播磨陰陽師の独り言・第450話「五節句のこと」
五節句については前に少し書きました。しかしあれは節分が中心だったので、五節句についてもう少し書きたいと思います。
五節句の由来は〈簠簋内伝金烏玉兎集〉に書かれています。この本は安倍晴明伝とされていて、かなり古くからある陰陽道文書です。ちなみに、金烏玉兎とは太陽と月のことで、陰陽師の被る烏帽子には太陽と月のマークがついています。
本の方は、国立国会図書館から画像として配信されていますが、長いこともあり、五節句に限ったポイントだけを現代語訳します。
この文書には播磨陰陽道で祀る神・牛頭天王が、最大の魔物である巨旦を倒して葬る経緯が書かれています。そしてその後のことを陰陽師たちの子孫に伝えるための文書が続きます。
この書物は、
——三国に相伝せし陰陽を管轄したる簠簋内伝金烏玉兎集に曰く……。
とはじまります。
ここから説明となります。
最大の悪魔・巨旦を倒した牛頭天王は、北天竺に帰り、魔物に怖れられる神となりました。疫病たちに睨みをきかすこととなったのです。そうして巨旦を倒した後に死骸を切断し、各々を暦の五節句に割当て、痛めつけるための儀式が行われることとなりました。
その時、崇拝する者たちに告げました。
——後の世に至るまで巨旦を倒したことを胸に留め残骸を痛めつけよ。
と……。
今、ここに明かす暦にある〈八将神〉とは、牛頭天王の八人の王子にして、暦の吉凶を司る神々のことです。
陰陽師たちは、暦の上に儀式の日を配置しました。その理由は、後の世に至るまで、大変な思いをして巨旦を倒したことを忘れないよう、また、魔物たちにも忘れさせないようにしたかったからです。
年のはじめの門松は巨旦の墓のしるしです。門松には、橙・木炭・裏白・ゆずり葉を飾りとして付けましたが、木炭を結ぶのは葬送の火炉の代わりでした。
正月の鏡餅は昔は紅白の物を飾っていました。これは巨旦の骨肉になぞらえています。寺や神社で行う祈りや儀式は、巨旦を倒したことや、葬ったことになぞらえて行うものでした。
正月七日の七草粥は、牛頭天王の髪の毛が七ツの束になっていたため、それになぞらえています。やがて、七種の草々を粥に入れ、神饌として捧げるようになりました。
注連縄などの正月飾りを燒く三毬杖・焼斎会は、巨旦が倒れた時に出て来た毒に牛頭天王が蝕まれ、苦しみを祓う儀式を行ったことになぞらえています。そして、その時に飛び散った髭は羽子、肝臓は輪鼓。これは大きな糸巻きのような物のくびれた部分に紐を巻き付けて上下させる遊びです。また、頭は蹴鞠の球として、目玉は的になぞらえて矢を打ったと言います。
昔は三月の上巳の節句にヨモギ餅を食べていましたか、これは巨旦の耳や舌の代わりと思って噛み締めながら食べていました。
五月の端午の節句の菖蒲の粽は巨旦の髪なぞらえています。
六月一日の歯堅めの儀式は特に重要でした。歯堅めの儀式は正月三賀日と六月一日に行われました。鏡餅・猪肉・鹿肉・押鮎・大根・瓜などの固い食べ物を噛み締めながら食べたものです、〈歯〉は年齢の意味であり、齢を固め長命を願うと考えられていました。
また、七夕の素麺は巨旦の筋として、九月・重陽の節句の菊酒は、巨旦の肝の血になぞらえて食しました。
総じて神祭りや仏事法例は、皆、ことごとく、この祭礼を学ぶものです。
そして、ここで祭文を使い、牛頭天王の息子である八種類の王子神に祈ります。
その祭文は、
——憎んでも憎むべし巨旦の邪気眷属。信じても信ずべし牛頭天王。
八王子の神たちよ、大歳・大将軍・大陰・歳刑・歳破・歳殺・黄幡・豹尾神。われは蘇民将来の子孫なり。われとわれらを守り給え。幸わい給え。
この由来書きは、金烏玉兎の他に『大雑書』にも抜き書きされて書かれています。大雑書と言うのは、今で言うところの雑学辞典のような物で、暦に陰陽道関連の雑学をつけた書物です。明治の頃に流行りました。
今夜も火曜日夜九時からクラブハウスによる配信があります。配信時間は一時間で、後半は質問やおしゃべりを楽しみます。朗読とそれに続く質問コーナーは『陰陽師の嫁/W&M Club』で……では、よろしくお願いいたします。
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