4. 〜 朝の散歩
海に人がいるなんてこと知っていました、とっくに。わたしが行きたがらないので彼にはいじわるをしてしまった。
雨の音がする。恵みの雨ににきびは膨らむだろう。
全て知っているような気がするんです。海に行っておこる嬉しさも悲しさも知っているからいりません。だからわたしじっとしていたのに、いつだって分かってくれない。いつだって。最近会ったばかりなのに。そういうことはよくあります。
にきびは沸騰させて消毒しないと毒の塊を飲むようなもので、彼は息をしているでしょうか。このままわたしもこの意識ごと、目覚めないところまで沈んでいきたい。あんな微量を口にしただけなのだから、本気にしないで。
一凜はだるい体を起こして辺りを見渡しました。もう夜は降りきっていて、何も見えるものがありません。にきび畑に落ちて泥まみれになってしまうのは嫌だったので四つん這いになって草むらを倒していきます。意識がなくなる前、壮介がいたところまで感覚を頼りに向かったはずが、手を前に出して振ってみても何にもぶつかりませんでした。
もしかして本当に誰もいなくなってひとりになったのかもしれない。ため息とともに一凜の奥からは灰色の笑いがもれました。雨で寒く、動きがかたくなっていきます。
疳の虫はタンスの引き出しにしまい置いてきてしまったので呼んでも来てはくれないでしょう。このまま夜を越すのは心許なく、寝れそうにもありません。地面についていた左手に水っぽいふにゃっとした生き物が絡みつく感じがして、とっさに声が出ました。
「どこですか」
ふたりで探し合いながらずっと互いにたどり着けなければいいのに。
「ここです」
「ここってどこですか」
「……わたし、海には行きたくありません」
壮介は少しの間押し黙って「嫌なら行くことないですよ」とさっぱり言いきった。
「おれは退屈してるのかもしれません」
「にきびの毒では死ななかったんですね」
何も見えないから何でも言うことができます。
「嫌いです。あなたのこと。昔から嫌なことしかしないんだもの。退屈?そうよね。海に行きたいんだもん。お仲間と遊んで来たらいいわ」
雨が途切れ途切れになり、聞こえなかった音が聞こえ始めます。すぐそこで激しい呼吸をする壮介の影が他の影よりくっきりと見ることができました。一凜はそれまでまともに顔だったり彼の全体を直視したことはなく、薄らと現れたその懐かしさにやられてすり寄っていきたくなりました。そんな自分が憎らしくて唇を噛み、手で拳を作ります。どこか緊張させていないと緩くなって、大きな泥にでもなってしまいそうでした。壮介の手が突然一凜の鼻から口にかけてを覆うようにぶつかってきました。
「好きになれなくてごめんね」
胸がぞくっとして血管が逆方向に運転しているような気持ち悪さです。壮介にはいつもとは違う何か別の記憶が浮き上がってきたようでした。そういうことはよくあります。
「好きなんて一言もわたし言ってない」
「あれ、そうだっけ」
「そうよ。ねえ……それって嫌いってこと?」
「いやあ、そういうわけでもないんだよ。君はちょっと極端すぎるんだ」
壮介の手には土がたくさんついていて、それににきび汁か雨かまたは両方かが加えられ湿っていました。
「中途半端は嫌いなの。分かりにくくて伝わってこないから。あなた、畑に落ちた?」
「起きて君に駆け寄ろうとしたらふらついた」
「それじゃあ、もうだめね。あなた、体だけになっちゃうわ。…空っぽの体って誰に所有権があるのかしら。わたしが好きに使っていいのかしら」
「この体に愛着なんかないよ。ここに来てから鏡も一度も見たことがないし、短かな間の付き合いだったから」
「そう。ならよく考えて使うわ。防弾避けだったり、非常食だったり、わたし、一番望んだ方法では使わないと約束するわ。あなたがわたしのこと好きじゃなかったことちゃんと覚えておくわ」
彼は安心したように手を地面に落としました。
「海に行くよ。君は」
夜が明けて朝が顔を出し始めます。視界は開けました。一凜は壮介だった者の両足を握るとずるずる、にきびが積められた荷車に向かって石のように重くなった体を引きずります。その姿は元より萎んでいて一凜は壮介の容貌を覚えることなく忘れてしまいました。残ったこの体もこんなに大変な力を消費してまで運ぶほど大事に思えません。
どうしようか、と泣きじゃくりたくなりますが、とりあえずほぼ動かない体を引っ張り続けました。ようやく荷車に辿り着き、一凜は瓶を全て転がすとどうやったらここに乗せられるのか途方に暮れてしまいます。左手が痛くて、見ると擦り傷が体のあちこちについています。乾いた泥が鼻を刺激してくしゃみをしました。
その音を聞きつけてか、おやっと言う風に茂みからばばが出てきてランタンの光を右に左に揺らめかせています。
「ばば」
「ああ、恐ろしい。あちこちでにきびが潰れて。せっかくの豊作だというのに」
「ごめんなさい」
ばばはぶつぶつと「わたしはあなたがこの男を見つけた時から悪い予感がしてならなかったんですよ。これで終わったんですね。あぁ、恐ろしい恐ろしい」
と手を合わせています。
「ばば、わたしはこの体を防弾チョッキにしたいし、お腹が空いて耐えられなくなるほど不作になったら食べたいの。だから家まで運ぶ手伝いをしてくれない?」
「一凜さんの言うことになぜかばばは逆らえないのでね。そうしましょう」
ばばは汁だらけになった凄惨な現場をちらと見てまた何か惜しそうな顔をしました。
「手伝うと言ってもばばは力がないんでね。とてもこの男を運ぶことはできません。ですからばばはここで体を見張るついでに休んでおくので馬を持ってきてくださいな」
木の根元に腰掛けるとばばは転がっていた瓶をひとつ取ってぐびぐびと喉を鳴らしながら飲み始めます。ばばにニキビの毒は効きません。なぜだろう。
「馬なんてうちにいたかしら」
「いませんよ。でもあなたの部屋を掃除していた時にばばは馬を見ましたからね。どこかにはいるでしょう」
「そんな…」
ばばは顎で壮介だった体を指し
「早くしないと腐りますよ。ばばも待ちぼうけて腐ってしまうかもしれません」
とにやにや意地の悪い様子で少女のように座っています。
朝は本格的に日差しを強め、散歩日和のように一凜には思えました。
海と反対方向に向かって歩き出したのはちょっとした、彼への当てつけです。
画家さんはよく同じ構図の絵を何枚も描いたりするので、この拙い文章も次の文章への足がかりだと思うことにしました。ポジティブに。