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播磨陰陽師の独り言・第百四十二話「大晦日のこと」
大晦日も近いですねぇ。大晦日と言えば十二月三十一日ですが、本来は三十日が大晦日でした。旧暦には三十一日はありません。
この大晦日、古い言葉で〈大晦〉と言います。毎月の月末は〈晦〉と呼ばれていました。これは〈月が籠る〉と言う意味の言葉が訛ったものです。
平安時代、禁中では大晦日に追儺の儀式が行なわれていました。この日は悪鬼が夜行するとのことで、陰陽師たちが祭文を読み、サムライは鬼を追ったと言います。
鬼役の者は、御所に松明を灯し、四ツ目の怖ろしげな面を着けて、手に盾鉾を持ち、内裏の四つの門をまわりました。
殿上人が御殿の方に立って、桃の弓で蓬の葉で作った矢を四方に放って鬼を祓いました。これを象り、節分に豆を打って、鬼を祓う風習がはじまったと言います。この内裏で鬼を追う儀式は、慶雲二年(705)十二月、 民・百姓の多くが疫病に悩まされたことからはじめられたものです。
また、鞍馬の奥の僧正ケ谷に御菩薩池とよばれる池があり、そのあたりに畳半分ほどの穴があいていました。
ある日、鞍馬の別当に、
——藍婆王と言う二頭の鬼が穴から出て都で悪さをしている。
と毘沙門天のお告げがありました。
別当はただちに宇多の帝に報告すると、帝は法家に命じ、四十九家のサムライたちを集め、穴を封じ、三石三斗の豆を炒り、鬼の目を打って退治したと記録に残ります。これはやがて大晦日に毘沙門天に参り年越しをする風習にかわりました。
大晦日の夜の追儺のことは、平安時代の有名な歌人・凡河内躬恒の歌に、
鬼すらも 都の内と 蓑笠を
抜きてや今夜 人に見ゆらん
とあります。
今の世に、節分の夜に、鰯の頭・柊を軒に刺すことを〈聞鼻〉と言います。これは鬼が人を喰おうすることを防ぐとも言います。
京都では大晦日の夜に白朮火を焼きます。白朮は風邪気を去らせる薬であると言うことで、疫病の神が夜行する夜にこれを焼いて煙を漂わせ、鬼を遠ざけようとしたことからはじまりました。以上『難波鑑』より。
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