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祈りのカタログ・第六話「ちちんぷいぷい」

 とても怪しい人物……小幡勘兵衛は、その著書『甲陽軍鑑』を現したことで有名な人物です。この本は、家に伝わる秘伝の書とした公開されたものです。もちろん、勘兵衛とその息子が最新の研究結果を加筆し、息子の代で完成しました。この本は、江戸時代初期の軍学書で、この中にかの有名な山本勘助と言う人物が〈軍師〉として登場します。それ以外の記録には山本勘助の実在の証拠は載っていません。最近になって山本勘助の実在の証拠が発見されたようですが、まだ、真相は闇の中です。
 小幡勘兵衛は甲州流軍学の祖として、後の世に知られ、なんと、九十一歳まで生きました。彼が三十一歳の時に江戸時代がはじまっています。ちなみにこの時、黒田官兵衛は五十七歳で江戸時代をむかえ、翌年に亡くなっています。
 われわれの伝える播磨陰陽道では戦略を扱います。その戦略は甲州流軍学の流れをくんでいるのです。それはなぜかと尋ねれば、ご存知ですか? 芝居の忠臣蔵の中に、
「どんどんと鳴り響く山鹿流の陣太鼓……」
 と言うセリフがあることを……。
 山鹿流の陣太鼓。美しい響きですね。聞いているだけでワクワクします。
「いざ、戦うぞ」
 と言った感じすらします。
 この陣太鼓は、山鹿流軍学を学んだ赤穂浪士たちが、宿敵、吉良邸の前で打ち鳴らすのです。映画の忠臣蔵の中では雪がシンシンと降っています。実際にその時、雪が降っていたかどうかは分かりません。まぁ、お芝居のお話なので、ドラマチックな方が感動します。
 山鹿素行先生が、亡くなってから十八年後、吉良邸の前に集結した赤穂浪士たちは、
「素行先生ご覧ください。敵は目の前ですぞ」
 と言ったかどうかは知りませんが、敵討ちと称する戦争を、太鼓を打ち鳴らしながらはじめたのです。
 さて、この赤穂浪士たちが尊敬してやまない素行先生は、小幡勘兵衛の弟子でした。
 山鹿素行は師匠である小幡勘兵衛のことを、
「若い頃は、尾畑勘兵衛と名乗っていた」
 と証言しています。
 尾畑です。と言うことは、私の父方の曾祖父は死のまぎわ、
「尾畑を名乗る者は、すべて身内なのだ」
 と言い残して亡くなりました。ですので、ここで登場した尾畑勘兵衛も、身内……祖先と言うことになります。

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