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不幸のすべて・第十三話「なぜ不幸なのだろう?」
昔は、わざわざ泣女と呼ばれる職業の人を雇って葬式の時に泣いてもらっていました。
——葬儀に出た僧侶はその泣女を諭し、人が生きる事の大切さや様々な物事を列席者に教えた。
とあります。ですが最近は泣女を雇うまでもなく、人を諭さねばならない僧侶までが狼狽し、あろうことか、果てには泣いたりもするのが現状だったりします。
多くの不幸は自業自得であるにもかかわらず、そのような状況下では、どんな不幸も自業自得とは考えない傾向が強くなりました。
あげくの果てに、
「なぜこんな不幸にみまわれるのか分からない」
と声を荒だてて主張したり、死んだ子の歳を数えたりすることも普通になってしまいました。
死んだ子の歳は数えないことになっています。昔は常識でした。いつまでも死んだ人に拘っていては、生きている時間が無駄になるからです。人はいつか必ず死にます。死んだ人のことよりも、生きていることを大切に考えるべきだと言うことです。
人は、いつしか自分が死ぬことを、つとめて考えないようになったようです。あるいはそのことを忘れ、突然の不幸に直面した時、はじめて狼狽します。あるいは感情的になり、わざわざ死ななくても良い場合ですら、自ら望んで死を迎えてしまうようになってしまいました。
命はずいぶん軽くなったものです。世の中で、命の価値が重いのは、自分の命の場合になった時だけです。良く考えてください。飛行機が落ちても死なない人もいれば、雪で転んで死ぬ人もいます。人が死ぬのはその者の運命であり、誰か他の者の責任ではありません。
人殺しに出会うとか、事故に遭うとかは、人の死を手助けする出来事にすぎず、多くの病気についても、医者はあなたが自然に治ることを少し手助けしているに過ぎないのです。
死も病も運命による部分が大きく、その人の日々の行いが死期をはやめ、あるいは延ばします。人が死ぬのは運気が落ちる時です。運気が落ちれば病にもなります。それどころか、ありとあらゆる不幸が襲います。
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