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不幸のすべて・第十二話「禊ぎと自業自得」
前回の最後のところに先祖の伝えとして、
——それこそが、正しい人の生きる道であり、人が産まれ生きていることには、その者が理解していようといまいと意味がある。その意味を知り、人として生きるべきだ。
と言うものがありました。その通りだと思います。
以前は理解すら出来ず、ただ記憶だけしていた物事が、少しですが理解し実感出きるようになってきました。様々な物事に対する理解は、脳の成長と共に深くなってゆきます。脳の拡張と共にと表現する方が正しいのかも知れません。それらを理解することが、呪いや祟り作り出し、あるいは解除し、時には祓い、時には利用するために必要な物事でした。そして、それらは現実を変化させ、自分の運命にそって生きる手助けをするのです。
ただ、私が理解するために払った代償は、とても大きかったです。一時的に視力と何本かの歯を失い、内臓を傷め、後遺症を残したまま、先の人生を生きてゆかねばならなくなりました。しかし、その苦痛には大きな価値がありました。
では、その苦痛の意味するものとは、いったい何でしょう?
肉体的や精神的な苦痛は不幸につきものです。霊的な見方をするとそれらの苦痛は〈禊ぎ〉と解釈されます。
禊ぎについては、
——禊ぎ。身に罪または穢れのある時や重大な神事などに従う前に、川や海で身を洗い清めること。
と、広辞苑にあります。
また、広辞苑には、〈身をそそぐ〉と言う意味の〈ミソソギの略か〉とあります。霊的な場合は身を削ぐ行為に通じ、大切な行いをはじめる前か後に必ず起きる不幸な出来事とされています。その、大切な行いと言うのは、本人にとっての大切な物事と言う意味ではありません。霊的な視点に立って、人類や大地や様々な主にとっての大切な物事を意味しています。主が造る不幸は人には回避することは出来ません。この主については後に別記しますが、不幸になるには霊的に大きな意味があるのです。
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