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播磨陰陽師の独り言・第497話「最近分かったこと〈後〉」

 確か歴史の時間に、
——縄文時代には文字はなかった。
 と習った筈です。しかし新しい説では、わが国の神代文字である〈阿比留草あひるくさ文字〉が大陸に伝わって、やがて甲骨文字が出来、漢字の元となったそうです。このことを無視して、仮に文字はなかったします。
 だとしたら、ここに不思議な陶器の板があります。縄文遺跡から出土した、サイズは手の平くらいの物だと思ってください。この陶器の板にはいくつかの穴が開いています。指で穴を押さえると計算することが出来るのです。つまり縄文時代に計算器が存在したと言う訳です。この計算器については前にも少し書きました。
 計算器がある以上、計算した結果を丸暗記するか、さもなくば数字にあたるものをメモしなければ使えません。これは計算結果を記録するための〈数字〉が存在したと言うことになります。
 縄文時代には〈縄文尺〉と呼ばれる定規がありました。基本サイズは一尺が35センチ。遺跡から出土する建物の跡は、この35センチの倍数で正確に造られています。倍数が使われていると言うことは、すでに掛け算の概念があったのかも知れません。
 大きな柱を建てる時、柱を内側に2度傾けているそうです。この技法は現代の工法でも使われているものです。それがすでに縄文時代に使われていたなんて不思議としか言いようもありません。角度を付けているからには、角度を測るための道具があったのではと推測することも出来ます。
 円を描くための〈コンパス〉は明治の頃にわが国に入って来たと思われがちですが、実はそうではありません。いつからあったか不明ですが、江戸時代にはすでに使われていました。コンパスの古い呼び名は〈ぶんまわし〉と言います。浮世絵や建築物の丸い部分を造る時、〈ぶんまわし〉が多用されました。このことは北斎漫画の作画テキストの中に使い方の詳細が残されています。〈ぶんまわし〉と普通のコンパスとの違いは、本体が木製であることと鉛筆の芯ではなく筆が使えるようになっていることです。計算した結果や、その時に必要な図はどこに描いたのでしょう?
 今が縄文時代だと仮定して、最も可能性が高いのは地面に直接描くことです。まだ、紙は発明されていません。黒板のような板もない時代です。地面に書いて消せるのに、わざわざ板を造って描いたりはしないと思います。それは無駄な作業だからです。しかも、水を含ませれば、立体的な文字を書いたり消したりすることも可能です。
 数字や文字は各々の文明で独自に生まれ発展したと思われています。しかし世界各国の古い文明を調べてみると、神代文字で解析出来てしまうそうです。つまり古い時代の日本語なのです。それらに気付いた各国の研究者たちは、
——世界の文明は日本で生まれ、日本から世界に広まったのでは。
 と言い出しています。約7000年前、九州の近くで海底火山が噴火しました。その時、縄文人たちが世界中に避難して、地元の人々に文明をもたらしたと言うのですが、確かにその後、世界的に文明がはじまりました。

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