御伽怪談第三集・第四話「化け物の師匠」
一
承応年間(1656)のことであった。京都の上立売に萬吉太夫と言う猿楽師が住んでいた。
彼は先祖伝来の猿楽師とは言え、家業である筈の能狂言が得意ではなかった。しかし、下手の横好きとでも申すのか、能狂言そのものは好きな仕事であった。単にまわりから見て下手なだけである。だが、それが厄介であった。
「わいの芸は、まわりには高度すぎて、わからへんのやろ」
と、いつも高を括っていた。だが、身代そのものは傾く一方である。特に家業を継いで、萬吉太夫の代となってからの傾きは酷かった。
やがて京都では立ち行かなくなり、とうとう大阪に新天地を求め……と言えば聞こえは良いが、九月のある日、夜逃げでもするかのように旅に出た。
背中に全財産……と申しても僅かな衣装と能面ばかりだが……小さな葛籠に押し込んで担いでいた。さほど重くはなかった。
萬吉太夫は、ひとり笑った。
「先祖伝来の全財産とは申せ、軽うなったもんやなぁ」
萬吉太夫は都を出て東寺から西国街道沿いに歩いて大阪を目指した。すでに夏は過ぎ涼しい季節であった。秋の虫たちの声が美しかった。夜の遅い時間に野宿して、
——明日は、まともなところに泊まろう。
と、空を眺めて涙した。満天の星空であった。寒くはなかった。ただ、ひとりぼっちが身に染みていただけである。幸いにして民家の明かりは見えなかった。もし、見えていたとしたら、余計、哀れさが増したことであろう。
ふと、萬吉太夫はつぶやいた。
「あぁ、今のこの気持ちが、檜舞台で出せたらのぉ」
彼は下手なだけで横好きである。いつでも稽古や工夫を忘れなかった。しばらく空へ向かって狂言の台詞を稽古した。
「申し殿樣、ござりまするか? 今のは武悪がようにござりましたが、追っかけて参ると見失いましてござる」
その時、萬吉太夫は知らなかった。近くの暗闇の中に追い剥ぎが刀を抜きかけて潜んでいたことに……。
追い剥ぎは、突然、話しかけられたかと思いギクリとした。狂言の台詞だとは分からなかった。
また、萬吉太夫が大声で申した。
「さては、幽霊に紛いはござりませぬ」
追い剥ぎは、幽霊の言葉に驚いて、小声で繰り返し、慌てて左右を見た。
「ゆ、ゆうれい……?」
追い剥ぎと申せば人も殺すであろう。幽霊を怖がらないような追い剥ぎなら、暗闇に潜んでこそこそしたりはしないものだ。実際、この追い剥ぎは小心者であった。萬吉太夫のただの台詞を真実と思い込み、体の震えが止まらなくなったのである。
そこにまた、萬吉太夫の声。
「娑婆にもゆかず、冥土にも、六道の衛《ちまた》に迷う。ここはこれだな……」
それから萬吉太夫が叫んだ。
「あぁ申し申し、武悪が亡霊には隠れもござりませぬ」
暗闇の中で追い剥ぎは震え出した。秋の夜の虫たちも黙った。萬吉太夫の台詞まわしは、なかなか真に迫っていた。
「あれあれ、武悪が呼びまする……行て何と言うぞ聞いて来い……いや、行て殿樣聞かっしゃれませい……われ行て聞いて来い」
追い剥ぎはとうとう逃げ出してしまった。しかし、あまりに稽古に夢中なっていた彼は気付かなかった。夜遅くまで稽古して、そのまま気を失うように眠ってしまった。
ニ
翌日、萬吉太夫は昼過ぎに目を覚まし、かなり遅い朝食を食べた。朝食と言ってもどこかで買う訳にはゆかない。昨夜、京都から出る時に作っておいた握り飯を食べたのである。
萬吉太夫は、ふと手を休め、
「この握り飯が最後に食べた物になりませんように……」
祈るようにつぶやいた。少しの銭は持っていた。大阪に着いたら長屋を借りて、当面の生活くらいしか持っていなかったのである。だからと申して、日々、食べない訳にもゆかなかった。
西国街道に戻り歩いていた。この日は暑かった。涼しい時期に葛籠を担いでゆくつもりであったので、汗が出て喉が渇いた。やがて、枚方と高槻の境に茶屋を見つけそこに腰掛けた。目の前は川であった。この川は大きくもなく、歩いて渡れるだろう。
萬吉が縁台に座ると、
「いらはい。毎度、おおきに」
茶屋の老婆が無愛想に出迎えた。
萬吉太夫は、この茶屋に今夜、無理矢理、泊まろうと目論んでいたため、少し愛想をふりまいた。
「あぁ、今日はえぇ天気でんなぁ」
老婆は茶を運ぶと、がさつに縁台に置いて笑った。
「そないでっか? 昨日と変わりばえはせんが」
西の空にカラスが飛んで鳴いていた。そろそろ夕方の時刻である。
「あぁ、担いでおった葛籠で肩が凝るのぉ」
萬吉は、わざとポンポンと肩を叩いた。
老婆はそれを見て感心していた。
「大きな葛籠じゃのぉ。いったい、なにが入っておるんじゃ?」
「雀にもろぉた化け物でも入っておるんじゃろか?」
と、萬吉太夫が笑うと、老婆も笑った。
「舌切り雀やないんやから、なにをアホなことを……おもろい、お方じゃ」
その時、萬吉太夫が真面目な顔に戻った。
「さて、今夜の宿のことでござりまするが、この茶屋は泊まれ申すか?」
「まぁ、見ての通りの荒屋なれば、勝手に泊まれば良いとは思うが……」
老婆は、そこで言葉を切った。
「……じゃが、ここは夜な夜な、化け物が来て、人を取り殺すことがある故、夜はわれらも、ここに住まん」
萬吉太夫はその言葉を聞いて、
「化け物がおっても、さして問題はないさかい」
その夜は茶屋に泊まることにした。
夜となって握り飯の残りで夕食を済ませ、茶屋の中で寝ていると、茶屋の向かい側から、川を渡る足音がした。バシャバシャと何かが近付いて来る。夜の虫たちが静かになった。やがて、茶屋の入り口から、ヌッと坊主が首を出した。萬吉太夫は、暗闇の中でハッキリと坊主の姿を目にした。見ると2メートルを越す大坊主で、顔の真ん中に目がひとつしかなかった。
萬吉太夫は坊主の顔を見て、しばらく黙ってしまった。まさか、本当に現れるとは微塵も思っていなかったのである。額から一筋の汗が流れた。萬吉太夫は大坊主を見て腕組みして考えた。心を落ち着けたかったのである。やがて、萬吉太夫はポンと手を打ち、大坊主の化け物に言葉をかけた。
「いやいや、大した化け物でもない。そなたは、まだまだ、若輩者なるぞ」
大坊主は、萬吉太夫の言葉を聞いて驚いた。
「えっ? そなた様は、いかなる人なれば、左様のように申されるのか?」
萬吉太夫は大坊主を無視して笑い続けた。
三
萬吉太夫は、おもむろにつぶやいた。
「われは、都に住む化け物であるが、ここに化け物がおると聞き、会《お》うてみたいと思い、やって来た者にござるぞ」
大声で笑う萬吉太夫に大坊主が驚いた。
それから萬吉太夫は大坊主を睨んだ。
「化け様が、上手か下手か試みて、上手ならば師匠とし、もし、下手ならば弟子にしようと思って来たものじゃ」
大坊主が訝しげにつぶやいた。
「それほどまでに申すなら、そなたの化け技を見よう」
萬吉太夫は即座に答えた。
「心得たり」
「なにに化けるでござるか?」
「それは見てのお楽しみじゃ。待ってござれ、こちらを見るものではござらぬぞ」
「それは、そうでござるのぉ」
大坊主は目を両手で押さえて萬吉を見ないようにした。
萬吉太夫は置いていた葛籠から能装束を取り出して着替えはじめた。
「もう良いでござるか?」
「まだまだ」
「そろそろでござるか?」
「いやいや」
などと申している内に萬吉太夫が叫んだ。
「今ぞ」
大坊主が振り向くと、そこには鬼の装束を着て、般若面をつけた萬吉太夫が立っていた。さすがは般若の面である。近くで見ても迫力があった。
「われこそは、化け物の長なり。無常の風に誘われて、今宵、この屋に現れ出でたる都の鬼神」
大坊主は驚いて、思わす、
「やんややんや」
と、叫んでいた。
萬吉は、
——声援に、やんやはなかろう。
と思ったが、どうやら大坊主は本気らしかった。
萬吉の姿は、誰が見ても見事な鬼神である。その萬吉太夫の姿を目にして、明らかに子供のような顔をし、ニコニコしていたのである。
ここで少し断っておかねばならない。基本的な化け物は、頭が弱かった。良く言えば純粋で朴訥である。悪く言えばアホな存在である。頭の良し悪しは、頭の使い方にある。しかし、多くの化け物には、頭そのものがない。頭を持たない肉体が物事を考えるには、肉体その物を代わりに使うしかない。だが、頭の機能にかなう筈もなかった。だから、少々、抜けたと申すか、天然な言動を取る。それは仕方のないことであった。
大坊主は、ひとつしかないキラキラした目で萬吉太夫を見た。明らかに尊敬の眼差しである。
大坊主は感心して叫んだ。
「さてさて、上手な化け様かな。次は女性に化けられよ」
「心得たり」
と萬吉太夫はふたつ返事で後ろを向き、
「化け様は、見るものではござらぬぞ」
と笑った。
大坊主も心得たもので、ひとつしかない目を閉じて、さらに両の手で塞ぐと、まるで隠れんぼでもするかのように、
「もう良いかい」
とつぶやいた。
今度は化けるのが早かった。衣装の一部を脱ぎ捨てて、ささっと面を変えるだけの早変わりである。萬吉太夫は、今度は女性姿となって面をつけ、美しく舞いながら、ゆっくりと大坊主に呼びかけるのであった。
四
「わらわは、都に住まいする、やんごとなきお方の女房なり。秋風に誘われて、紅葉など愛でんとて、まかり出で候」
大坊主は涙を流して感心し、
「驚くほどの上手かな。今よりは師匠と呼んで頼み申すべし。われは川向かいの榎の木の下に住む、クサビラの化身なり。数年来、ここに住んで、あたりの人を悩ます」
クサビラの化身とは、古びたキノコの化け物のことである。自らを化身と呼ぶからは、精霊の一種が人の気を吸って、あるいは人そのものを喰い、変化したものであろう。時々、このような化け物が生まれることがある。多くは歳を経た樹木の下に住み、人に幻の姿を見せては誘い出し、殺して喰うと言う。その時は、人はほのかに甘い匂いで誘われ、酔ったように死んでゆく。これは実は目に見えない微生物である蟲を化身が操って、生き物を体内から消化する現象なのだが、そう言った難しい理屈については化け物自身も知らなかった。とにかく頭を持たない化け物のことである。人を喰えたらそれで良かった。
萬吉太夫は、まだ女性の面をつけたまま、つぶやいた。
「さて、その方は、なにが禁物ぞ?」
師匠と呼ばせるからは、化け物の弱点を知る必要がある。それが、化け物同士、あるいは人と化け物の子弟関係と言うものである。
大坊主はさっそく弟子に認められたと思い、
「われは、三年になる味噌を、煎じた汁が禁物なり。師匠はなにが禁物ぞ?」
萬吉太夫は、しめしめと思いながらも、厳かな雰囲気で、
「われは、大きな鯛の浜焼きが禁物ぞ。これを食えば、そのまま命も終わり申す」
と顔を扇で隠し、よよと嘆く演技をした。
そろそろ夜明けが近かった。萬吉太夫は、
「明日の夜、化け方の秘伝を伝授いたそう」
と固く約束して笑った。
「ほら、そろそろ、一番鳥が鳴き申すぞ」
大坊主は慌てて、
「では、師匠、ご機嫌よろしゅう」
と告げ、そのまま川へ走って行った。
明け方に走るのは化け物と相場が決まっている。間もなく、コケコッコと遠くで鶏が鳴いた。萬吉太夫は着ていた衣装を脱ぎ、畳んで葛籠にしまうと、よっこいしょと掛け声をかけて背中に担いだ。
「さて、今の化け物の話を、狂言仕立てにしてひと儲けしよか?」
夜逃げ同然で都を出て来た割には前途が明るい気持ちになった。
萬吉太夫は枚方の川から対岸の高槻に渡り、地元の長老に会うことにした。まずは挨拶など丁寧にして、世間話など楽しんでから、
「ところで、枚方の化け物の噂はご存じでござりまするか?」
と、本題を切り出すと、長老は、
「ご存じもなにも、ここらにも時々出て、難儀しとる」
そこで、昨夜の出来事を語り聞かせると、集落の人々が集められ、皆、話し合うことになった。
萬吉太夫は笑った。
「まぁ騙された……としても、煎じた味噌を失うだけやけど」
やがて里人たちが三年になる糠味噌を煎じて、かのクサビラを見つけてかけた。すると、たちまちに、ジミジミと泡を立てて枯れてしまった。それからは大坊主の化け物は出なくなった。
萬吉太夫はその時のことをひとり狂言に作りあちこちで公演してまわった。やがて、傾いていた晋代も盛り返したと言う。『諸国百物語』より。〈了〉
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