1.小さい守り
地球にも日本にも宇宙にもいません。窓の外を眺めると、別世界が広がっています。わたしというやつはアルバイトの面接に行くそうです。一凜はカラスさんの歩く時の跳ねる動作を真似して一羽のカラスさんとものまねのし合いをしています。カラスさんは一凜が招き入れました。カラスさんはごみをあさるカラスでも公園で餌付けされているカラスでもびっこを引いているカラスでもありません。唯一無二のカラスさんです。カラスさんの性別はどちらだったのかいまだに分かりません。幼いわたしが動物園の野原でよだれを垂らしてサンドイッチを食っているのを気高く見下ろしていたのでしょう。「やっぱり卵はうまいなあ」「うん」「やっぱりカピバラのえさやり体験に行こうよ」「うん」「お母さんは片頭痛治ったかな」「うん」
どうでもいいこと。どうでもいいことを並べてもちっとも楽しくない。空気を吸うほうがずっと有意義だった。そんなわたしを狙うものがいました。トンビです。下賤の鳥は隣のカップルもわたしと似たような家族ずれも見境なく襲っています。目が合ったら幼いにも急降下してきました。
(やっぱり卵はうまいなあ)
カラスさんはルール厳守の裁判官で、トンビがわたしのサンドイッチを獲ろうと身体に被さり、そのくちばしが指先をかすめたところを重厚な鳴き声と見事な体躯で追い払ってくれました。カラスさんの憲法には油断している大人は救わないが、幼い子供を襲うの禁止!と書いてあったのかもしれません。わたしはカラスさんに首を垂れてありがとうと言いました。きれいな羽が少し揺れて、かわいかった。
父親はトンビに食われました。上腕二頭筋と言うところの筋肉の繊維をちぎられたのです。父の上腕二頭筋の筋肉を探すためにわたしは肉工場のアルバイト面接を受け続けています。これでみっつめです。大人になったわたしをカラスさんはもう救ってはくれないのかもしれないと思うと、破裂しそうです。カラスさんも寿命がきているはずだから身体もないのです。
一凜とは石畳の道で出くわしました。シャボン玉を吹いて裸の女の銅像に泡をたくさんつけていたら現れたのです。
一凜のお友達になってくれるかな? いいの? いいのか!!!
一凜は一人で舞い上がって、一人で二人分遊んで、カラスさんは何事もなかったようにぴょんぴょんと森に戻っていきます。また来ると確信しています。
肉工場に電話したら丁寧語とため口の混ざったおじさんが出ました。おじさんは人間ではありません。アルバイトの上司に人間はいません。働くことを栄養にして生きているので、同じ仲間かわたしを吟味します。わたしは必死におじさんに自分を説明します。おじさんはへらへらして、土曜日もシフトに入れると言ったらへらへらして。父親の上腕二頭筋もどうでもよくなりそうでした。わたしはおじさんの世界には入場したくはありません。同じ肉をパックに詰める仕事をするにしてもわたしに侵入してほしくはありません。もう何者もわたしに侵入してほしくありません。侵入されないために侵入を許していては元も子もないではないですか。
わたしの小さい守りにカラスさんはいてもおじさんはいりません。
朝焼けです。カラスが鳴いています。森が騒ぎ出し、頬を通り過ぎました。なんだかさびしいです。一凜がそろそろ寝ようかと屋敷に向かって歩き出すと、男と女の団体が海岸を目指し海岸からは銃声が鳴り響いた頃です。
本当にバイトの面接も働くのも嫌です。
カラスさんのところに行きたいです。