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祈りのカタログ・第一話「冥福と黙祷」

 祈りの中で、もっとも知られたものに冥福の祈りがあると思います。いきなり冥福ですみませんが、さて、このよく耳にする祈りについて辞書で引くと、冥福とは、
「亡くなった方の死後の幸福を祈る」
 だと書いてあります。
 時々、
「皆さん、ご冥福を、お祈りください」
 と言うセリフを、ドラマなどで聞いたことがあると思います。
 その時、
「どう、冥福を祈れば良いのだろう?」
 と、疑問に思ったことはありませんか?
 子供の頃に、そのような場面に遭遇した時、ただ、黙って下を向き、時間が過ぎるのを待っていたものです。とても退屈な時間でした。
 大人は、どうやって祈っているのだろう?
 とか、
 何に、祈っているのだろう?
 と、子供ながらに疑問に思っていたものです。しかし、誰に聞いても適切に答えてくれませんでした。と言うより、祖母以外の答えられる大人に一度も出会ったことがありません。
 大人に聞いても、ほとんどは、
「うるさい、黙って祈れ」
 と怒るだけでした。
 多くの宗教団体を渡り歩いていた時も、誰ひとり納得の行く答えをくれはしませんでした。修行していた頃に出会った人々には、かなり偉い霊能者の先生達もいたのですが残念でした。もっとも、その頃、私は彼らに怖れられていました。霊能者の先生達は、私を見るなり、
「人ではないモノから、知識を得ているから、怖ろしい」
 と言っては、時として遠ざけたりしたのです。

 まぁ、思い出話はさておき、この冥福と呼ばれる祈りは〈ハヤチカゼ〉と言う神に対して祈ることを基本としています。
 ハヤチカゼの神は虹の上を駈ける神です。馬のような姿の神として描かれることが多く、死者の魂を死後の世界に導く神とされています。そのことから、この神に祈る時は、
——ハヤチカゼの神、とりなし給え。
 と、心の中で三回つぶやいて祈るのです。
 この冥福の祈りと言うのは、亡くなった方の冥土での福を祈ることです。もしかすると、
——閻魔様、何卒、宜しくお願い致します。
 と祈るのでも良いのかも知れません。
 しかし、閻魔様の前では、すでに地獄は目の前ですので、もう福は来てくれないかも知れません。ですが、安心してください。
 時々、閻魔様は人の世に姿を現して……この時は世を忍ぶ仮の姿で……まるで遠山の金さんのようにフレンドリーに現世をさまよい歩いています。人の世を、人のふりして歩くのですから、誰にも閻魔様だとは分かりませんね。
 また、時として、地蔵菩薩の姿をして、ほんの気まぐれに、子供達を守ったもします。しかし、化け地蔵とか言われたりして、口から火を吹いたり、長い舌を出したりして、おどけることも多い存在です。
 私は、そんな閻魔様のことを、
「なかなかお茶目なのだなぁ」
 と、しばしば思います。
 私の場合に限って言えば、祖先が閻魔様に仕えていた関係から、夢の中で、時々、閻魔様に出会います。もしかすると、これは、播磨陰陽師の特徴なのかも知れません。他の陰陽師の人たちに聞いたことはないので分かりません。
「現実世界で、閻魔様に会ったことはない」
 とは思いますが、なにせ人のふりしてさまよい歩いているので、もしか出会っていたとしても分かりませんね。
 もし、どこかで閻魔様に出会っていることを知ったとしたら、即座に〈黙祷〉することでしょう。この〈もくとう〉と言うのも祈りのひとつです。
 なぜ、黙祷するのかと申しますと、なにせ閻魔様は人類最初の死人ですから、丁寧に礼儀を尽くすのです。
 黙祷は、時々、甲子園で〈黙祷〉……続いてサイレン……とかやっているのを見ます。あれのことである。
 この言葉は、室町時代あたりの古い文献に、
「南無と黙祷して、甲板より飛ぶ」
 と言う文面で登場します。
 これは、
「心の中で、南無と唱えながら、覚悟して、海に飛び込んだ」
 と言う意味です。
 ここの南無は、南無阿弥陀仏と唱えたと言う意味ではなく〈南無三〉とだけ唱えたようです。南無三は〈南無三宝〉の略で、驚いたり失敗したり、何かを覚悟する時に唱える言葉です。
 辞書を引くと、
——南無三、失敗した時に、成功を祈るために唱える言葉。
 とあります。
 つまり、黙祷の中で、昔は〈南無三〉と言う祈りの言葉を唱えていたのです。
 もともとの南無三の正しい意味は、
「仏法僧の三宝に帰依すること」
 ですが、それはそれ、仏教用語のことです。普通の人はこの言葉を、ただ覚悟する時の掛け声として使っていました。
 多くの人たちは、
「なむさん」
 と叫んで使っていたようです。
 やがて、それが〈南無阿弥陀仏〉と唱えるように変化してゆき、その南無阿弥陀仏もなくなって、いつの間にか無言で頭を下げるような形式の祈りに変わって行ったのです。
 黙祷は黙って祈ることに変化しましたと書きました。しかし、黙祷は、本来、黙って祈ることなのです。
 この黙祷と言う言葉を分けてみると、『黙』は黙ることになります。〈祷〉の方は〈祈り〉と言う意味です。そのことからも、全体的には〈黙って祈る〉と言う意味になるのです。

 祖母に〈黙祷〉のことを尋ねた時、祖母は、
「黙って祈れと言うことじゃ」
 と笑っていました。黙って祈るとは、無言で祈ると言うことです。無言とは、人の言葉を使わないことです。これは、たとえ心の中であっても、人の言葉を使ってはならないことを意味します。
 では、人の言葉を使わずに、どうやって祈れば良いのでしょう?
 この疑問には、後々ゆっくりと答えるとして、
——神仏や死者の霊に祈る。
 と言うのが本来の黙祷の意味です。
 神仏は祈りを聞いてくれるかも知れません。
 神仏は、黙って祈りを聞くのが商売であるかのように誤解されているため、たぶん、文句は言わないと思います。しかし、死者の霊は、祈りを聞いてくれるのでしょうか?
 祈りを聞くかどうかは、その霊の性格にも、よると思います。
 播磨陰陽道では、死者の霊は神のひとつになります。序列で言うと、最近、亡くなった方の霊は下の方に加わります。下っぱでも神は神ですので、やはり、神に対する祈り方で祈ることが基本となります。第一話おわり。

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