播磨陰陽師の独り言・第三百五十一話「地蔵盆のこと」
旧暦七月二十四日は地蔵盆です。地蔵盆は京都を中心にした関西の行事です。現代では新暦八月二十四日に行われることが多く、この日でお盆の期間も完全に終わります。
お地蔵さんは、子供を守る仏の一種です。普段は賽の河原にいて、石を積む哀れな幼な子を救います。しかし、お地蔵さんの仕事はこればかりではありません。
さて、地蔵盆の夕暮れになると、あちらこちらの地蔵堂に子供たちが集まります。僧侶たちの読経に混じって鉦の音がリズミカルに鳴り響くと、音に合わせて何人もの子供たちが長い数珠を持ちながら順繰りに送ります。これは〈数珠繰り〉とよばれ、子供たちはお菓子をもらい、この行事に参加するのでした。
地蔵盆は、元々宮中のみで行われていました。初代将軍・足利尊氏の頃から庶民に広まり、六代将軍・義教卿の頃には、毎年の楽しみとなりました。
ここに地蔵盆の由来の物語があります。
平安時代のある時のことです。
小野篁公が、京都から、奈良の矢田寺に到着しました。篁公は、師匠の満慶上人に会いに来たのです。目的は閻魔大王の病を治すためです。
その頃、閻魔大王は、三熱苦に悩んでいました。
三熱苦とは、霊的な世界に属する者の病です。熱風や熱沙に身を焦がされ、衣服が燃え続けます。金翅鳥に捕食され起こるとも言われています。この病は菩薩戒と言う経文を唱えて治します。
菩薩戒が唱えられると、にわかに苦しみは去り、悪をとどめ、善を修め、人々のために尽くす心を取り戻すのだそうです。閻魔王にとっては、たちの悪い風邪のような病でした。
篁公は、満慶上人の行う菩薩戒で閻魔王の苦しみを取り除けないものかと考え、特別な許しを得て師匠を迎えに来たのです。
やがて、篁公たちは京都の六道珍皇寺の井戸に到着し、ここから地獄へ入りました。
満慶上人が閻魔大王の三熱の様子を見ると、皮膚は焼け爛れ炎を上げていました。さっそく戒壇を設けて、直ちに菩薩戒の儀式を行いました。
満慶上人が必死で経文を唱え続けると、閻魔王は熱から冷めました。全快した閻魔王は大いに喜んで、お礼として、満慶上人を地獄界に案内することとなりました。
いくつかの地獄を見学する内に一行は焦熱地獄に着きました。
焦熱地獄は熱い地獄です。近くに寄るまでもなく熱を感じ、満慶上人は遠目で見るしかありませんでした。
亡者たちが焼かれる熱い苦しみの限りを尽くした地獄でした。その中にあって、涼しげな顔をした僧侶がひとり、亡者に手を差し伸べていたのです。
それは地獄のものなら誰でも知っている僧侶でした。名を延命地蔵菩薩と言います。
経典の中にも、
——ひとつの菩薩あり。延命地蔵菩薩と名付く。この菩薩、毎朝、諸々の境地を歩き、六道へ落ちた亡者を導き、苦を除き、楽を与え給う。もし、人が死して亡者となり、三途の川に迷い出た時、この菩薩に会って、その姿を見、あるいはその名を聞けば、たちまち天へ登り、あるいは、浄土に導かれる。
と書かれています。
満慶上人は、そこで出会った地蔵菩薩が、やがて賽の河原で幼な子を救っているのを目撃します。
満慶上人が感動して叫ぶと、地蔵菩薩は満慶上人に申しました。
「われの仏像を現世に造り、その手を合わす時、地獄に落ちても仏に出会い、苦しみから救われるであろう」
そして現世に帰ってから地蔵菩薩像を仏師に作らせたのです。『矢田地蔵縁起絵巻』より。
この時に作られた地蔵菩薩像は、今でも矢田寺の本尊となっています。毎月の二十四日は地蔵菩薩の縁日とされ、この像が完成した旧暦七月二十四日を地蔵盆として盛大に祝いました。特に三途の川で幼な子を救う地蔵菩薩の姿は印象的であり、子供たちを守る菩薩として、その後の世に至るまで、広く知られ信仰されることとなりました。
また、地蔵菩薩は閻魔大王の化身とも言われています。
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