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怪しい世界の住人〈河童〉第一話「河童と猿の大戦争」
① はじめに
夏になると河童の話が盛んになります。中には河童を捕獲しようとする話もあるそうです。播磨陰陽道に伝わる河童の正体はいくつもあるとしか伝えていません。
このいくつもは、水虎・河伯・猿候などと霊的な世界に属するものが主で、現在の多くの研究にあるような実在の動物とは伝わっていません。中には未知の動物もあるかも知れません。しかし、未知の生き物は未知の内に滅びてしまったようです。
さて、皆さんがご存知の河童の姿は、江戸の水天宮のキャラクターです。江戸に描かれたものが基本になり、黄桜のお酒のCMで全国的に有名になりました。
♪ カッパッパ、カッパッパ、きざくら~
とかのCMソングで河童のアニメが作られていました。
それと、やはり水木しげるさんの漫画『河童の三平』の影響が強いかと思います。
あれらのイメージは河童と呼ばれる妖怪の一部をあたかも生き物のようにキャラクター化したものにすぎません。多くの目撃例にある河童はあのような姿ではありません。
地方によってはキャラクターそのままの姿を見たと言う人もいます。しかしそれは単なる思い違いの類であって、よく調べるとその地方に河童はいなかったりするのですが……。
② 河童の正体は?
河童の正体を尋ねるてみると様々な答えが返って来ます。多くの妖怪には諸説あり、どれも決定的な説明ではありません。その中にあって、河童ほど広範囲に渡り諸説のある存在も珍しいものです。そして、どれもがまるで真実であるかのような不思議な雰囲気を持っています。
河童は他の妖怪に比べて明らかに説が多く諸説も混乱しています。それこそ未確認の生物説からはじまって、妖怪だとか、水辺で死んだ人の霊とか、変わったところでは古代アトランティス人の末裔だと言う説まで多種多様です。
これらの説をひとつひとつをあげてその真仮を検証しても良いのですが、それらは多くの研究者たちに任せるとして、ここでは河童がどこから来て、どう流れ、全国に広がって行ったのかについて少し考えてみたいと思います。
河童はどこから来たのでしょうか?
もし、来たものでないとしたら、どこかで発生して、その末裔とも言える伝説が、どこかに残っている筈です。
播磨陰陽道で伝えているのは河童の対処や祓い方、それと祈り方などで、主な正体はいくつもあるとしか伝えていません。
河童がどう発生して、どこへ流れて行くことでどのような伝説が残り伝えられて行ったのかを考え、伝わって行く内にディテールが変化して行くことも考慮して、河童の伝説そのものを広く考えて行きたいと思います。
さて、これらのことを考えて、
——どこに最初の河童の伝説があるのか?
と訪ねてみると、少し奇妙で面白いことが分かります。それでは、最初に河童の伝説の古そうな方からグループ分けして、それぞれ起源を検証して行くことにしましょう。
③ 古い河童は?
河童の世界に関する伝説の、
「古い方はどこか?」
とネットで調べて見ると、たぶん、
「熊本県の八代だ」
と答えが返って来ると思います。
八代には古代の中国の黄河付近からわが国に渡って来た河童の伝説が残ります。
江戸時代の延享三(1746)年頃に菊岡沾凉と言う人物が記した『本朝俗諺志』の中に、
——仁徳天皇の頃、中国の黄河にいた河童たちが一族郎党を引き連れてわが国の八代に来て球磨川に住み着いた。
と言う話が残っています。
第十六代・仁徳天皇の頃と言えば、西暦では313年から399年までの間になります。堺市にその陵墓とされる『仁徳天皇陵』が今でもあります。ちなみに、この仁徳天皇陵、最近の教科書では〈大仙陵古墳〉と呼ばれるそうです。
また、ここに出て来る地名は現在の九州は熊本県八代市の琢磨川のことです。
その後、河童の一族は琢磨川流域で繁栄して、その数、凡そ九千匹になったそうです。
そのことから、
——河童の頭領のことを九千坊と呼ぶようになった。
と伝えています。
やがて、増えた河童どもは、何分《なにぶん》、河童のことですので悪戯《いたずら》が激しく地元の人々を困らせたそうです。伝説では河童を退治するような話に展開するのですが、なぜか、突然、ここに加藤清正公が登場します。
加藤清正公と言えば戦国時代の人ですし、西暦では1611年に亡くなった人です。仁徳天皇の時代からはかなり後の時代になります。そんな長い間、八代の人々は河童の悪戯に耐えていたのでしょうか?
まぁ、これは伝説には良くある現象で、その時代の伝説の人物と、後の時代の伝説の人物が混同されて伝わるのです。ですので、たぶん、当時の九州にもっと別な無名な伝説の人物がいて、その人の業績が合わさって伝わったものだと思います。本当の人物の名は残っていませんので加藤清正公の物語として続けます。
④ 河童と猿の大戦争
加藤清正公と言えば1562年生まれで1611年に没したので享年四十九歳ですか、当時は数え年ですので五十歳で亡くなっています。まさに人生五十年と言う感じですね。その加藤清正公が河童たちの悪戯を怒り、なんと、九州全域の猿に命じて河童たちを攻めさせたと言う大戦争がありました。
猿と河童の大戦争? どんな雰囲気だったのでしょうか?
何だか、ちょっと見てみたい気もします。九千匹もいる河童の大群を攻めたのですから、猿の方も三万匹近くいなければなりません。
軍事系の試算によると九千の軍隊を責めるにはその三倍の兵力が必要だそうです。この試算で考えると、少なくても二十七万匹の猿の軍団が河童を攻撃したことになります。この猿は、もちろん、チンパンジーなどの大きな猿ではなく、猿廻しで使われるあの小さな日本猿です。
これは、どのような戦いだったのでしょうか?
やっぱり、鎧兜を着た猿たちが、手に手に刀や槍を引っさげて、法螺貝を吹き鳴らし、どんどんと足踏みして河童を襲ったのでしょうか?
と妄想はさておき、この戦いで河童たちが降参し、
「久留米の有馬公の許しを得て筑後川に移り住み、水天宮の使いをするようになった」
と伝え残しています。
ちなみに、ここで登場する〈久留米の有馬公〉は寛永二十年、つまり西暦の1643年に筑後国・久留米藩主となり有馬公と呼ばれるようになりました。1611年に亡くなった加藤清正公が1643年に藩主となった有馬公に会えるのでしょうか?
もし、会っていたとしたら藩主となる三十年以上も前にすでに会っていなければなりませんね。続く。
* * *