御伽怪談第一集・第七話「不思議なことよ」
一
『甲子夜話』の著者として有名な松浦静山が、ある年の八朔の御祝儀のために、江戸の藩邸に到着した時のことであった。
八朔の御祝儀とは、神君家康公が江戸に入った日を祝うもので、武家にとっては正月の次に重要な日とされた。大名・旗本は白帷子姿で江戸城へ出仕し、この日を祝った。ちなみに八朔とは八月一日のことである。この日に食べる夏蜜柑のことをハッサクと呼ぶ。
静山の領地は九州と言う遠方にあった。毎月、江戸城に登城と言う訳には行かないが、江戸に来れば長逗留となった。
静山が江戸に来た折には、友人の医者・高木白仙に見舞いに来てもらう。これが通例となっていた。
白仙が屋敷を訪れ、挨拶したついでに、薬のことを申した。
「補中益気湯は、まだ、ござりまするや?」
この薬は、普段飲みの元気を保つ漢方薬である。その方面の古典にも多く記載され、胃腸の調子を整える一般的な薬であった。
静山は、心からありがたそうに答えた。
「あぁ、お陰さまで、中々、効いておる」
白仙が、静山を軽く診察して何となく話しかけた。
「今回の旅は、いかがでござったか?」
これはいつものことである。静山も、博識な医者・白仙との雑談を楽しみにしていた。
「静岡あたりから来る藩主なら楽でもあろうが、なにせ平戸は九州、遠方である。ずっと正装したまま揺らされるのも、そろそろ終わりにしたいものじゃ……」
静山は笑った。セミが暑そうに鳴いていた。
平戸からは、長い長い道のりを、長崎街道を駕籠に揺られ、十日あまりで関門海峡。そこで潮待ちしてから船に揺られ、瀬戸内海を十日ほどで大阪に着く。そこから、また、東海道を駕籠に揺られて十四日、やっとの思いで江戸に着くのである。
駕籠の中では、もちろん足は伸ばせない。担ぐ者たちは交代で良かろうが、中の殿様は乗ったまま。これが辛くて、遠方の藩主ほど早くに隠居したがった。
白仙は、新宿の角筈村に住まいしていた。元々は静山の叔母の屋敷に仕える医者であった。その昔、叔母の紹介で知り合って、江戸に来ては白仙の世話になっていたのである。
医者のことを、古い言葉で〈医師〉と呼ぶ。これは彼らが博識な陰陽師の流れを汲むからであった。白仙も、もちろん博識であり、静山も会えることを楽しみにしていた。
静山が申した。
「予の領地にも、良い医者が欲しいものじゃ」
風鈴の音が響き、白仙も笑っていた。
「平戸藩は長崎に近こうござりまする。蘭学医など多いのではありませぬか?」
静山は少し困った顔をして申した。
「大きな藩ならそれもあろうが、予のごとき小藩では、わざわざ寄らずに素通りされてしまう」
静山は笑っていた。蝉が鳴いた。屋敷の庭で猫が鳴いていた。これは飼い猫ではなく、ただの野良猫である。
その声を聞いた白仙が、ふと、尋ねた。
「九州の猫は江戸とは違ってござると聞きおよびまするが、それは如何なるもので?」
静山は笑って、
「向こうのは長崎猫との雑種でオランダ猫と申し、尾の丸い猫である」
「ほほーっ」
「江戸の猫は尾が長いと聞くが、予には、そちらの方が珍しいものよ……」
ニ
白仙が笑いながら申した。
「所変わればと、申すやつでござりまするな」
静山も笑った。それから、
「江戸の猫のことにつき、何か珍しき話はないかのぉ?」
と尋ねた。
すると白仙は、
「それがしの生国は下総の佐倉にて、父が存命のある夜、枕元に音がしてござった」
静山が膝を乗り出した。
「ほぉ、それで……」
白仙は父の真似をし、薄目を開けて、周りを見回した。
「目を開けて見ると、久しく飼っていた猫が、手ぬぐいを頭に被って立っており、手をあげて、こう……」
と白仙は手踊りをし、
「……招くよう。それはまるで子供が踊り舞うがごとし」
静山は面白い話に興味津々であった。
「猫が?」
「左様。父は、即座に枕刀を取って……」
と白仙は刀を抜く素振りをし、
「おのれ化け猫め……とばかり切ろうとしてござる」
静山はゴクリと生唾を飲んだ。
空にカラスの鳴き声がした。
白仙が続けた。
「すると、猫は驚き、動きを止めましてござりまする。しかも、踊ったままの姿で……」
白仙は、踊りの途中で手足を止めたような格好をした。そして、話を続けた。
「それから、いったいどこへ行ったものか、走り去って行くところを知らず。それより家に帰ることもなかったと申しまする」
静山は、その話を聞き腕組みをし、
「世には、猫の踊ると申すこともしばしば耳にするが、妄言ではないな」
と、ひとしきり感想を述べた。
猫が踊る話は多い。それは盆踊りのような踊りとある。戦前まであった〈猫のカッポレ芸〉とは別物である。猫が踊る時、多くは頭に足袋を乗せて踊る。手抜いを被るのは、足袋を落とさないように、しっかりと止めているからである。踊りが上手くなった猫は、もう被り物はいらなくなる。
また、静山が尋ねた。
「ここ最近、江戸では変わったことはござらぬか?」
白仙は腕組みをして考えた。蝉が鳴いていた。少しして、白仙はポンと手を叩いた。
「おぉそう言えば、猫と申せば、最近、江戸に鼠が出ましてござる」
風鈴が鳴った。カラスが空を鳴きながら飛んでゆく。
静山はアクビをして申した。
「鼠はどこにでもおるであろう」
白仙はニヤリとした。それから、人差し指を曲げて、さも盗人の真似をし、
「江戸に盗人があって、金持ちばかりが、ことごとく盗まれてござりまする」
静山が首を傾げた。
「はて、鼠はどこへ?」
「それがですぞ……」
白仙は、急に胸を張り、
「町衆の金持ちばかりではなく、このような国主様のお屋敷にも入ってござりまする」
静山は驚いた。町屋なら捕まる可能性は低い。だが、警備の厳重な大名屋敷に入れば、必ず捕まって死罪になるのだ。その危険を犯してまで盗み働きをするなど考えられなかった。そして、命をかけて盗む価値のある物など、この世にあるのだろうか?
三
静山は、何気なく感想を述べた。
「それは怖ろしいことじゃ」
「しかし、不思議なことに、いずれも人を傷付けることはなく、一切器物の類を取らぬと申しまする。金銀のみ取り去るのでござりまする」
静山はさらに驚いた。蝉が一斉に鳴いた。
「何と金銀のみとな?」
「はい。翌日には貧しい者の家に、なにがしかの金銀が放り込まれてござりまする故、人をして義賊と申し、たいへんな人気でござりまする」
静山は関心した。
「ほぉ、義賊とな。それでその義賊、名を何と申す」
しばらく白仙は腕組みをしたまま沈黙した。遠くカラスの鳴く声がする。そして、唐突に申した。
「それが、どこから入ったものか、また、出るところも知れず」
「不思議なことじゃのぉ」
「よって人は皆、その盗人を、鼠小僧とだけ呼んでござりまする」
膝を乗り出し静山は思わず声を上げた。
「義賊鼠小僧とな、なかなか興味深いことじゃ」
後に有名な鼠小僧を静山が知った瞬間であった。
「まだ、捕まらぬのか?」
「はい、未だ正体すらハッキリとは……」
静山は腕組みをして、今の言葉をかみしめるように考えていた。
白仙が申した。
「そう言えば、かれこれ四、五十年も前のことになりまするかな……江戸に、それこそ大量の猫が現れたことがござりまする」
「ほっー大量のとな、どれほどの数かな?」
「数千とも、数万とも。とにかくどこから来たものか、たくさんの猫でござる」
「それは、すごいな」
「それより江戸の隅々まで猫が住むようになり、一般の者にいたるまで、猫を飼うことが出来るようになってござる」
「江戸には猫が少なかったのであるかや?」
「ははっー」
当時、江戸と違って大阪ではたくさんの猫が飼われていた。秀吉公が猫好きであったことや、数々の浮世絵に猫が描かれていたこともあり、何かしら猫を飼いたがったと言う。
白仙が続けた。
「それまでは、江戸には少なく、高値で取り引きされておりました。なんと馬の五倍の値段で取り引きされておったこともござりまするぞ」
猫は愛玩としてだけではなく、鼠を狩るための家畜として重宝されていた。特に蚕を扱う村では、狩りの上手い猫は高かった。
また、猫が庭で鳴いた。その時、静かな足音が奥座敷に近づく音がした。廊下で止まると、お女中の声。
「殿、甲州より葡萄が届いておりまする」
静山が嬉しそうな顔をした。
「おぉ、葡萄か……待ちかねたぞ、ささ、はようこちらへ」
この季節は、やはり葡萄に尽きる。特に八朔の御祝儀に食べる葡萄は格別である。毎年、静山はこの時を楽しみにしていた。
静山は、白仙にも葡萄を勧めた。
「葡萄は旨い物ぞ。いつからあるものか知らぬが、これほど旨い物もない」
と笑った。
白仙は礼を申して、ひと粒、口にほおりこんだ。
四
「うん、旨い」
思わず声が出た白仙を、静山も嬉しそうに見ていた。白仙がもうひと粒、口に入れ、話しはじめた。
「この葡萄と申す果物は、いざ鎌倉……と申す頃、唐国より甲州に伝わったものにござりまする」
「さすがは白仙殿、博識じゃな」
白仙は少し照れた。
「いやいや、世に葡萄の模樣をつけた物は、武家では忌むと聞きまするが、あれはどうなってござりまするか?」
「いくら何でもそれは知らぬか? 葡萄の実が生り下がると言う言葉が、〈武道成り下がる〉と聞こえるによって、これを忌むと言う。これを古いことのように申す者もおるが、そうではない」
「ほぉ」
「神君家康公の御遺器の内に硯箱がござる。その蓋の模樣は葡萄の実った物である。これらを見れば、世に言う話は後の世に誰かの言出したことで、古いことではないと思う」
白仙も静山も、楽しい時間を過ごせたことに互いに感謝し、白仙は帰って行った。
さて、それから何日かしてのことである。
静山の亡き祖母が、やはり角筈村に住んでいた頃、屋敷に仕えていた老女中がいた。名を貞樹と言う。この貞樹が、たまたま所用があって当家を訪れたことがあった。
貞樹は、
「今は鳥越邸に仕えまする」
と挨拶して、懐かしさのあまり四方山話となった。
その時、貞樹の語る祖母の話の中に、
「奥方様の飼っておられた黒毛の老い猫が、夜な夜な、屋敷に仕える者たちの枕元に現れては、不思議と踊ることがござりました」
と申した。
「えっ、猫が踊った? そなたは見申したか?」
貞樹はこくりと頷いた。
静山は驚いた。身近に猫の踊りを見た者がいるとは、考えもしなかったのである。貞樹は、自分でも見たと申していた。
それによると、
「寝ている時、ふと、襖が開く音がして目覚めると、そのネコが後足で立ち踊り、足音が響いてございました」
「ほほっ」
「他の部屋の者にまで、その音が聞こえていたと申しまする。錯覚ではあるまいと存じまするぞ」
と申し、目を見張った。そして、
「また、この猫は、不思議なことに常に障子を開け閉めして出入りしてございましたが……」
「何と自分で?」
「はい。いったい、どうやって開け閉めするものか、誰ひとりとして見た者も、知る者もございません」
と申し、不思議な猫の話を終えたのであった。その時、鳴っていた風鈴の音が、しばらく耳に残っていた。
静山は、後にこれらのことを書き残している。
——化け猫ごとき不確かなものの話題で、懐かしい人々と再会出来たことは嬉しかった。猫は不思議のものとは申すが、それにしても不思議である。開けるだけなら隙間に鼻先を入れてありそうだが、閉めもする猫とは……。やはり鼻先でするのであろうか? さらに不思議なのは、誰もその現場を見ていないことである。『甲子夜話』より。〈了〉
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