御伽怪談短編集・第二話「仙人の福仏坊」
第ニ話「仙人の福仏坊」
正保元年(1645)の頃のこと。奥州会津領の山中に〈福仏坊《ふくぶっぽう》〉と呼ばれる仙人が住んでいると噂されていた。福仏坊のことは、地元の木樵《きこり》たちも、時々、山中で見かけたと言う。
ある初夏の頃、藩から、
——あの仙人を調べよ。
と命令が出された。
理由は分からないが命令された以上、捕らえない訳にもゆかなかった。拙者、福山三左衛門は、藩の命じるまま、福仏坊の捕縛にあたることとなった。
まず、発見に至るまでが、思いの外、たいへんであった。木樵たちが常日頃見かけると申しても、それはたまたま山中でのこと。大勢の役人が登っても見かけるかどうかも分からなかった。何日か虚しく時が過ぎて、ようやく足掛かりを得た拙者は、同僚たちと野山を駆け巡るも、すでに福仏坊はおらず、すれ違うばかりであった。
毎日、脹脛は痛く、パンパンに張っていた。そんなある日のこと、偶然、福仏坊を見つけた。
「それ、あの老人じゃ」
などと、大騒ぎして追いかけてみると、木の葉を身に纏った姿は、まるで神農さんのような雰囲気であった。禿げた頭に白い髭を蓄え、木を折っただけの杖をついていた。老人と見えたが、やたら速く動く。これではまるで猿ではないか?
やがてようやくの思いで追い詰めて、
「乱暴はせぬ故、大人しく話をさせて欲しい」
と申し出て、クタクタになりながら福仏坊を捕らえることが出来た。
尋ぬてみると、
「本国は伊予の者、若い頃に悪事をして、二十五歳の時、国を出て東国へ下り、この山中に入り、木の実などを食べ、何となく長生きしている」
と語るのだった。
「他に覚えていることは?」
と尋ねてみても、
「はて?」
と首を傾げるばかり、昔のことや年齢などのほとんどを忘れていて、何ひとつ覚えてはいなかった。だからと言ってボケている様子はなかった。受け答えはハッキリとしていたのである。
不思議な老人……と言うものが出会った者の印象だった。あまりに長くひとりで山奥に暮らしていたことから、生きてゆくのに無関係なことを、すべて忘れてしまっているようだった。
親しくなろうと食べ物を出したが、好みではないよう。それでも、甘い菓子だけはいくつか食べた。
やがて、色々と話して行く内に、
「東国へ下った時、途中に、尾張の熱田を通ったことがあった」
と言い出した。
「その寺の鐘を新調した供養に、たくさんの人々か集まっておった」
昔のことで、今でも覚えていることは、これひとつのようであった。
仙人と見られ高齢でもあるのことから、まわりの者もいたわり介抱していた。しかし、何かの隙に取り逃し、深山の奥へ入り、再び出ては来なかった。
この仙人、いったい何歳だったのだろうか?
「熱田の鐘を調べれば分かるだろう」
と、その時の同僚たちも言い、また、後に熱田神宮に尋ねたが、
「お尋ねの鐘はござらぬ。今は総見寺にあると聞いている」
とのことで、まことに不思議な人物であった。
さて、この仙人の話を福山殿に聞いた後、予、秦滄浪は、府下の総見寺の鐘を尋ねたことがあった。その時、ふと、福仏坊のことを思い出し、鐘について尋ねてみると、果して熱田神宮寺の物であった。
寺の僧侶が語るには、
「この鐘は、その昔、織田信雄殿が、父・信長公のために清須に総見寺を建られた時、国貧しく鐘を新調することが出来なかったことから、熱田の鐘を取って、この寺に懸けたものにござる」
とのことであった。
その鐘の銘に、
〈熱田宮・神宮寺・延徳元年十月十三日・檀那浅井備中道慶菴主〉
などと書いてある故、疑いなきものであろう。延徳元年より正保元迄は140年あまり。それに25年を加えれば、160~70歳ばかりの老人と言うことになる。思ったほど高齢でも長寿でもないが、仙人めいて感じたことも道理だと思った。
老人は仙人と呼ばれているが、自称であろうか、正式な仙人ではない。地元で呼ばれているだけの老人である。山に籠って長生きする者の記録はしばしば見かける。彼らの長生きの秘訣は、五穀を断ち、新鮮な空気を呼吸して、山の恵みを食べることである。季節の合わない食べ物や、産地から離れた食べ物は、免疫を低くするのではと思う。また、自然の中にいることも大切な要素であろう。『一宵話』より。〈了〉
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