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播磨陰陽師の独り言・第二百九十一話「牛女のこと」〈前編〉
あれは80年代の初頭のことだったと思います。世間では、まだ、口避け女の噂で持切りの頃でした。西宮(兵庫県)から宝塚へ向かう裏道だったかな、甲山へ抜けるあたりに奇妙な道路がありました。奇妙と言うのは、ある地点で道路の車線が左右にカーブして分かれていたからです。真ん中には何本かの木が生えていました。そこを車で通るたびに、
——あぁ、祟りがあって、切れなかったんだなぁ。
と思っていました。それで道が避けていると思ったのです。
その頃、私は事件屋をしていました。ある時、叔父と、三女……まだ小学生ですが……を連れて、車でその場所を通ったことがありました。
すると、三女が両手で目を塞いで言いました。
「帰りは、ここは通らんといて……」
「なぜ?」
「ここはなぁ、夕方になると牛女が出るんや」
「牛女?」
牛女と言う言葉を聞いたのは、この時がはじめてでした。
「頭が牛で、着物を着た女の化け物やねん」
牛女が知られるようになるのは、その後、何年かして『新耳嚢』と言う本が発行されてからのことです。発行された年は1998年です。私が牛女の話をはじめて聞いたのは、まだ事件屋をしていた頃なので、1984年くらいのことです。
牛女についてウィキペディアで調べてみると、
——牛女の伝承は、ほぼ兵庫県西宮市、甲山近辺に集中している。例えば空襲の焼け跡で牛女が動物の死骸を貪っていたとする噂があった。また、兵庫県芦屋市・西宮市間が空襲で壊滅した時、ある肉牛商の家の焼け跡に牛女がいた、おそらくその家の娘で生まれてから座敷牢に閉じ込められていたのだろうと言う噂などが残されている。
とありました。関西でのみ知られていた牛女が、やがて『新耳嚢』を通して全国的に知られるようになりました。
小説家の小川未明が『牛女』と言う作品を1919年に発表しています。それ以前には、内田百閒が『件』と言う作品でこの化け物のことを書いています。件だけで言うなら、江戸時代にも書かれたものが存在します。しかし、牛女は江戸期の資料で見たことはありませんでした。後編へ続く。
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