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播磨陰陽師の独り言・百九十五話「愛と言う概念」
播磨陰陽道には〈愛〉と呼ばれる概念がありません。だからと言って、愛がないとは限りません。また、愛に関する気持ちがないと言うことにもなりません。
愛と呼ばれる言葉の多くは、明治に入ってから出来たものです。もちろんそれ以前からありましたが、それは〈愛欲〉と意味でのみ使われていたものです。明治に入ってからキリスト教的な思想が入って来たため、〈愛〉と呼ばれる概念が広まったものです。古語にはありません、古語にないものは、伝承にはありません。
ここで皆さん、勘違いしないでください。
昔の日本に、今、言うような〈愛〉の概念がなかった訳ではありません。もっと細分化された感情表現があったのです。
たとえば、〈恋焦がれる〉とか〈あこがれ〉や〈おもはゆい〉や〈いとおしい〉などの様々な愛に関する言葉がありました。これらの言葉は〈愛〉ほど大雑把なものではありません。
男女の愛情が深いことを〈比翼連理〉と言います。これは〈比翼の翼、連理の杖〉と言う言葉の略です。
親子や家族に対する愛情を表現する言葉はありません。これはなくて当然で、わざわざ表現しなくても、まるで息をするかのように最初からあるものだったからです。
西洋では親子や家族に対して愛情表現をすることが多いようです。それは、家族を裏切ったり、あるいは愛情をもたないことがあるからです。だから言葉で確認する必要が生じました。日本語には、確認する必要のない概念は言葉にならないと言う特徴があります。
いちいち言わなくても良いことを言葉にしないのです。気持ちを推測れば、あるいは空気を読めば分かることです。それを言葉にして伝えなければならないなど、昔の人は面倒がったとしても、やろうとは思いませんね。だから〈愛〉と言う大雑把な言葉を使わなかったのでした。
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