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祈りのカタログ・第十六話「言葉穢れで祈ってもなぁ」

 神は非礼を受けません。言葉がけがれている人は、祈っても無駄になるだけです。〈言葉穢れ〉の人にはある種の傾向があります。あたかも自分が神にでもなったような気分で、他人にあれこれ暴言を吐くのです。しかも上から目線でです。神は暴言を吐きません。暴言自体が神から遠い言葉なのです。
 言葉穢れと言うのは、穢れた言葉を好むことです。これは非礼に属します。ですので、そのような言葉を使っていて、いくらお祈りしても意味はないと言う訳です。
 それが、たとえ神と呼ばれるものでも、また、人であっても、好んで暴言を吐くような人の相手はしたくないものです。
 暴言は、吐くものですので、吐いたものが廻りを穢します。言葉によって、その廻りもふくめて穢れるので〈言葉穢れ〉と呼ばれるのです。
 先日、ヒチコック監督の映画『鳥』を見ていたら、シーンの中に十歳くらいの女の子が出て来て、弁護士をしている兄の依頼人のことを〈与太者〉と呼んでいました。この言葉に母親が目を丸くして注意していました。
 まぁ、こんな言葉を使った字幕を入れるのも昔の映画だからでしょうが〈与太者〉と言う表現を、最近、聞いたことはありません。
 与太者は元々落語に登場する〈与太郎〉から来ている言葉で、ならず者とか、嘘つきのことです。与太者の使う言葉を真似すると、心もやはり与太者のように変化します。
 これとは逆に、良い言葉、美しい言葉を使いはじめると心も良い方向へ向かうのです。
 正しい〈神がかり〉は、この美しい言葉を使った〈祈り〉によってもたらされます。けして、適当で粗雑な〈暴言〉からは生まれないのです。
 さて、正しい〈神がかり〉とは、いったい、どのような物事なのでしょうか?
 それはこう考えて下さい。

——正しく神がかりすると何が起こるのか?

 と。
 多くの人が抱くイメージでは、

——正しく神がかりすると天才的な才能が発揮出来る。

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