御伽怪談短編集・第十六話「妖怪の書く文」
第十六話「妖怪の書く文」
天保(1829)のはじめのことであった。
かの有名な『忠臣蔵狂詩集』を書いた植木玉厓の親戚の家に、不思議な妖怪が出ると言う。大きな被害はない。ただ、障子やその他の所へ文字を書く。おおむね意味も通じるが、この妖怪、他愛もないことばかりを書く。その中に、時々、滑稽なものもあり、人の心をよく知っているかのようだと言う。
この家の主人の母御は芝居好きで、人気の立役者・四代目市川八百蔵を特に贔屓にして、常々、褒めていた。
八尾蔵の芝居の評判が悪くハズレだった時は、襖に大きな字で、
〈八百蔵大はたき〉
と書いていた。これは八尾蔵の芝居が失敗して、贔屓にしてくれる人をたくさん失ったことを茶化す言葉であった。
しかし、誰が書いたものであろう?
いつの間にか書いてある。
最初は、
——誰かの悪戯であろう。
と言うことになったが、そのような者も屋敷に見当たらず、見つけることは出来なかった。
ある日のこと。文字が浮き上がる瞬間を、誰もが目にすることとなった。唐突に、襖に黒い文字が現れたのである。
その言葉は、
〈人の悪戯にはあらず〉
と言うものであった。皆が驚いたのは申すまでもない。
それからと言うもの、常に、一家親類の者を評価するようなことを書くと言う。
それは、
〈誰それは怖くないが、誰それは少し怖い〉
などであるが、大体は、
〈怖くない〉
と書く方が多いようであった。
ある時、知人が訪れて、妖怪のことを知り、
「拙者は信じてなどおらんが……」
と前置きしてから、
「能勢妙見の魔除けの黒札は、よく狐狸の厄を退けるそうだが……」
と霊符をすすめたことがあった。すると、突然、障子に大きな字で、
〈黒札は怖くない〉
と文字が浮かび上がった。
その時、知人は驚いて、口をアングリと開けたまま、息をするのを忘れていた。
能勢妙見の魔除けの黒札は、もともと江戸ではなく、上方のものである。江戸に別院があって、そこで配られていた。今は、墨田区本所に東京別院と名を変えて存在している。
これら文字には大きな害もないが、不思議な妖怪のなせる技であろう。どのような妖怪なのかは分からない。多くの妖怪は人を害すると申すも、この屋敷のものは滑稽なだけで、何をすると言うこともなかった。
玉厓が語るには、
「妖怪の書はいたって正直であり、読みやすい字を書く。上手くはないが親しみがもてる文字である。ひらがなの中に、少しづつ簡単な漢字が交っていて、普通の人が書くのと同じような雰囲気がある」
とのことであった。
これを見れば、狐狸の類が人に化けて、山寺で学問を修業するなどと言うこと、よく聞く戯言ではあるが……しかし、文字などは学ばずに覚えることは出来ぬもの。それ故、だだの絵空事とも言い難い感じがした。
化け物が出る屋敷は、石礫がパラパラと落ちて、その後、様々な怪奇現象が起こると言う。しかし、今回のものは、単に文字が浮かび上がるだけで、不思議な例である。たまに、文字を書く種類の狐狸妖怪が現れるが、お茶目な連中のようである。『反古のうらがき』より。〈了〉
* * *