首筋が引きつった。
だが、和喜は気を引き締めて、
——このような者に睨み負けては……。
と、自分自身を奮い立たせた。
訳も分からず涙が頬を伝った。家を預かる妻として、たかだか、ろくろ首風情などに遅れを取る訳にはゆかなかった。それは恥ずべきことである。武家の娘に生まれ、武家に嫁ぐと言うことはそう言うことであった。
三
和喜は、覚悟を決め目を見開き、頭を振ってろくろ首を睨みつけた。幸いにして明るい月夜。ローソクは消えていたが、闇夜の時ほどは怖ろしくはなかった。和喜の目が月光を受けてキラリと光った。ろくろ首も光っていたが、それは光りを受けてと言うより、全体的に青白く輝いているような様子であった。明らかに生きているものとは違う気配である。ろくろ首は生きているとも言えず、だからと申して死んでもいない中途半端な化け物である。
和喜は次第に落ち着いて来たと見えて、勤めて冷静にろくろ首を観察しようとした。
——このろくろ首はどこの女房であろう?
じっと見つめる和喜の視線を無視し、ろくろ首はゆっくりと飛び回った。
町人風の中年の女に感じ、和喜はつぶやいた。
「わらわより、少し年上かしら」
時々、ろくろ首は歯をガチガチ言わせ、目を見開いた。その異様な顔は怖ろしく、見る者を圧倒する……筈ではあった。しかし、和喜は怯まなかった。
ふと、和喜は、
——自分なりに怖そうな表情して、相手を威嚇しよう。
と思った。しかし、せいぜい両手で顔を歪めることしか思い付かなかった。これではまるで福笑いである。怖いのも忘れ、眉を指でつり上げたり、目を大きくしてみたりと色々やってみた。
ろくろ首は、長い舌を蛇のように伸ばし、和喜を舐めようとしたが届きはしなかった。化け物は驚かすのが本業で、直接、人を触ったりはしないものである。驚くなら何でもするだろうが、驚かない者を相手にするほど、困ったことはなかった。
しばらく睨み合いは続いた。和喜は嫌な知人の顔を思い出し、ろくろ首に重ねてみた。
——少しは憎しみが増すかしら?
と思ってのことであったが、悔しさばかりを思い出した。どこの誰とも知れぬ抜け首のこと、もしどこかで本人を見つけられたら、せいぜい哀れんでやりたかった。
ろくろ首は死霊や化け物の類ではなく、ある種の生霊である。それには本体がおり、生きる者として現世で暮している。ただ本人は自分の生霊が他の場所に出て他人を驚かすなど、思ってもいないだけのことである。生霊が出る時は、本体である人間は、深く眠っている。その状態で、霊体の一部が体から離れ、姿を見せるのだ。半分実体を持った霊体は、見る者の半分を霊体に変え、霊的な空間に心を閉じ込めてしまう。
こうして和喜とろくろ首の不可思議な睨み合いが続いた。やがて、ろくろ首は睨み負けたのか、それとも飽きてしまったものか、次第次第に遠ざかり、ついには消え失せてしまった。
和喜は勝ったことを嬉しく思い、廁で用を済まして座敷に戻った。だが、寝屋に着くと義母がいなかった。
点けていた筈の行燈も消えている。
次の間へ行くと、そこの灯りも消えていた。
どの部屋もどの部屋も灯りはなかった。
「誰か……」
と、声を上げても、虚しく響くだけ。答えはなかった。
和喜は、ろくろ首の気配を感じた時から音のない世界にいた。霊的なものが作り出す空間に心だけが閉じ込められていたのである。そのことに、ようやく気付いた。微かに死の臭いがした。しきりに寒気がして肩が凝った。部屋の中は月明かりも差さず真っ暗であった。
四
やがて、突然、部屋中に女の笑い声が響いた。
和喜もその場にへたり込んで笑い出すと、そのまま気を失ってしまった。怖ろしい出来事が続くと、人は無意味に笑うことがある。和喜もそうなってしまったのである。
さて、夜の遅い時刻に夫が帰宅して、出迎えの妻がいないことに気付いた。
家の者に尋ねても、
「さぁ、しばらく姿を見ておりませぬが……」
と首を傾げた。
母が申した。
「はて、先程、廁へ赴いてから、未だ帰って参りませぬが……」
屋敷の者が総出で妻女を探すと、母の言う通り厠の前に倒れていて、すでに息が絶えていた。
皆が驚いて、気付け薬など与えて大騒ぎとなった。女中は庭の井戸に走って、
「奥さま……和喜さま」
などと、魂呼びまでしたと言う。魂呼びとは、死んだ人の魂が井戸の底を通る時、呼び戻すことである。臨終の時、呼び出すと戻ると言う。
幸いなことに、ほどなくして和喜は息を吹き返した。
夫が、揺さぶりながら、
「いかがいたした?」
と、様子を尋ねてみると、和喜はぽつんと、
「小松姫を見てござりまする」
と、申しただけであった。それから何日かして、ようやく体験した出来事を物語りした。
その後、
——屋敷に不吉なことがある。
と平八郎は公儀に申し出た。すぐに許可されて、やがて普請を行うこととなった。
さっそくお祓いのため、出羽三山に人を使わして、たくさんの山伏たちを招いた。
和喜が出会ったろくろ首のことを話すと、山伏のひとりが、
「それはそれは、難儀なことであろう」
と、同情していた。
奥州では不思議なことが起こると、必ず山伏に頼む。これが常識であった。
市松模様の装束に身を包んだ山伏たちが集まり、法螺貝を吹きながら祈りはじめた。独特な節回しの祈りの言葉は、それだけで美しかった。しばらくしてお祓いが終わると、職人が廁を取り壊し、別な場所に建て直したのである。それより後は、ろくろ首どころか、もう、何の化け物も出なくなったと言う。
和喜は、ろくろ首に出会った時のことがよほど怖ろしかったのであろう。しばらくすると、それ自体を忘れてしまったと言う。『諸国百物語』より。
家に不吉な出来事があった時、引っ越すか、または家の一部を建て直すと治まることがある。建て替えが出来ない時は、模様変えなどをして、不吉な場所に家具などを置いても良い。ただし、リフォームしてもダメなこともある。建物を壊して建て直しても無駄な場合もある。しかし、ろくろ首ごときなら建て直しで十分であろう。
さて、化け物が作り出す空間に入ると、その心だけが別な世界へ行く。体験している本人は、まったく現実との見分けはつかないと言う。しかも時間の経過は、現実とは異なっている。場合によっては、化け物が作り出す空間に何日かいて現実世界に帰ると、わずか数秒しか経っていないこともあると言う。〈了〉
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