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不幸のすべて・第十六話「不幸を呼ぶ感情」

 前回の最後は、
——自からの業は自らす。
 と言う言葉でしたね。
 さて、〈業〉とは何なんでしょう?
 これらのことについてお坊さんに尋ねると、もちろん、全員だとは思いませんが、かなり曖昧な表現ばかり述べていてお茶を濁すばかりでした。
「言葉の意味を本当に理解しているのかな?」
 と首を傾げてしまうような人々にも出会いました。
 何の修行も出来ていないにも関わらず、
涅槃ねはんの境地に達した」
 とか、
「悟りに至った」
 と大声で叫ぶ僧侶も時々出会います。見るからに生臭なまぐさな感じがして、およそ涅槃とは無関係な感じがしましたけど。
 友人の僧侶にも生臭な人は多いですが、彼らは涅槃や悟りを自称しません。正直で良い人たちです。
 われわれの祖先は古くから、
「ただひとりの悟りを開きたる者にも会えず」
 と言っていますので、
「悟りなるものは幻想なるかも知れぬ」
 と後の世の者に伝えています。私も悟った人に出会ったことはありません。 
 ひどい言い方かも知れませんが、果たして悟りの境地に達した僧侶などいるのでしょうか?
 ちなみに、涅槃の境地、つまりは悟った人は何を言われても怒らないそうです。感情を無駄に動かさないと言った方が正しい表現かも知れません。
 しかし、多くの自称悟り人に、
「本当に悟ったのですか?」
 と聞くと途端に怒り出します。もし本当に悟ったのなら、けして怒らない筈です。そもそも感情の起伏を抑えることを目的として修行しているのですから。

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